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★仏像展★なら博/トーハク「京都 南山城-奈良×京都」仏像感想&予習!?

運慶展、快慶展、大報恩寺並みに満足した仏像展。木津川は近江・京都・奈良を結ぶ交通の要所で、文化圏としては奈良に近く、市町村の市外局番は京都ではなく奈良の市町村もあるし、神社の社殿が「春日移し(春日大社の古材)」だったり、奈良と京都の良いとこ取り地域。東大寺建立はこの地域の木を川を使って運んだ。だから東大寺一月堂は南山城にある!聖武天皇はここに遷都しているのも事実である。
 平城京から長岡京、平安京に移っても、奈良と京都を結ぶところであり、古都・奈良と古都・京都がコトコトしており、文化の移り変わりが見て取れ、この地域だから生き残った唯一無二のチーム仏像!国宝!がテンコ盛りである!!修験道なども入っており、日本仏教の聖地でもある。

 南山城の歴史や本展示会以外の注目スポットと参拝順をまとめたものをいずれ出します。公開したら次の記事が見れます。

 圧巻!国宝寺!浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来が2018年ごろから修復されていたが修理完成記念ということで特別展の開催ですね。

2018年から始まった修復完了!!やはり開催した!!(浄瑠璃寺より)

 実は2014年に京都国立博物館で『特別展覧会 南山城の古寺巡礼』があったんですよね~。仏像好きは知っている!!奈良と京都の要素と時代の流れを感じられる良質な仏像が多いこと!


▼南山城って?

  • 京都の木津川市、京田辺市、精華町、城陽市、井手町、笠置町、和束町、南山城村、宇治田原町あたり

  • 京都と奈良の間に位置し、京都が山背(山城)と呼ばれていたので「南山城」と呼ばれている

  • 国家中枢との地理的優位性なども含め仏教が早々に広がった地域でもある

  • 京都だが、電話番号の市外局番は奈良のところがある

  • 古墳時代に木津川沿いに800基の古墳が築かれた

  • 水運時代では重要な位置づけ

  • 葛城にいたカモ氏も京都(上賀茂神社、下鴨神社)に移るのだが、一度、ここに腰を下ろし(岡田鴨神社)、貴族のあこがれの地でもあった

  • 東大寺は、大仏殿以外に、二月堂、三月堂、四月堂が有名だが、一月堂は南山城にある

  • 東大寺の木材は南山城から木材を木津川を利用し流したようだ

  • 興福寺の僧が笠置寺や海住山寺を創建

  • 740年、聖武天皇は「恭仁京」を遷都している

  • ここの京を置くことで、西も東も水運で移動できる位置だからここに遷都したと考えられている

  • が、速攻、この京を捨てて、跡地に「山背国分寺」とした

  • 平城京から長岡京、平安京と移るが、古都・奈良と京都の間なので、交通などで賑わう

  • 山々があるため「金胎寺」「新童寺」では山岳修験も流行る

  • 平安時代後期には浄土信仰が流行り、九体阿弥陀如来が多く造られたが、この時代で残ったのが「浄瑠璃寺」の仏像たちである

  • 南山城の代表格「浄瑠璃寺」「岩船寺」は興福寺の末寺で、興福寺繋がりが多く、再興・復興に興福寺がフォローした寺は多い

  • 興福寺と繋がりが強いので春日神社が多いのも特徴

  • 鎌倉時代は、弥勒信仰、観音信仰の地となる

  • という感じで、仏教が長く培われた場所であるため、良い仏像が多い地域でもあり、私が好きな仏像は南山城に多い

▼公式情報

→奈良

展示品(https://www.narahaku.go.jp/wodpr_nh9/wp-content/uploads/2023/07/202307minamiyamashiro_list0630.pdf)

→東京

浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念 特別展 「聖地 南山城(奈良展)」/「京都・南山城の仏像(東京展)」 (@m_yamashiro2023) / Twitter

京都府の最南部、奈良市に隣接する地域は旧国名の山城国にちなんで、いま「南山城(みなみやまし ろ)」と呼ばれています。なだらかな山間を木津川が流れる風光明媚な地であり、仏教の伝来後、7世紀 にはこの地域でも寺院の建立がはじまりました。 南山城が歴史の表舞台に登場するのは、聖武天皇の恭仁京造営によってであり、木津川への架橋や寺 院の建立などに行基の活躍がありました。平城京から長岡京・平安京への遷都以降も南山城は新旧両都 をつなぐ回廊的な役割を果たす地域として、重要性を増すことになります。東大寺や興福寺といった奈 良の大寺との深い関わりのなかで寺院があいついで建立され、また木津川流域の山々は俗世を離れた聖 地として山岳修験の拠点とされました。 鎌倉時代には、はじめ興福寺に学んだ解脱上人貞慶が笠置寺から海住山寺へと拠点を移し、釈迦如来 や弥勒菩薩、観音菩薩に対する信仰を深めるとともに、南都の戒律復興に努めたことが特筆されます。 さらに江戸時代には、各地で念仏を広めた袋中上人が晩年に瓶原[木津川市加茂町]を拠点とするなど、南 山城は各時代を通じて文字どおり日本仏教の聖地でありつづけました。 本展は、5か年に及ぶ保存修理が完成した浄瑠璃寺九体阿弥陀像のうち2軀を修理後初公開するととも に、その優美な姿を寺外で拝することのできるまたとない機会となります。さらに南山城とその周辺地 域の寺社に伝わる仏像や神像を中心に、絵画や典籍・古文書、考古遺品などを一堂に展観することで、 この地に花開いた仏教文化の全貌に迫ります。多彩な作品を通して南山城のゆたかな歴史と文化を再認 識していただくとともに、緑深いこの地域にいまもなお受け継がれる聖地の息づかいをご堪能ください。

PowerPoint プレゼンテーション (narahaku.go.jp)


--各市町村

--他のNOTEクリエータ


▼予習:読む前に観る!

 奈良国立博物店では次の動画が流れていました。

▼予習:全体構成

第1章 恭仁京の造営と古代寺院】
奈良時代の天平12年(740)に聖武天皇が山城国南端に恭仁京を造営し、遷都。天平16年までこの地に都が置かれました。本章では、古代寺院に祀られた仏像や発掘された考古遺品などから、南山城地域に花開いた仏教文化の様相を探ります。
【第2章 密教の広がりと山岳修験】
平安時代初め、わが国に密教がもたらされると、各地の山岳に寺院が建立されました。木津川流域にもあった山岳寺院のゆかりのほとけや南山城に祀られる神々を紹介します。
【第3章 阿弥陀仏の浄土】
平安時代後期には浄土信仰が広く浸透し、9体の阿弥陀如来像を安置する九体阿弥陀堂が多く造られました。本章では保存修理が完了した浄瑠璃寺九体阿弥陀像や浄土信仰の聖地にゆかりのあるほとけを紹介します。
【第4章 解脱上人貞慶と弥勒・観音信仰】
解脱上人貞慶(1155~1213)は興福寺から笠置寺、さらに海住山寺へと拠点を移し、釈迦如来や弥勒菩薩、観音菩薩に対する信仰を深めるとともに、南都の戒律復興に努めました。貞慶をめぐる2つの聖地に焦点をあて、その信仰世界に迫ります。
【第5章 行基と戒律復興】
木津川に架かる泉大橋は行基が初めて架けたと伝わります。文殊菩薩の化身とされる行基への信仰とともに育まれた南山城地域の律宗文化を紹介します。
【第6章 禅の教えと一休禅師】
南山城を代表する禅宗寺院である酬恩庵(一休寺)に伝わった肖像や墨蹟など、一休禅師ゆかりの寺宝を通じて、この地に花開いた禅宗文化を紹介します。
【第7章 近世の南山城と奈良】
近世のはじめに瓶原(木津川市加茂町)を拠点に念仏を広めた袋中良定(たいちゅうりょうじょう)。袋中のように奈良と京都を往来した僧侶をはじめ、多くの人や物資が行き交った南山城の活況を紹介します。

浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念 特別展「聖地 南山城-奈良と京都を結ぶ祈りの至宝-」(奈良国立博物館) | 奈良の観光情報まとめサイト NARABURA (kspkk.co.jp)

▼南山城以外のゲスト仏像など

 神社仏閣単位で紹介します!音声ガイドは木津川市出身の横山由依さんのよう。

#東大寺 :東大寺大仏縁起@重文、善円作「釈迦如来坐像@重文」

 奈良・東大寺には一月堂はない。その理由は笠置寺が一月堂なんである。 国宝「東大寺大仏縁起 下巻」も展示されていましたね!

私のNOTEは次の通り。

#興福寺 :護法善神像

#仁和寺 :弥勒菩薩図像集@重文

私のNOTEは次の通り。

#春覚寺 :快成作「愛染明王坐像@重文」 #奈良国立博物館 @奈良・快成作「愛染明王坐像@重文」

宇陀市の外れにある寺だが、笠間城跡地があり、その麓にある寺。この寺には「地蔵菩薩立像@重文」が安置され、墨書に記している仏師には「快」という文字があり法橋「快成」、小仏師「快弁」など快慶一派(工房)と思わせる仏師が多く、サイズは三尺と快慶の次世代の仏像であろう。現在は奈良国立博物館寄託している。

私の春覚寺メモ書き

→快成作「愛染明王坐像@重文」
 パッと見てわかった。快慶作の三尺阿弥陀如来立像だと。衣文、彩色、切金と保存状態も良い。仏師は「快成」なので快慶工房の仏師だろうか。
 奈良県宇陀市の春覚寺に伝わる仏像で、墨書に法橋快成とあるので名仏師となる。1180年の東大寺兵火の復興に使われた木材で造られたようだ。

→快成作「愛染明王坐像@重文」
 彩色が新しく感じ、切金もしっかりしており、修復したときに色を塗りなおしたと思っていたが、当時のままのようだ。快慶没後に、この地域に慶派がいたのだろうか。

▼予習&仏像感想

 写真が多いサイトを紹介して、私の見仏感想です。仏像を見ながら読む想定でいます。

 以降、本文内の番号は奈良国立博物館の展示番号になります。寺ごとに纏めて見仏記を書きます。
 あと、奈良国立博物館には「ぶつぞう館」があり、そこにも浄瑠璃寺、現光寺などの仏像もあります。そこは「◆仏像館」と記します。

#正寿院 (風鈴寺):◆仏像館:快慶作「不動明王坐像@重文」

 って、いきなり展示会以外の快慶作の不動明王を出す。赤目の不動明王ですね。

私のNOTEは次の通り。

#浄瑠璃寺 :九体阿弥陀如来坐像@国宝、薬師如来坐像@重文×十二神将@重文(120年ぶり里帰り&再会)、大日如来坐像、◆仏像館:馬頭観音立像@重文

→九体阿弥陀如来坐像@国宝
 2体展示されていました。やはり九体揃っての見仏と比較すると迫力が違いますが、360度見仏できたのは良かったです。

→薬師如来坐像@重文×十二神将@重文
 本当に感動的な風景だった。現在、本堂には九体阿弥陀如来坐像が主役になっているが、元々は、薬師如来本尊だった。これは2018年ぐらいだと思うが、住職も言われていたので確かだと思う。展示会・図録では、そういう指摘がある程度に抑えているが。。
 では、展示会の感想です。その前にクリアファイル買ってしまう・・

 薬師如来坐像だが、実は1013年創建の随願寺の本尊説と『浄瑠璃寺流記』の通り、1047年創建時の造立とする2説があるようだ・・。図録では、この地域の薬師如来坐像の制作時代や流れから、1047年創建時の造立の方が確率は高いとしている。納得!
 (今回展示されなかった)南明寺の薬師如来坐像などがここの薬師と似ており、浄瑠璃寺式薬師如来、もしくは、南山城式薬師如来(造語)と呼んでいるのだが、なかなか独特の薬師で見ごたえがある。

 次に十二神将ですね。流出しながらも保存状態の良い仏像群で、切金や彩色も残っている。胎内から「運慶」という文字があった!という明治時代ののメディア情報もあり、運慶作かもという十二神将。なるほど!東京国立博物館の『運慶展』でも展示されたいたのは、そういうことなんだと気づく。
 ただ、2017年、2023年とコンプリートした十二神将を見たが、運慶だとは思わなかった。彩色、玉眼、表情など素晴らしく、新薬師寺、室生寺などと同レベル、それ以上なのは確かだが、慶派ではないかもとも思った。
 2016年の保存修理で、1228年の年紀が記されており、運慶没後なので、運慶作はトーンダウンしたようだ。ただ、運慶・快慶次世代の可能性は大いにあると思う。この十二神将は醍醐寺などの古書・仏画と似ていることから、運慶より快慶工房の方が確率は高いのかもしれない。

現在、東京の静嘉堂文庫美術館と東京国立博物館が分蔵する十二神将像は、浄瑠璃寺三重塔の薬師如来像 とともに江戸時代までは浄瑠璃寺に祀られていました。その後、十二神将は明治17年(1884)ごろまで にすべて寺を離れましたが、今回12軀揃っておそらく初めての里帰りが実現します。実に140年ぶりのこ とです。

PowerPoint プレゼンテーション (narahaku.go.jp)

江戸時代まで同寺に祭られ、現在は東京国立博物館と東京静嘉堂文庫美術館で分蔵されている十二神将像が140年ぶりに里帰りを実現。浄瑠璃寺の佐伯功勝住職は「困難を乗り越えて12体すべてが残り、ここにそろったことがありがたい。緻密な表情をじっくり見ていただけたら」と話した。

奈良博物館で浄瑠璃寺「九体阿弥陀像」特別展 - 修理後の姿2体初公開
https://www.nara-np.co.jp/news/20230712211535.html

 補足します。2017年の東京国立博物館で行われた『運慶展』で十二神将は大集合していますが、親分である薬師如来坐像とセットで見れなかった。2023年、ついに念願のセットで見仏できた。どこかに日光・月光菩薩がいないものか。。チーム薬師になるのに・・。

→大日如来坐像
 慶派の長「康慶」作の可能性があるようだ。これが康慶作なら、天才仏師運慶と快慶作の金剛界式大日如来坐像に繋がるという意味になる。
 なぜ?康慶作かというのは、静岡にある康慶真作の金剛界式大日如来坐像に似ていることからとのこと。

運慶作の金剛界式大日如来坐像@国宝は円成寺(私のNOTE)。快慶作の金剛界式大日如来坐像@国宝は石山寺(私のNOTE

→◆仏像館:馬頭観音立像@重文
 大好きな馬頭観音立像ですね。浄瑠璃寺の住職に、寺に帰ってこないのか?聞いてことがあります。一時期、ぶつぞう館からも姿を消したが、近年復活しました。本当に良い馬頭観音です。

私のNOTEは次の通り。

山口の『西大寺展』に来た理由は、次の通り。 ①浄瑠璃寺の秘仏「薬師如来坐像@重文」 ⇒毎月18日のみ御開帳で普段は「三重塔@国宝」に安置されており、こんな近くで見られない。今年はトーハク『運慶展』で薬師如来を守護する十二神将が42年ぶりに勢ぞろい!!頭の中で思い出しながら薬師如来坐像を眺めた。 ②西大寺『文殊菩薩@重文』 ⇒前から安倍文殊の快慶作「渡海文殊菩薩@国宝」の模倣だと思っていたが、確信が得られないため、近くで見られる時期を狙っていたのだが、やっぱ、快慶作の文殊菩薩とは違うなという感想だった。 ③奈良・般若寺『日本一のプリティー文殊菩薩@重文』 ⇒聖徳太子2才像、16才像と同様に、文殊菩薩2才像という分類を作ったならば、この仏像がNo.1だろう。あべのハルカスは文殊菩薩4体見比べが出来たのだが、プリティさに女性に人気だった。 ④神奈川・称名寺 ⇒清凉寺式釈迦如来と十大弟子が展示 ⑤中国・九州地方の仏像が展示される。

◆山口①part1◆秋芳洞・秋吉台・長府・唐戸・下関ブラリと『奈良 西大寺展』

興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」●運慶展で浄瑠璃寺伝の十二神将がが四十二年ぶりに集結!!近くの海住山寺の四天王と同じく、小さいながらも力強い十二神将だ!!本来は薬師如来の近くで安置されていたのだろう。と勝手に思った。

◆東京②◆イルカショー12頭vs運慶作の仏像21体-東博『運慶』(品川/港/台東)

#岩船寺 :普賢菩薩騎象像@重文

 よく見ているイメージだが初見仏かな・・。いや、小さかったんですよね。それはさておき、やはり象ですよね。めっちゃ笑っているし・・wwこのタレ目って笑福亭鶴瓶氏ですよね。

 現在は本堂内本尊脇に安置されているが、元来は三重塔内部に納められていた。寺伝によると智泉大徳作と伝わるが、智泉は画技にすぐれており、智泉様と呼ばれる画風でもって伯父である弘法大師の指導で騎象像を書写し、この図像をもとに藤原時代初期の仏師によって制作されたと考えられる。一木造りの彩色像で女性的な姿の当時代を代表する優品である
 この像は、法華経に説かれる六本の牙を持つ白像に乗る普賢菩薩で、法華経を信じる者を護持すると言われている

岩船寺公式HP
https://gansenji.or.jp/2023/07/01/post-1657

私のNOTEは次の通り。

#金蔵院 :観音菩薩立像@重文

 本尊秘仏のようです。小さいが白鳳時代の金剛仏で、聖観音菩薩としているが頭には11の穴があるので、十一面観音だった時代もあるようだ。それを証拠に御前立は十一面観音なんだそう。

#常念寺 :菩薩形立像@重文、釈迦如来および両脇侍像 #西念寺 :薬師如来坐像@重文、#西明寺:薬師如来坐像@重文、不動明王四十八童子像、青面金剛像 #西教寺 :地蔵菩薩坐像

→常念寺:菩薩形立像@重文
 
通常非公開で「京都非公開文化財特別公開」で見仏した仏像ですね。久しぶり感があった。博物館で見ると寺で見るより小さく感じたのは気のせいか??
 この仏像は祝園神社のもので、廃仏毀釈などで今の寺に遷されたものである。ただ、昔のものから薬壺を持ち、十二神将が周りを固めていたため、基本的には薬師如来立像とした時代が長いとのこと。平安時代作とのことから、薬師如来立像よりも薬師如来坐像が多い時代との認識なので、今の形が本来の形だったのだろう。というか頭から菩薩ですよね。

→常念寺:釈迦如来および両脇侍像
 
「京都非公開文化財特別公開」で見たのかな・・記憶がないので初見仏にしておく。パッと見て快慶風味な顔の釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩だが、じっくり見ると真似たのか?コミカルで優しげな顔だった。室町時代のよう。

→西明寺:薬師如来坐像@重文
 前述の浄瑠璃寺とは異なる作風の薬師如来坐像だが、それでも南山城式薬師如来坐像と思う。帰って思ったのだが、後述する私のNOTEに書いている「西明寺」とは違う「西明寺」かも・・。
 「西」がつく寺多いよな・・・。

→西念寺:薬師如来坐像@重文
 記憶に残っていたのはこの仏像でしたね。この薬師如来は浄瑠璃寺と南明寺、西明寺とは違い、制作時代の違いもあるかもしれないが、京都寄りの薬師如来ですね。ちなみに、奈良・中川寺の仏像ではないかとも言われている。

→西教寺:地蔵菩薩坐像
 頭でっかい地蔵菩薩坐像。

私のNOTEは次の通り。

#朱智神社 :牛頭天王立像@重文

普賢寺谷(ふげんじだに)の西方、高ヶ峰(たかがみね)山上の朱智神社(しゅちじんじゃ)に鎮座(ちんざ)。忿怒相(ふんぬそう)で炎髪(えんぱつ)を立て、頭頂に牛頭をあらわす。同社は山城・河内(かわち)・大和(やまと)の三国の境界の山城国側に位置しており、外部からの邪気(じゃき)の侵入を防ぐ目的で本像を安置したのだろう。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

 牛頭天王立像!神像ですね。ピースサインしています。この神像も山奥にあったので残ったのかもしれない。って、三面あるな・・。

#松尾神社 :牛頭天王坐像@重文

 先ほどの朱智神社は「牛頭天王」の「立像」で、こちらは「坐像」である。南山城の博物館か歴史館当たりで見仏しているのを思い出した。その時は正面からしか見れなかったが、今回は360度見れた。背面にも顔がある・・・4面だ・・。

#旦椋神社 :代将軍神坐像@重文

 松尾大社(私のNOTE)、大将軍八神社(私のNOTE)クラスの神像たちだ・・( ゚Д゚)

#海住山寺 :十一面観音立像@重文、四天王立像@重文、如意輪観音像、大威徳明王像、愛染明王像、役行者倚像および前鬼・後鬼坐像 院延作、解脱上人坐像、菩薩坐像

 いや~今回のMVPは、海住山寺ですね。これでもかというぐらい、普段見れないものを出展してくれた。

→十一面観音立像@重文

十一面観音立像@重文
海住山寺の本尊。カヤの一材造で内刳(うちぐり)はない。つり上がった眉に切れ長の目の個性的な顔立ちが印象的。古来より観音信仰の聖地だったことを物語るかのように奈良時代の仏像に倣(なら)った表現が見られる。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

 2体の十一面観音立像@重文を安置する古刹だが、一体だけ公開だったのが残念。。見比べしたかったな・・。
 さて、今回展示されたのは本堂の本尊・十一面観音立像@重文。コミカルな顔立ちだが、一木造りの仏像。大安寺の古像にも通じる衣文などで、観音の特徴の膝あたりまである長い腕と、印相が面白い。

→四天王立像@重文

四天王立像@重文
スケールの大きい作風と隙(すき)のない彫技をみせる秀作。各像の形姿および身色(しんしょく)は、鎌倉時代初期再興の東大寺大仏殿四天王像(現存せず)に一致する。建保2年(1214)完成の五重塔に安置された可能性がある。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

 大きな仏像にはミニチュアのモックアップがあり、この四天王は、東大大仏殿の幻の運慶・快慶作の四天王のモックアップでは?との噂がある。
 初見仏は雨の日で寺の五重塔で見仏したが、雨のためサッと見た感じだったのだが、2017年の東京国立博物館『運慶展』で、その意味が分かった。玉眼で切金が残り、細かいところまで丁寧に造られていたので。また、近年判明した運慶作の仏像と似通っていることも運慶展で展示された背景のようだ。この仏像は金剛峯寺(私のNOTE)の快慶作・四天王から広がった仏様式も入り、東大寺の古書に書かれた四天王の記載と一致することが多く、本当に、幻の四天王のモックアップになる日が来るかもしれない。

東京国立博物館 興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」
東大寺大仏殿の四隅には運慶や快慶作の四天王が安置されることになっていたことがわかっている。その四天王はモックアップがあり、その四天王がこの寺だ!!という説がある。今回、同じ目線で見仏したが、邪鬼も玉眼に気づいた!!

↓私のじゃらん旅行記

→役行者倚像および前鬼・後鬼坐像
 初見仏のような気がする。地理的に修験道があったというのは違和感がないが。。
 なんか後補で色を塗り替えたのか、違和感のある三尊だった。仏師は院延という仏師であることは墨書から分かっている。墨書には仏師・定朝摘流とあることから院派の仏師になるが、本当だろうか??図録でも専門家は他に制作記録がないため、謎の仏師としている。

→解脱上人坐像
 感想割愛(m´・ω・`)m ゴメン…

私のNOTEは次の通り。

#禅定寺 :十一面観音立像@重文、文殊菩薩騎獅像@重文

→十一面観音立像@重文

東大寺の別当(べっとう)を務めた平崇(へいそ)が建てた禅定寺(ぜんじょうじ)の本尊。同寺が完成した長徳元年(995)頃の作。意志的な表情や正面性の強い姿は奈良時代の乾漆造(かんしつづくり)の仏像を想起させる。この頃の奈良で展開していた仏像様式を示す大作。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

 隠れた名刹!いや仏像寺で、場所柄から良い仏像が残った!と言っても良いだろう。そんな寺の代表する仏像は「十一面観音立像@重文」ですね。これ、国宝になるのではと思っている。あとは仏師が判明すれば確実になる気がするのだが。。
 いや~2023年時点で、十一面観音の国宝は7体あるのだが、ここの十一面負けていないですよね。京田辺市の十一面観音立像@国宝にも似ているんですよね。細かいところを言えばバランスなど気になるところがあるのだが、顔、衣文が好きですね。
 あと、今回の南山城展で思ったのは頭の上の化仏ですが、丁寧に造っているのがすごくわかる。もしかして、興福寺、東大寺近辺から流れたものではないかと思ってきた。なぜならこの寺は「991年に東大寺別当であった平崇上人によって開基され、その後に平等院末寺となり、藤原氏の庇護によって広大な寺領を有した寺」だからである。

→文殊菩薩騎士像@重文
 獅子は後付けのようだが、獅子に乗る文殊菩薩の古例として重要なものなんだそうな。前述の十一面もそうだが、ヒノキとサクラの木で造られているのが珍しいよう。

私のNOTEは次の通り。

#巖松院 :清凉寺式釈迦如来立像

 小さい清凉寺式釈迦如来立像だった。面白かったのは超前のめりであったことぐらいです。

#寿宝寺 :千手観音立像@重文、降三世明王立像&金剛夜叉明王立像

密教尊(みっきょうそん)の不動(ふどう)・降三世(ごうざんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)からなる五大明王(ごだいみょうおう)のうちの2軀(く)。明治時代まで近隣の恵日寺(えにちじ)(廃絶)五大堂にまつられていた。同市内の正福寺(しょうふくじ)にはかつて一具をなした3軀があり、うち大威徳明王像はこの2軀と同時期の作。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

  本当に千の手を持つ千手観音登場!!この仏像は昼の太陽光と夜の月明りで表情が異なる仏像としても有名ですね。本当に千本の腕を持つ千手観音立像@重文は日本で3体とされているので要注目!!なっている。が、実際は4体あることを私は知っている。後ほど紹介。
 さて、降三世明王立像&金剛夜叉明王立像は、東寺(私のNOTE)の五大明王を模倣しているところがありながら、躍動感を持たせている。台座に注目だ!!

私のNOTEは次の通り。

では、1000の手を持つ寺は「唐招提寺(私のNOTE)」「葛井寺(2023年10月公開)」が噂の3寺です。あとは知る人は知る「妙楽寺(私のNOTE)」ですね!

#神童寺 :超レア!「白不動@重文」&「天弓愛染明王坐像@重文」

→白不動@重文

  噂には聞いていたが、衝撃を受けた仏像寺!
 黄不動だったでしょ!と思っている「白不動@重文」は来ないと思っていたのだが、来ていた。遠くから見てすぐわかった!!三井寺の黄不動に瓜二つ!超レア仏像なんだけどね。ここの仏像は凄いんですよね~。
 仏像展のパネルにも最後に「金不動という説も」的なことが書かれていた。ですよね!!

 この黄不動(金不動)は仏像では滋賀・三井寺(私のNOTE)、京都・三千院(私のNOTE)ぐらいかと。両方秘仏ですが三千院は春秋に見仏可能です。そして、この仏像はある仏画を基に造られてる。その仏画は京都・曼殊院(私のNOTEは2024年公開・・)ですが、2023年に150年ぶり里帰りし、絶対秘仏になるようです。

 本展示会の図録でも、三井寺との関係を示唆していますね。まあ~円珍繋がりということですね。

→天弓愛染明王坐像@重文
 愛!それが愛染明王であるのだが、弓を天井に放とう打とうとしているのが「天弓」である。この様式の愛染は日本で3体しかないんですよね。

私のNOTEは次の通り。

#大智寺 :文殊菩薩騎獅像@重文、五智如来像

『橋柱寺縁起(きょうちゅじえんぎ)』によると、文保2年(1318)に建立された橋柱寺の本尊は行基(ぎょうき)が建てた泉大橋(いずみおおはし)の柱を用材にしたという。本像はこれにあたるとみられ、快慶(かいけい)作の安倍文殊院(あべのもんじゅいん)の文殊像を手本としている。獅子座(ししざ)は後補。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

 やっぱ安倍文殊院(私のNOTE)の快慶作「渡海文殊菩薩@国宝」の模作なんですよね。やっぱ、見入ってしまう美仏である。そして、X線で胎内には小さい文殊菩薩と般若経などがあることは分かっているようだ。これを出せば、仏師などが分かるかと思う。

私のNOTEは次の通り。

 西大寺展に出展され、初めて知った名作の渡海文殊である!

◆西大寺vs法華寺vs般若寺vs大智寺の「文殊菩薩」見比べ対決!!◆
 台座の足乗せの蓮にはべったり乗せずにすぐに動こうと足の親指が上に向いているところが精工です。なかなか、拝観できない仏像なので再会がうれしかったです。なお、2017年の秋に京都の特別文化展で公開確定したようです!!

↓私のじゃらん旅行記

#現光寺 :十一面観音坐像@重文、四天王立像、清凉寺式釈迦如来立像、弥勒菩薩像、◆仏像館:阿弥陀如来坐像@重文

現光寺(げんこうじ)の本尊。引き締まった体つきや動きのある衣文(えもん)が目を引く。貞慶(じょうけい)周辺の関与もと、補陀落山(ふだらくせん)に坐す十一面観音として制作された可能性が説かれる。和束町(わづかちょう)の金胎寺(こんたいじ)には、本像とよく似た弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)が伝わる。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

→十一面観音坐像@重文
 江戸時代に「運慶作」という古書があるが本当かは不明。少なくとも江戸時代には後述の四天王と本堂で安置されたことは確実なんだそうな。十一面観音は立像が多く、坐像は珍しい。坐像と言えば、三十三間堂など本尊や中尊が多い認識。是非是非、見仏してほしい仏像である。

→四天王立像
 見た瞬間、おお~どこの寺の物だ??素晴らしい!!と思った。
 この寺は海住山寺と繋がっており、この寺の秘仏公開時は海住山寺でもパンフレットが貼られている。海住山寺と繫がりが強い寺だが、この四天王は海住山寺のものを参考にしているとしか思えない・・。と同時に多聞天は笠置寺の毘沙門天と同じ仏師か同工房という話なので、南山城仏師集団がいたのか??

→清凉寺式釈迦如来立像
 前述の巖松院と同じく、小さい清凉寺式釈迦如来立像だった。違うのは超前傾姿勢だったことぐらいかな。

→◆仏像館:阿弥陀如来坐像@重文
 小さいですが佇まいが良く、見どころがある仏像です。

私のNOTEは次の通り。

#笠置寺 :誕生釈迦仏立像、毘沙門天立像、梵鐘@重文

 東大寺に一月堂はない。一月堂はこの寺である!ということで古刹です。笠置寺といえば摩崖仏で有名だが、元々の本尊はこの「誕生釈迦仏立像」なんだそうな。この誕生仏を見るとやはり古寺なんだと思った。次に「毘沙門天立像」だが、こちらは鎌倉時代の慶派の影響を受けた天である。浄瑠璃寺の本堂にある四天王@国宝相当の出来で、たぶん、通常時に寺では見せていないと思う。
 ちなみに前述の現光寺の四天王である多聞天と似ていることから仏師は同じか、同じ工房と言われているようだ。

梵鐘は寺院で法要の合図や時報として打ち鳴らされる梵音具(ぼんおんぐ)。本品は鎌倉時代の初め、東大寺の復興の中心を担った重源(ちょうげん)が笠置寺(かさぎでら)に施入したもの。口縁部に複数の切り込みを入れる特徴的な形は、中国の梵鐘に倣ったものか。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

私のNOTEは次の通り。

#法明寺 :釈迦如来立像@重文、吉祥天立像@重文、増長天立像@重文

 この寺は知らなかったし、重文を持つ寺だとは。「釈迦如来立像@重文」は、元は薬師如来立像説もある。違和感があったのは如来の特徴である螺髪でなかったからだろうか。次に「吉祥天立像@重文」は、梵天か帝釈天説もあるようだ。秋篠寺(私のNOTE)と同じチーム薬師形式だということだろうか・。(ちなみに、2023年時点で秋篠寺の梵天と帝釈天は奈良国立博物館のぶつぞう館に展示していた。)
 さて、ここまでは唐招提寺の宝物館の破損仏的な感覚だったが、「増長天立像@重文」は鎌倉時代の慶派の影響を受けている天に見えて目立っていた。右手を振り上げたりしている姿から持国天説がある。
 ということで、仏像の歴史や技術からは重要文化財指定だが、なかなか謎めいた仏像群である。

#酬恩庵 :一休宗純像@重文



#鶯瀧寺 :袋中上人坐像

各地を巡歴して念仏(ねんぶつ)を広め、晩年に瓶原(みかのはら)(木津川氏加茂町)を拠点とした袋中上人の像。袋中が建てた心光庵(しんこうあん)に安置されていたが、のちに近在の鶯瀧寺(おうりゅうじ)に移された。眼窩(がんか)が落ちくぼみ、頰(ほお)がこけた老翁(ろうおう)の姿にあらわされる。

聖地 南山城 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

#観音寺 @和束町:菩薩坐像

 小さいながらも雰囲気を持ち、ファーストコンタクトは御寺の塔頭・悲田院(私のNOTE)に安置されている快慶作「宝冠阿弥陀如来坐像@重文」の菩薩版に感じた。専門家によると、聖林寺の十一面観音立像@国宝に通じとか。

#薬師寺 @和束町:薬師如来坐像@重文

 和束町から宇治田原町の金胎寺に向かう途中にある寺のようだが、知らなかった。仏像を見ると平安時代だなと思い、パネルの説明も平安時代。がっちりした仏像で蟹満寺の本尊を思い出させる仏像。背中を見ると文字が彫られている。達筆なので読むのに時間がかかったら、「明治X年」とあった・・!?えっ・・どういうこと??どうも修復したときに彫ったようだ・・。

#蟹満寺 :阿弥陀如来坐像@重文

 「薬師寺@和束町:薬師如来坐像@重文」と似た顔と似た体系の阿弥陀如来坐像。ここから言えるのは、この地域に奈良と京都の技術を持つハイブリッド仏師がいたのか?

#観音寺 :不動明王二童子

2023年、7体しかない国宝の十一面観音は来なかった・・。
私のNOTEは次の通り。

#川合京都仏教美術財団 :聖観音立像、千手観音立像、馬頭観音立像、十一面観音立像、不空羂索観音立像

 如意輪がいたら「大報恩寺(私のNOTE)」と同じく変化六観音ですね?と思ってしまった。。准胝観音のところは不空羂索観音立像になりますが、これは宗派で違うところなので間違いではない。

  しかし、この仏像群ですが、興福寺だったかと思うが、定慶作の仏像に似ているな~と思った仏像がある。それは「不空羂索観音立像」と「十一面漢音立像」なのだが、まず顔が瓜二つで、顔がでかいのである。展示会で見るとアンバランスというイメージを持つが、仏像は住職や参拝者が拝む場所によって、アンバランスに造る場合がある。つまり、近くで拝むように設計した場合は、頭大き目の見下ろし系になるようだ(確か)。というのを差し引くと、良い仏像なんだなと思う。まあ~しゃがんで見てみてください。 

※注意
定慶と肥後定慶は別人です。

 では、この仏像群は歴史などが面白いので図録から情報を頂きながら私の私見を交えて箇条書きで書き留めておきます。

  • 木津川市「燈明寺」の仏像たち

  • 神仏分離令で荒廃の道へ

  • 1914年、三重塔が横浜の三渓園に移築

  • 1947年、台風被害で解体された本堂も三渓園へ

  • 残った仏像たちは「川合京都仏教美術財団」が収蔵庫を作り安置されている

  • 前述の通り、如意輪が居たら変化六観音(造語)だが、十一面観音立像と不空羂索観音立像、千手観音立像は同じ大きさだが、そのほかは違う大きさである

  • 聖観音立像と馬頭観音立像は同じ作風で康成作とも言われている

  • 展示会では中尊になっていた千手観音立像は他の4体とは異なる作風に見えた

  • 昭和の保存修理で、不空羂索の胎内から、1308年に興福寺四恩院で「一日造立仏」として製作されたことが判明したことから、チーム観音には見えなかったのかも

  • 明治初期の興福寺では十一面観音立像と不空羂索観音立像の2体を本尊とする信仰形態があったことが分かっており、その走りだったのかも説がある

  • 千手観音は作風が違うが、十一面観音立像と不空羂索観音立像と同時代のよう

  • 聖観音立像、馬頭観音立像は室町に差し掛かる時代のもの

  • 近世に「六観音」を記したものがあるようだが、図録では、それはないのでは?としている

▼オマケ(メディア情報)

▼南山城纏め!まだまだこんなもんじゃない!!

▼奈良国立博物館のイベント?答え合わせ

 なんか夏休みもあり、ミッションがあった。正解したら何か貰えるのかなと思ったが、参加したら参加プレゼントと答えが頂けた。

ネタばれになるので以降有料です!?

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