今上天皇の衣装を着る聖徳太子「広隆寺・大酒神社」秦河勝「蛇塚古墳」秦氏【京都】
広隆寺は泰氏の氏寺で、秦氏は渡来人?もしくは帰化人?秦の始皇帝の子孫?イスラエルからやってきた異邦人?と、そのルーツは謎の渡来人。建築技術、治水、養蚕など高度な文化を持ち、平安京の造営にも深く係った部族である。
聖徳太子は言う「私のところにとても尊い仏像があるのだが、誰かこれを拝もうという者はいないか」と問われ、秦河勝が「では我が家で」と応えたのがこの寺の始まりらしい。
蜂岡寺(はちおかでら、ほうこうじ)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院の1つ。
変更履歴
2022/09/11 大酒神社更新、太秦牛祭更新
2021/08/07 初版
▼HP
公式サイトなし
そうだ京都に行こう!
▼セットで行くところ
嵐山ですかね。帰りは阪急で松尾大社まわり。
▼由緒
▽広隆寺
一説には603年に京都市北区付近(今の平野神社周辺)に建てられたとされ、名前も蜂岡寺(はちおかでら)、秦寺(はたのでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)、太秦寺(うずまさでら)など、いくつもの別称を持っている。
奈良県明日香の橘寺、大阪府四天王寺と同じく、聖徳太子が建立した七大寺の一つで、日本書紀には聖徳太子から仏像(弥勒菩薩@国宝)を譲り受けた秦河勝が、この仏像を祀るために蜂岡寺を建てたと書かれていることから、太秦という地名は聖徳太子の「太」と秦氏の「秦」からとも!?
創建はさておき810年、1150年に災禍にあってもすぐに復興していることから、京都で重要な寺であることは揺るぎないだろう。ちなみに、復興に尽力した僧は道昌で讃岐から来たそうな。弘法大師の弟子なのだが、俗姓は秦だったようだ。
▼本尊と祭神
▽広隆寺:聖徳太子像
聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った時の年齢である33歳時の像。
▼見どころ
やはり11月22日の「聖徳太子御火焚祭」ですね。今上天皇(今の天皇)が即位するときに着ていた衣装は、広隆寺に送られ、聖徳太子像が着ることにっています(私のじゃらん旅行記「▼毎年11月22日「秘仏・聖徳太子像」「秘仏・薬師如来像」「お火焚き祭」」を参照)。
▽広隆寺
京都では陰暦11月に社前において火を焚き神楽などで神意を慰め、みかんやお饅頭などが供えられ参詣者に授与されるという慣わしがある。「聖徳太子御火焚祭」は、聖徳太子の命日にあわせ太子を祖神と仰ぐ建築、建具、機織職などの信者によるもので、境内に神事のとき不浄を防ぐために斎み清める場所に立てる斎竹(いみだけ)で神域と俗世界との境界線の結界がつくられる。
あっ、宝物館ですが、写真NGは当然ですが、単眼鏡・双眼鏡類もNGです。
仏像紹介しているサイトを1つ紹介。
→本堂(上宮王院太子殿):聖徳太子33歳立像
603年に聖徳太子が秦河勝に仏像を安置するよう話した時が33歳で、その時のお姿とされる。
1526年に即位した第105代・後奈良天皇以来、歴代天皇が即位大礼に着用した黄櫨染(こうろぜん)の御束帯が贈られることになっていて着用される。
この姿が見られるのは年に1回一般公開される11月22日だけ。ちなみに2019年(令和元年)時点では、上皇が天皇即位したときのもので、今上天皇のものはまだ送られていなかった。
家に帰り、テレビを観ると今上天皇が外宮に参拝している映像で、黄櫨染を着ているのを確認した。残念。。2020年11月22日には聖徳太子が今上天皇のものに衣替えされているかと思います。
→広隆寺 講堂@重文:阿弥陀如来@国宝&虚空蔵菩薩@重文&地蔵菩薩@重文
本尊は「阿弥陀如来坐像@国宝」である。両手を胸前に上げ、説法印を結ぶ印相で840年頃の作。巨大なヒノキの一木で作られている。また、「虚空蔵菩薩坐像@重文」「地蔵菩薩坐像@重文」も注目の仏像である。
なお、2019年は昨年の台風で瓦が落ちる可能性があるので、近づけないようになっていた・・・。
通称「赤堂」。
両手を胸前に上げた「説法印」を結ぶ印相で840年頃の作。この印相も珍しいが、巨大なヒノキの一木で作られているのも見どころ。
また、「虚空蔵菩薩坐像@重文」「地蔵菩薩坐像@重文」も注目の仏像である。虚空蔵菩薩坐像は神護寺にいそうな感じの佇まいで、地蔵菩薩は奈良風に感じる。
最後に、講堂は無料で見仏できる。全国で無料で拝観できる国宝の仏像は奈良・東大寺仁王門の金剛力士像、奈良・法隆寺西円堂の薬師如来坐像、東京・調布深大寺の釈迦如来倚像と少なくお得感満載。
→広隆寺宝物館
入口を入って左側に、秘仏「薬師如来立像@重文」に脇侍「日光菩薩・月光菩薩@重文」、周りに「十二神将@国宝」が並ぶ。十二神将は120cmほどだが、厳しい表情をした迫力のある表情をしており、1064年に藤原資良によって円派の祖であり、定朝弟子・長勢が製作した。
次に、「宝冠弥勒坐像@重文」と呼ばれる「弥勒菩薩@国宝」と、「泣き弥勒」と呼ばれる「弥勒菩薩@国宝」を中心に3体の弥勒菩薩が並ぶ。
-----↓2023/07/16 更新
広隆寺は、現在の太秦と北野に2院り、葛野秦寺と蜂岡寺(広隆寺)が併存したという説もある。
-----↑2023/07/16 更新
「胎蔵界式大日如来@重文」や広隆寺所縁の「秦河勝夫婦像@重文」となる。背後を振り向くと、東大寺や興福寺や唐招提寺など古刹に安置されている、2メートルを超える「千手観音座像@重文」に、両隣は、金堂を安置されていた「千手観音立像@国宝」と一面三目八臂で東大寺に負けないぐらい素晴らしい「不空羂索観音@国宝」が安置されており、圧倒される迫力である。最後は、5体の吉祥天、2体の蔵王権現、埋木地蔵菩薩、毘沙門天が安置され、すべて重文である。
アルカイックスマイルの宝冠弥勒こと「弥勒菩薩半跏思惟像@国宝」は、朝鮮半島から渡来説、国産説両方ある。もう一体の泣き弥勒こと「弥勒菩薩半跏思惟像@国宝」も注目!まだまだ重文が揃っており、興福寺&般若寺&法興寺で有名な「五髻文殊菩薩坐像@重文」も安置されている。その他、「聖観音立像@重文」「如意輪観音半跏像@重文」など国宝・重文ばかり!境内左手にある薬師堂には「薬師如来立像@重文」、吉祥天の面影を持つ「吉祥薬師」という珍しい位置づけの像です。
能楽堂は、薬師堂の隣にある建物で、四方に板張りがされているため、舞台を伺い知ることは出来ませんでしたが、昔はここで能楽が奉納されていたんだと思われます。世阿弥は秦氏ですね・・。
○秘仏「薬師如来立像@重文」に脇侍「日光菩薩・月光菩薩@重文」周りに「十二神将@国宝」
宝物館でチーム薬師(造語)は珍しい。
※チーム薬師=薬師如来+月光・月光菩薩+十二神将
聖徳太子像が開扉される11月22日にのみ開帳される秘仏「薬師如来立像@重文」は吉祥天??に見え、出口付近の吉祥天立像@重文3体を行ったり来たりして見比べていた。噂には聞いていたが、面白い!!左は薬壺を持ち、右手は謎の印相で、一般の薬師像とは似ても似つかぬ極めて珍しい像容。像の彩色はがまたすごい。髪の青、顔の肌色、服の赤や緑、天冠台や衣の裾、また金がよく残っている。おそらく長い間厳重な秘仏であった証拠だろう。
十二神将は120cmほどだが、厳しい表情をした迫力のある表情をしている。1064年のもので、円派の祖であり、定朝の弟子でもある「長勢」が製作したそうな。
○広隆寺宝物館:宝冠弥勒坐像@国宝(弥勒菩薩半跏思惟像)
国宝第一号!
中央の少し薄暗い照明の中に安置され、弥勒菩薩半跏思惟像が3体並んでいる。たぶん、国宝・重文が並ぶのはここだけかと思う。
右手を頬にあて、物思いにふけるようなポーズの半跏思惟像(はんかしいぞう)で像の高さは84.2cm。右手の親指と薬指で円を作り、中指が頬につくかつかないか絶妙な距離感に凝視してしまう。
ドイツ哲学者カーエウヤーパスも絶賛し、「これほど平和を具現化したものは観たことがない」と言ったとか。
この仏像の用材は朝鮮の仏像に多い赤松のため渡来仏という人もいるが、仏像制作方法の技術が朝鮮にはないものもあり、日本製という人もいる。
鉄を輸入していた日本は、製鉄に必要な燃料である大木を輸出していたと認識しており、答えは出ないかもしれない。(年縞からわかる時が来る?)
私は合作でよいかと思っている。つまりは、帰化人と日本人の合作で、ここから仏師が生まれ、運慶・快慶(慶派)などに繋がるんだと。確実なことは、素晴らしい!ということで、守らないといけない!ということだ!
○広隆寺宝物館:泣き弥勒@国宝(弥勒菩薩半跏思惟像)
「泣き弥勒」とも呼ばれ、朝鮮半島から渡来説、国産説と両方ある。寺では「百済国からの献上物」なので前者となるかと。
髪を頭上で束ねて、右手の人差し指と中指が頬に落ちる涙を抑えているような位置にあることから「泣き弥勒」と呼ばれているそうだ。
○広隆寺宝物館:胎蔵界式大日如来@重文
弥勒菩薩の右側に様々な仏像が安置されているのだが、そこにいる仏像たちの一つ。
○広隆寺宝物館:秦河勝夫婦像@重文
神像だと思います。
○広隆寺宝物館:千手観音座像@重文
弥勒菩薩背後には大きな観音様が3体安置されている。
中央には2メートルを超える座像。墨書から1012年に制作されたようだ。千手観音は手が42本あるのが多いのだが、ここは一部の腕をなくしているようだ。
大木が時代とともに少なくなり、一木で作ることが難しくなると、プラモデルのような寄木造が主流になるのだが、この仏像は初期型のため、保存状態は良くないが重文とされているようだ。寺からすれば両脇の国宝よりも大事なのかな。
○広隆寺宝物館:千手観音立像@国宝
像高は266cmあり、体はヒノキの一木造りで作られている。この仏像は好きですね~。
○広隆寺宝物館:不空羂索観音@国宝
一面三目八臂で東大寺に負けないぐらい素晴らしい!東大寺が動ならこちらは静かな。
※八臂=腕8本。
○広隆寺宝物館:その他重文たち
興福寺&般若寺&法興寺で有名なキュートな「五髻文殊菩薩坐像@重文」も安置されている。あとは、聖観音立像@重文、如意輪観音半跏像@重文も素晴らしい!
文殊菩薩は台座は獅子?になり、獅子は立ち上がっているのが多いと思うすが、ここの獅子は猫や虎が日向で気持ちよさそうに寝ているような姿である。
宝物館ラストは5体の吉祥天、2体の蔵王権現、埋木地蔵菩薩、毘沙門天が安置され、すべて重文である。
→地蔵菩薩(腹帯地蔵)
→薬師堂:薬師仏壇像
▽大酒神社
大酒神社は356年建立といわれており、明治時代の神仏分離までは広隆寺の桂宮院@国宝内に鎮座し「災難除け」「悪疫退散」のご利益があると言われている。
今は、広隆寺の山門の外側から右上に鎮座している。この神社は広隆寺建立よりも古く、秦の始皇帝の子孫「功満王」が大酒明神を祀ったことが始まりと言われている。
祭神は「秦始皇帝」、「弓月王」、「秦酒公」で、中国の戦乱を避けて日本にやってきたそうな。
その後、功満王の子「弓月王」が大勢を率いて帰化し、天皇に宝物を献上。さらに弓月王の孫「秦酒公」が、秦氏一族を率いて養蚕から絹を生み出し、その他多くの技術や文化を広めて日本に貢献し、ここを譲り受けたとされる。松尾大社と月読神社の関係がわかる気がする。
ちなみに始皇帝の末裔は大酒大明神を祀っていたため、いつの間にか始皇帝に鞍替えにした説もあるそうな。元々は広隆寺内にあり、明治の神仏分離で別れたので、そのときに始皇帝にしたのかなとも。
最後に、この秦河勝は記紀には出ていないが「大化の改新」後は播磨にいたらしい。播磨には「大避神社」があり、こことつながりのある神社だと確信している。
▽蛇塚古墳
秦氏の首長の墓であると推測されています。嵐電(らんでん)こと京福電鉄の「帷子の辻」から400メートル程南の住宅街の中に残っている。
昔、この近くに住んでいたが、そのときはなんじゃこれ?って思っていましたが。。
▼広隆寺『太秦牛祭』大酒神社
大酒神社の由緒によると、『「牛祭り」では、摩多羅神など異形の面をかけ、風流の冠を着し、太刀を侃き、一人は幣を掲げて牛に乗り、四人は前後を囲み、従者は松明をふり立て行列をなし、祭分を読みあげ、五穀豊穣や悪魔退散を祈願します。』とのこと。
「牛祭り」の面は富岡鉄斎がデザインを手がけたとされる不可思議な表情が特徴で、妻がずっと見たがっているのだが、いつするのだろうか??
摩多羅神役と赤鬼、青鬼役の5人は、祭りの前に「木嶋神社」の元糺の池で禊をします。大酒神社の祭りが、広隆寺の祭りとなり、禊は三柱鳥居のある「木嶋神社」の元糺の池で行われる。
▼毎年11月22日『聖徳太子御火焚祭』-「秘仏・聖徳太子像」「秘仏・薬師如来像」-
口もとに微笑みを浮かべた表情のアルカイックスマイルでおなじみ「弥勒菩薩像@国宝」が2体ある寺。「秦公寺(はたのきみでら)」や「太秦寺」とも言い、秦氏の氏寺。創建は聖徳太子の右腕といわれた「秦河勝」が太子から授かった仏像を祀る為建立したのが始まりで、京都でも最古の寺。京都では陰暦11月に社前において火を焚き神楽などで神意を慰め、みかんやお饅頭などが供えられ参詣者に授与されるという慣わしがある。「聖徳太子御火焚祭」は、聖徳太子の命日にあわせ太子を祖神と仰ぐ建築、建具、機織職などの信者によるもので、境内に神事のとき不浄を防ぐために斎み清める場所に立てる斎竹(いみだけ)で神域と俗世界との境界線の結界がつくられる。
京都では陰暦11月に社前において火を焚き神楽などで神意を慰め、みかんやお饅頭などが供えられ参詣者に授与されるという慣わしがある。「聖徳太子御火焚祭」は、聖徳太子の命日にあわせ太子を祖神と仰ぐ建築、建具、機織職などの信者によるもので、境内に神事のとき不浄を防ぐために斎み清める場所に立てる斎竹(いみだけ)で神域と俗世界との境界線の結界がつくられる。
数万本の護摩木が焚かれる御火焚祭。13時になるとまずは本尊の聖徳太子像が安置されている上宮王院太子殿(本堂)の前に険しい修行を積んだ山伏たちが集まり、本堂内では住職やお坊さんによるお経があげられます。
約30分ほどの法要が終わると、本堂の前で法螺貝を吹く山伏と合流をし、薬師堂前に組み上げられた護摩壇(結界内)へと移動していきます。
神社仏閣の祭りでよく見る矢を四方に放つ祭事。
護摩壇に次々と護摩木の一種、乳木など放り投げ数々の作法を繰り返し1時間以上の時間をかけて燃やします。本尊の聖徳太子像は16時まで、薬師如来像は17時まで開帳される。
▼旅行記
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