国生み淡島は眉山!?淤能碁呂島は渭山!?
やまとみずほの国に生まれて 第三十七話
第三十五話「狭穂姫忘れ形見復讐に現る八幡神は秦氏」、建内宿禰が秦氏を率いて、第十六話「神武東征への旅立ちの前に」、奈良北部の正統皇太子の忍熊王を討ってから、紀淡海峡と鳴門海峡を渡り、タラシ王朝を陥落した。第三十二話「白鳥神社を特定したら倭の五王が出現」の通り、舞台は讃岐。記紀は難波に宮を構えたと記録するが、難波は「なみはや」渦の潮である。
タラシ王朝は、崇神王朝(イリ王朝)、応神王朝(ワケ王朝)、継体新王朝の三王朝交替説に埋没没しているが、この三王朝は繋がっている。応神天皇は垂仁天皇皇子と語った。渦潮見下す大鳴門橋を渡っても、四国じゃない。応神天皇の難波大隅宮やその子の仁徳天皇の難波高津宮があった大毛島だ。継体天皇が生まれた高島もある。大隅は島の最北、高津は高島の港である。
紀貫之が土佐日記に書いた、土佐泊の西にある小鳴門橋を渡って漸く四国。島に宮を構えたのは攻められる心配をしたから。自らが攻めた証拠になる。記紀には記録がない四国だが、万葉集には難波宮から眉山を望んで、その名の由来となった歌が残される。大阪からは淡路島の山並みしか見えないが、天平六年(743年)聖武天皇の難波行幸に従駕した際の作とされている。
眉のように遥かに見える阿波の山
その山を目指して漕ぐ船
停泊する港はどことも知れないのだ
紀貫之は平安時代、この時は土佐泊はもちろん無かった。しかし鳴門海峡を船で渡るならここなのだ。仁徳天皇皇后の石之日売は、次世代の履中天皇、反正天皇、允恭天皇を生むが、嫉妬深かった。妃として宮へ入った黒日売が吉備へ帰郷してしまう。黒日売は相当の美人だったのか、仁徳天皇は淡路島を見たいと皇后に嘘をついて追いかけるが、これは吉備が和歌山の証拠だ。
是に天皇、其の黒日賣を恋ひ、大后欺き「淡道嶋を見むと欲(おも)ふ」
と曰いて幸行する時、淡路島に坐して、遥に望みて歌ひて曰く
『押してるや、難波の崎から出で立ちて、我が国見をすると、
アハ島 オノゴロ島 アジマサの島も見える、サケツ島も見える。』
乃ち其の島傳いて、吉備の国に幸行する。
「淡路島に坐して」だから、淡路島から見た景色だし、「其の島傳いて」のその島は歌の前文に繋がるから、淡路島沿いに水行だろう。難波が大阪なら淡路島へ寄り道もいいが、岡山へ行くのに淡路島沿いは無茶苦茶遠回りだ。出来たら途中で追いつきたいのなら、難波が大毛島ならもう淡路島に渡るはずもなく、淡路島沿いに水行し、紀淡海峡を渡って行き着く先は和歌山だ。
「サケツ島」原文は「佐氣都志摩」、「難波の崎から出で立ちて」原文は、「那爾波能佐岐用、伊傳多知弖」。崎は岬と同じ意味、佐氣都は佐岐の都、出で立ちては、淡路島に渡って直ぐのはず。土佐泊を出港して、着いた先は阿万海岸辺りでないと、大毛島は見えない。残念ながらオノゴロ島の定説である沼島は山影に隠れる。アジマサは東アジア亜熱帯に生息しヤシに似る。
紀伊水道に遮るものはなく、伊邪那岐が禊で生まれた奥津三神を唯一祀る、當所神社が鎮座する伊島を望める。長国を開く国津神が最初に上陸したが、その伊島の隣の棚子島は椰子島に見間違う。「アハ島 オノゴロ島」原文は「阿波志摩 淤能碁呂志摩」だ。神功皇后が突然の嵐に祈ったことが起源の淡島神社総本社を、友ヶ島の神島では不便と加太に移させたのは仁徳天皇。
淤能碁呂島は言わずとしれた、国生み神話の最初の島、粟国を開く天津神が最初に上陸した。次の水蛭子は流されたから当然としても、その次の淡島も子には数えない。その淡島と淤能碁呂島が同時に見えた。これは眉山と渭山しか候補がない。蜂須賀家が築城して渭山は城山になった。当時は海岸線が迫る海城だったから、眉山も島に見えるのだ。そして城山には清玄坊神社。
築城時に清玄坊は立ち退かなかったから、謀殺された。神社に祀られるのは祟りがあった。立ち退かないのは、卑弥呼後継の台与、万幡豊秋津師比売が祀られていた。第十四話「神武は瓊瓊杵の子?瓊瓊杵は台与の子?」、今は眉山東麓の春日神社の境内社、天石門別豊玉比賣神社だ。お伽噺が有名になったけど、綿津見神の娘の豊玉毘売を祀るのは、和多都美豊玉比売神社だ。
「渭山」は西から見ると猪を伏した姿に見えた猪山?伊国が生まれた伊山?