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持統の天武の継承を裏で糸引く不比等

やまとみずほの国に生まれて  第四十五話

藤原京藤原不比等の命名と考えていた。しかしそこまで不遜じゃなかく、後世の学術用語だった。仮称だったがみんな使うから本称となる。日本書紀に記されるのは、新たに増した京の意味を持つ「新益京」だ。しかしそれは阿波にある。第四十四話「壬申の乱は明治政府の阿波隠し」、近江難波鳴門市飛鳥小松島市にある。天武天皇は陥落した大津に宮は構えない。

壬申の乱翌年の673年に飛鳥浄御原宮を造営し、崩御するのが686年。後を継いだ持統天皇は飛鳥浄御原宮に留まる。持統天皇は天武天皇の皇后、夫婦揃って明日香村に合葬される。盗掘されて宮内庁治定に自信を持つが天武天皇の頭蓋骨は1235年まで白髪が残り、天皇として初めて火葬された持統天皇の証拠は無い。銀の骨壺は盗まれ遺骨は捨てられたことにした。

本当は阿波にあるから治定は大変、夫婦ニ代まとめて手間を省く。持統天皇の大きな功績は飛鳥浄御原令制定と藤原京の造営、天武天皇の遺志を継ぐ。  
天武天皇が律令制定を命じたのは681年、完成前の686年に崩御すると天武と持統の子にて皇太子の草壁皇子が689年に急死する。即位を服喪が明けるまで待った。草壁皇子が4月に急死すると、慌てて6月に頒布する。

持統天皇の即位は翌690年、前年10月2日に大津皇子謀反が発覚して、翌3日自害と細かく記されるのが怪しい。大津皇子のととさんは天武天皇、 
かかさんは大田皇女、持統天皇と同じ天智天皇皇女。二人の母は遠智娘蘇我倉山田石川麻呂の娘だ。持統天皇は乙巳の変の年に生まれ、大田田女はそれより早いが、667年に早逝したから立后したのは持統天皇となった。

大津皇子謀反の前振りに679年吉野の盟約が嘘に拍車をかける。天武天皇は六皇子に争わずに協力するよう誓わせる。川島皇子志貴皇子は天智天皇の御子で、草壁皇子、大津皇子、高市皇子忍壁皇子は天武天皇の御子だ。持統天皇も同席し、天武天皇が六皇子と抱擁した後、なんと持統天皇も続いて抱擁する。自分の息子がかわいいからみんな草壁皇子に従ってと頼んだ。

姉の息子の大津皇子も葬る。これでは恐くて逆らえない。持統天皇は息子の急逝ではへこたれず、孫に継承するべく自ら即位する。天照大神瓊瓊杵尊天孫降臨させる、天孫とは正に孫。孫の文武天皇へ皇位継承の正当化だ。文武天皇のととさんは当然草壁皇子だが、かかさんは元明天皇、天智天皇の第四皇女、即ち持統天皇の異母妹だが息子の正妃だから嫁姑の関係になる。

天皇系によくある叔母甥の異世代婚は複雑な関係を生む。元明天皇のかかさんも蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘。持統天皇と元明天皇は異母姉妹にて、 かかさん同士も姉妹。第四十二話「入鹿の斑鳩宮の焼討は乙巳の変の引金聖徳太子は創作とした際、母方の祖母が蘇我馬子の娘の小姉君。姪娘はその小姉君を想像させる。皇后が皇位継承するため歴史を塗り替え前例にした。

聖徳太子を創作したなら、推古朝も創作の疑いがあり、藤原鎌足をヒーローにするため、乙巳の変も創作かも。神功皇后神皇正統記は第15代天皇と記すから、持統朝なら女性天皇の前例になる。もちろんも神功皇后も創作。孫に皇位継承する前に、女性天皇となるのが大変だった。そのため天照大神を男神から女神へ変身させて皇祖神にし、その父の伊邪那岐には遡らない。

天武天皇が即位と同時に673年に命じた国史の編纂だが、古事記が完成し 元明天皇に奏上したのは712年。持統天皇697年、文武天皇も707年崩御。しかし藤原不比等は、659年に生まれ720年死没。天武朝の後、 持統、文武、元明、元正天皇に仕える。飛鳥浄御原令は班田収授も規定して評価されるし、飛鳥浄御原宮は持統天皇が藤原宮へ移す694年まで続く。

飛鳥浄御原宮は重要な土地だから、その痕跡も残るはずだ。小松島市大林町宮ノ本宮免東宮神社の名が残り、その西の小松島市立江町にも、宮前の名が残る。文武天皇は倭根子豊祖父天皇、藤原宮。元明天皇は阿陪皇女、 藤原京、平城京である。藤原京の建設を命じたのも天武天皇だ。天武天皇の崩御より工事は一旦中断するが、持統天皇が再開させ694年に完成する。

しかし歴史学者を不思議がらせる31回の吉野行幸。天武天皇を偲ぶとか、威光を意識させたと言うが、飛鳥や藤原宮から山越えして、奈良の吉野川に出るのは大変だし、吉野川に出ても奈良の吉野宮とされる宮滝まで舟だけでゃいけない。第六話挿話「黄泉比良坂に倭国大乱の暗号」、しかし藤原宮が阿波鴨島なら頻繁な行幸も納得できるし、柿本人麻呂の歌と矛盾しない。

持統天皇吉野行幸の折の柿本人麻呂讃歌
やすみしし 我が大君のきこしめす 天の下に国はしも
さはにあれども山川の 清き河内と御心を 吉野の国の花散らふ
秋津の野辺に宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は舟並めて
朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の絶ゆることなく
この山のいや高知らす 水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも

奈良の宮滝は名ばかり、滝もないし舟も浮かばない。しかし三野町加茂野宮空海が開いた新四国曼荼羅霊場の六十七番札所滝寺。由来は落差20mの竜頭の滝と落差40mの金剛の滝だ。さらに上流の美濃田の淵は景勝地にて観光船が出ている。鴨島から加茂野宮は余裕の船旅だ。上下島若宮八幡神社の辺りに藤原宮があった。上下島は元々カミシモジマ、つまってカモジマ。

平城宮第一次大極殿高御座に座った最初の天皇は、元明天皇?元正天皇?

#日本史がすき

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