ことばの多面性と限界で遊ぶ営みとしての“詩”。ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を読む(3)第7章「遊びと詩」&第8章「詩的形成の機能」
文化の読書会、前回からヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中公文庫版)を読み始めました。ちなみに、講談社学術文庫版もあります(持ってます)。
今回は、メンバーで関心のあるテーマの章を採り上げて読み合うかたちをとります。私は、詩をめぐる第7章と第8章を読みます。
いちおう、本書の構成を自分の備忘のために書き留めておきます。
摘 読。
第7章|遊びと詩
第7章において、ホイジンガは詩的創造について問う。というのも、高度に組織化されてしまった社会形態のなかでは、宗教、科学、法律、戦争、政治が、明らかにそれらの生まれ育った初期の段階では十分に保っていた遊びとの接触を次第に失っているのに対して、詩をつくるということは今なお依然として遊びの領域にとどまっているからである。その意味において、ホイジンガは詩作を一つの遊びの機能であると指摘する(第7章、291頁)。そして、詩を「真面目の彼岸」に立つものと位置づけている。その際、ホイジンガはジャンバティスタ・ヴィーコやベイコンを引きながら、poesyがもつ多面性とそこに通底する遊びの感覚を引き出そうとする。
この詩ないしpoesyの多面性という点において、ホイジンガは詩が美的機能のみを有する、あるいは詩は美学的基礎からしか解釈したり理解したりすることができないという説を斥ける。ことに、古代において詩は典礼的機能を強く有していた。古代の詩はそのまま祭祀、祭礼の余興、社交遊び、技芸、腕比べであり、謎の課題、訓育、説法、呪法、予言、そして競技であった。そういった特徴を持つがゆえに、ラテン語でいう詩人ウァーテース vatesとは憑りつかれた者、神に充たされた者、物狂いした者のことをさした。これらの基底には、その人が人並み外れた知識を持っていることを含蓄している。古代ギリシアにおいて、ソフィストが登場するまで詩人は民衆の指導者であったという。
こういった点からも、詩は遊びのなかに遊びとして生まれたものであり、奉献された聖なる遊びなのである(297頁)。しかも、それはいつも悪ふざけ、冗談、娯楽と境を接しあっていた。詩が美の衝動の意識的満足と呼ばれるようになるのは、まだかなり先のことである。むしろ、詩的活力はすべてを引きずり込んでしまうような陽気な古代社会の社交遊びや、いくつかの集団の間で激しく高潮する競技などにも変化した。マラッカ群島やティモール島北東部などには、社会的・闘技的な詩が残っていたというし、ラナと呼ばれる地方では結婚式の引き出物の儀式的な交換のときに、「先行きと追いかけ」型による詩的応答が繰り広げられていたという。ホイジンガは、俳諧や歌垣にもこの点を見出している。さらに、闘技的な基盤に立って、法廷的あるいは政治的なところでも、詩は用いられていた。
そういった多様な面を併せ持ったものが神話であったと言える。神話はつねに詩として表現される。そこにおいて「真面目」な面は明らかにある。しかし、むしろより重要なのは神話が「理性など追いつくことのできない高みへ、遊びながら翔けのぼっていく」(312頁)という点にある。人々は神話を神聖で神秘的な性格において受け取った。そして、その姿勢は、無条件に率直であった。しかし、単に真面目というだけではない。そこには、ある種の諧謔ともいえるものがあった、そうホイジンガは提起する。神話の「人間が捉えた事物を理解し、それを正しく再現する」という機能は、早くに廃れてしまったが、美的な機能と典礼的な機能が失われることはなかった。
それを可能にするのが、詩的形式である。韻律や聯の型、戯曲的、抒情的、叙事的など、表現形式もさまざまである。一般的に何かを物語って伝達するというモティーフがあることも共通している。こういった点は、人間の協働社会のすべての時代を通じて存在する。その意味で、詩とは形式を持つ言葉による自己表出であり、それは文明生活よりも古く、より根源的な機能にもとづいている。ヴァレリーが「詩は言葉、言語による遊び」と指摘したのも、文字どおりの意味においてそう言えるのである。
同時に、詩は競技のなかに養われてきた。ことに、その言語は誰にでもわかるわけではない特殊なイメージ、形象をことさら用いて表現するという点で、日常言語とは異なる。何かを語るというのは、イメージ、形象のなかで表現をするということであり客観的に存在しているものと、人間がそれを理解するという行為のあいだに落ち込んでいる深淵は、存在しているものを形象に変える働きが放つ一閃の火花によって、橋を架け渡すことができるだけなのである。イメージを創る形象の言葉が、事物を表現のなかにくるみ、それに概念の光を当てる。イメージのなかで観念とものが統一されるのである(322頁)。日常言語は、逆にこの形象性をそぎ落としたところに成立する。この意味でも、詩的言語が形象を用いてするのは、遊びに他ならない。遊びのなかでそこにある秘儀を含蓄させ、謎に対する答えを示すものとなるのである。
このように、詩は単に文芸作品としてのみならず、社会の諸関係を調停し、知恵、法律、道徳の担い手ともなった。そこにおいては、必ず遊びの本質が含まれている。ところが、現代に近づくにつれて、文化は全体として「真面目」なものになり、法律、戦争、経済、技術、知識は遊びとの触れ合いを失っていった。その最後の高貴な砦こそが、詩なのである。
※ここに、おそらくホイジンガは第一次世界大戦がもたらした帰結を念頭に置いているのではないか。
第8章|詩的形成の機能
第8章では、第7章を承けて詩的形成の機能が論じられる。詩においてどのように形象化/表現がなされてきたのか、という点である。具体的には、隠喩や擬人化などである。それらを通じて、詩は言語の形象化の機能はもちろん、より根源的な要素としての表紙や抑揚、リズムを通じて、人を恍惚状態に至らしめる。とりわけ抒情詩は論理から最も遠く隔たり、舞踊や音楽に最も近いという点で、もっともその特徴を有している。
ただ、詩は本質的に遊びのものであるにもかかわらず、例えば叙事詩がただ読まれるものとなってしまったり、抒情詩が音楽とのつながりを断ち切られてしまったりすると、遊びの機能として理解されることがなくなってしまう。
その点で、戯曲だけはどんな場合にも実演であるがゆえに、遊びとのつながりを断ち切られない。戯曲は単なる舞台文芸ではなく、もともと演じられた礼拝式であった。それが上演される雰囲気はデュオニュソス*的な恍惚や祝祭的陶酔、ディテュランボス**的熱狂であった。そのなかで役者は化身し、それを現実化するなかで観衆をも引き込んだ。その点で、ホイジンガはここまで言うているわけではないが、詩は単に個人の詠出にとどまるものではなく、上演的(performative)な営みであり、詩的な技法はそれを可能ならしめるために人間が編み出してきた表現のためのやり方であって、そこには「遊び」という面と切り離せないものがあるとみることができる。
私 見。
この2つの章で、ホイジンガが詩を美的衝動に立脚する文芸性からのみみるのではなく(それを排除しているわけではない)、共同性に立脚した「遊び」から捉えようとしている点は、きわめて興味深い。興味深いといっても、おそらく日本でも民俗学的なアプローチにもとづく文学研究において、この点はすでに指摘されていたようにも思う(それらがホイジンガを参照していたかどうかまでは知らない)。また、日本における詩文芸の代表格である和歌も、もちろん四季の美を詠ってはいたが、それとても勅撰和歌集という公式の権威によって秩序づけられたものであって、歌人がそれぞれに心の赴くままに詠んだというのともちょっと違う。さらに、自らが官職を得られないことを嘆いた和歌もある。もちろん、そこに美的効果を狙っている面もある。さらに、男女のあいだでの和歌のやり取りも数多ある。和泉式部の和歌などは、きわめて情熱的であるが、同時にそこでの関係性に遊んでいる感も濃厚である。
また、イタリア語の原詩をよまないとわからないところではあるが、ペトラルカのカンツォニーレも、おそらくは詠われる(日本的に言えば、朗詠とでもなるのかもしれない)前提の詩であるようにも感じられる。
そういうことを想起すれば、近代的な意味での文芸性というのがかなり局限的なものであると考えてもよいだろう。むしろ、文芸性というか詩性(それこそpoesyか)とでもいうべき何かは、美的衝動も含みつつ、同時に多面的な要素を含んでいる、言い方を変えれば、多面的な要素をaestheticな効果のもとに多重に響き合うように言語で表現することとして理解できるかもしれない。第7章での形象論のところは、まさにその主張として受け取ることができる。このあたり、ローマン・ヤコブソンの詩的言語論とどうかかわってくるのだろうか。ホイジンガが過去から現代へと辿ってくるようなアプローチであるのに対して、ヤコブソンは現代的な視点からのようにも思えるが、さて。
さらに、まさに近代的な視座から文芸/文学作品の「文芸学的還元」を試みた岡崎義恵に“抗して”中村三春(←学統としては、まさに岡崎義恵の系統に属する)が、ポール・ド・マンの修辞批評などを参照しつつ「雑音調〈例外状態〉の文芸学」を提唱しているのも、この第7章と第8章の議論にかかわってきそう。
ともあれ、この第7章と第8章の議論は、第10章にも続いているように思われる。
さて、真面目が支配するとホイジンガがいう19世紀以降、つまり近代において、詩が社会に占める地位は小さくなってしまった。もちろん、詩が詠まれなくなったわけではない。むしろ、多くの詩が詠まれ続けている。しかし、詩をよむことの共同性あるいは共鳴性のような面は減退しているのも事実だろう。ことに、日本の場合は、長らく政治的な側面を含みうるのは基本的に漢詩であって、和歌ではなかったこと、それゆえに詩が持つ政治性(党派性のことではない)を言語表現として十分に持ちえなかった(とはいえ、落首や狂歌といったものはある。しかし、個人的感懐とそれへの共鳴にとどまり、共同的な政治に及ぶことはなかったといっていいだろう)。このあたりは考えてみると興味深そうにも思う。
そういえば、ポール・クローデルという詩人は、外交官でもあったのよな。