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生と死、聖なるものをイメージにあらわす。際限なき想像力。ホイジンガ『中世の秋』を読む(3)第10-12章。


前置き。

ホイジンガの『中世の秋』(中公文庫版)も、いよいよ上巻の最後。最近のような科学的体系性というのとは異なるスタイルで、読みながらいろいろと話が拡がっていくのでおもしろい反面、たいへんでもあります(笑)

さて、今回も引き続き、こちらを。

摘 読。

今回は第10章から第12章まで。第10章では〈生〉、とりわけ田園詩に代表されるような面がとりあげられ、第11章では〈死〉あるいは死に向かう〈老い〉や〈衰え〉が題材となっています。後者のほうが話が分厚いというのも、中世の特徴を示しているのかもしれません。そして、第12章では〈信仰〉。しかも、宗教秩序にどうしても納まりきれないところが論じられています。ちょっと肩の具合がよくないので、あまりたくさん書けませんが。

第10章|牧歌ふうの生のイメージ

騎士道にのっとる生活形式は、審美、特性、社会有用の3つの理想を背負い込みすぎていた。それゆえに、現実感覚からは懸け離れたものとなっていた。騎士道理想を担うべき貴族の生活は、徳性という面からみれば破綻していたし、審美的観点に立ってみても破綻していた。ここから遠ざかるには、一つには現実に活動する生活、近代の探求の精神への道、もう一つには世俗否定への道の2つがあった。このうち、後者はさらに2つに分かれていた。一つは霊の生活へと真っ直ぐに通じようとするものであり、もう一つは世俗の外縁をまわり、どこかに俗世の生の美しさがあるとみるものであった。

このどこかに俗世の生の美しさがあるとみる幻想が、宮廷生活に対する積極的な対立と、消極的なあらわれとの交差点において、田園詩として具現化した。この田園詩に描かれる生活に、人々は単純な生活という理想の古典的表現を見出した。

ただ、こういった田園詩は詩句上にある宮廷生活のむなしさを本心から詠いあげたものであったのか。ホイジンガは、宮廷生活の対極にあるかのような田園詩は、宮廷生活そのものに暮らす貴族にとってのフィクションであり、「模倣」であったと指摘する。つまり、現実生活に溢れる粗野や我欲、もろもろの罪からの解脱を望んだのである。

フィクションとしての田園詩は、それを読む人(それは、基本的に貴族男性であった)が自らを田園詩の主人公たる羊飼いと観じたときに、その感情世界を展開させた。ことに、エロティシズムにとって、田園詩が描く自然についての感情表現は重要なものであった。このような流れのなかで、田園詩が描く「羊飼い道」は騎士道と並んで、宮廷人の理想として受け入れられた。そうなると、宮廷生活で生じていることが、田園詩に反映されていった。そして、それが仮想舞踏会や仮想劇として、祝宴に興趣を添える余興となった。

ただ、こういった田園詩的な世界も、結局のところは嘘偽りのものとする断罪を免れるものではなかった。さらに、女性の側からも抗議の声が上がった。この田園詩で描かれる愛の諸形態も男性側がつくり出したものであった。中世において、女性蔑視の傾向は変わらなかった。にもかかわらず、美しい愛の遊戯は、騎士道のスタイル、田園詩ふう、あるいは『ばら物語』のアレゴリーの図柄のうちに、展開され続けたのである。

こうみてくると、ヨーロッパにおける田園詩と、中国における陶淵明などのような実際に隠遁した詩人による詩との相違が頭をよぎる。ちょっとメモとして書きとめておきたい。

第11章|死のイメージ

15世紀、人々はつねに「死を想えメメント・モリ」という声に迫られていた。中世初期においても教会関係の論述は、死を想えと熱心に教えてはいたが、すでにこの世を捨てた人々の手にしかわたらなかった。それが、托鉢修道会の成立以後、民衆のなかに広まり、あたりを圧する大合唱にまでふくれあがった。

中世末期になると、この思想を伝える新しい表現形態が登場した。木版画である。説教と木版画、この2つによって、死の思想は人々の心に直接鋭く激しくはたらきかけた。これは、世に終わりがあるということを人々に強烈に刻みつけた。そこには、3つのメロディがあった。一つは、かつて栄光一世を風靡した人々、今いずこにあるというテーマ。二つめには、ひとたびはこの世の美と謳われたもの全てが腐り崩れていくさまをみて、恐れ慄くというテーマ。そして、三つめは、この世のなりわいを問わず、老幼の別なく、詩はすべての人を引きずりまわすという死の舞踏。このうち、最初の一つめは過去への憧憬から生まれる悲歌エレジーでしかなかったが、あと二つは胸を締めつけるような恐ろしさである。

二つめは、特に女性の身体的な美が衰えゆくさまの描写が、おどろおどろしく描かれる。この点について、本文から詳細に引用しなくてもいいだろう。ただ、これは私見で述べたほうがいいことなのだが、こういった美しかった女性が衰えていくさまを描くというのは、日本の中世においても珍しくないことである。例えば、『九相図』などはその典型である。

また、能でも2人の男に求婚された少女が地獄に堕ちて、責め苦に遭う『求塚』や、藤原定家との秘められた恋に苦しむ式子内親王(この恋愛は虚構とするのが一般的)の苦しみを、ある意味で耽美的に感じられるように描き出す『定家』などがある。ただ、能の場合は武士や漁師/猟師なども地獄の責め苦に遭う作品もある。等しく煉獄の苦しみに遭うという点では、ヨーロッパ中世と異なるといえるかもしれない。

ホイジンガに戻ろう。三つめの死の舞踏に関しては、もともと男性がモティーフであった。この死の舞踏という表現は13世紀にはあったようで、生前は貴顕の座にあった三人の死者が、若い三人の貴人に死のことを教えるというものである。ここで生者を連れ去るのは、死神ではなく、亡者である。ここで表現されているのは、生きている人間が将来なるべき姿としての死であった。そして、それは現世でのむなしさとともに、(来世での)社会的平等を伝えようとするものでもあった。

ただ、そのようななかでも女性をモティーフとしたものや、子どもを題材としたものも出てくる。女性を題材にした場合は、やはり朽ち果ててしまった美への嘆きという官能的な要素が前面に出てくる。また、ごくわずかに子どもの死を描いたものもある。これらは民話や民謡に詠われることが多かったようだ。

ヨーロッパ中世において、死は現世の栄華のむなしさ・無常を描くか、死後の救済を描くか、このどちらかしかなかったのである。

第12章|すべての聖なるものをイメージであらわすこと

長くなったので、ここは簡潔に。
中世キリスト教社会にあっては、生活のあらゆる局面に宗教的観念がしみとおり、飽和していた。つまり、すべてがキリストに関連し、信仰にかかわっていたのである。これは、全ての営みが信仰に結びつけられると同時に、かえって恐るべき日常卑俗事に堕し、彼岸のふうをよそおいながら、実際には驚くほど現世的なものになってしまうこともあった。

ホイジンガが挙げる多数の例は省略しよう。ただ、すべてを神聖なものとしようとする姿勢が、かえって信仰の外的要素をともなって、しらじらしささえある物質主義に凝り固まった迷信に移し替えられてしまうことが多々あったわけである。

こういった傾向が、たとえばマリアの処女懐胎についての論争での神学上の議論と胎生学的考察の混同などとしてあらわれた。謹厳な神学者にしてそうであったのだから、日常生活を送る人々にとっては、そういった信仰を日常のうちに解体して、織り込ませてしまったとしても何ら驚くことではない。何にでも聖性をみるがゆえに、聖と俗との境界が見失われる危険があったのである。これは物質的な面に限らず、言葉においても同様のことが生じた。

中世ヨーロッパにおいて、多彩なイメージは人々により具体的な信仰を可能にした。ただ、それは同時に教会の教えから離れるきっかけを与えることにもなった。そのような接近と乖離のなかで、日々の生活のやさしくすなおな宗教感情は、聖者崇拝というかたちに結晶した。すべてが民衆のなじみの聖者にリアリティを与え、生活現実のただなかにそれらを登場させることになった。聖者は、民衆たちのすぐそばにいたのである。

そういった聖者崇拝は、あまりに日常になりすぎたためか、中世末期になって守護天使への熱狂的な信仰としてあらわれた。そのことを描いたジェルソンの1世紀あとに起こった宗教改革において試みられたのは、こういった物質などに深く結びつく想像力の芽を摘み取り、その精神を矯めなおすことだったのである。

私 見。

この3章、全体を通して読むと長いが、生や死という人間生活にかかわって生じるさまざまな現象を、中世当時の人々がどのように理解しようとしていたのか、より詳細に言えば、キリスト教という信仰を通じて、どのように秩序づけようとしていたのかに焦点が置かれている。前回の際にも紹介したが、この文化の読書会で次に読む予定の以下の文献、池上俊一(2020)『ヨーロッパ中世の想像界』(名古屋大学出版会)とも深くつながってくる。

ちなみに、日本においてもよく知られているミシェル・ド・セルトーは、この神秘主義神学の研究者である。私たちにとっては、以下の『日常的実践のポイエティーク』のほうが、はるかに有名であるが。

とはいえ。セルトーがカトリックの神学者であり、非キリスト教者に対する布教をこととするイエズス会士であったということは、もう少し念頭に置いておいてもよいのかもしれない。今さらカトリックの教義についての研究など手も出ないが、カトリックにおいて、どのように信仰がかたちづくられていったのかという点は、このホイジンガを読むのみならず、ヨーロッパという地域の文化を理解するうえでも、やはり避けて通れないことなのかもしれない。そのようなことを、この3章を読んでいて、あらためて感じる。

一方で、これまでも書いてきたことだが、おそらくまったく無関係に展開していたであろう当時の中世日本と重なり合うところ、そして異なるところも気になる。上に書いたように、中世に生まれかたちづくられた演劇芸能である能は、その素材の多くに〈死〉を採る。

来月、当代の名手といっていい大槻文藏が銀座の観世能楽堂で『定家』を演じる(舞う)。観能歴わずか20年そこらの私ですら、文藏さんの『定家』を観れるのは4度目である。それくらい、お好きなのだろうと思う。私も好きな曲の一つである。だから、観に行く。ただ、ふつうに考えれば、この曲はおどろおどろしい。後場など、塚から現れる式子内親王は、定家の未練が植物となった定家葛(テイカカズラは、ここからきた植物名)に絡めとられている。それは苦しみでもあるが、一方でマゾヒスティックな恋への喜びをも滲ませる。そして、僧の功力によって、いったんは葛から解放され、それを喜び舞うが、ふたたび塚に戻っていく。健全ではあるまい(笑)が、それを美的に戯曲化した金春禅竹の手腕はすごい。

中世という時代、これをいろんな文脈や背景を無視して、ヨーロッパと日本に限ってみてみるなら、生と死の境界がまことに低く、それを支えるものが信仰であり、それを表現するものが詩歌や絵画、演劇芸能、そして日常生活の一つひとつのモノであり、そこから醸成されるイメージによって、衝き動かされていた、そんな時代であるということができそうに思う。

さて、話が行ったり来たりするが、上に書いたセルトーである。セルトーが『日常的実践のポイエティーク』で論じた〈戦術〉とは、まさに本山的なところから打ち出されてくる教義ドクトリンに対して、それをすり抜けていくように日常的になされるわざのようなものである。そこには、モノや空間など、さらにそれとともに生じる行為に、どんな可能性を展いていくかということへのまなざしがある。そういう点を考慮に入れると、ホイジンガとセルトーのあいだにも何らかのつながりの線が存在しているとみてもいいのかもしれない。

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