『マトリックスレザレクションズ』 コルタード(切断)で繋がるトリニティとネオ 本編
レザレクションズにおける監督の立ち位置
前の記事で『マトリックス』トリロジーを振り返りました。トリロジーは、物語の内側でネオが人間対機械という二択にとらわれない選択をするという構図と、外側でウォシャウスキー監督たち自身が男性か女性かの二択にとらわれない性を選択するという構図が重なる形で作品が作られていました。この構図は『レザレクションズ』の前半でも、マトリックスというゲームとその制作者としてのネオという形で描かれています。
では『レザレクションズ』においても監督と重なるのはネオなのでしょうか。しかし監督はのちに性別適合手術を受けて女性の身体になったことはメディアでも報じられています。ところが、作中のネオは男性のシンボルカラーの青いピルを大量に摂取していて、髭も伸び、傍目には頭髪も薄くなり、男性的な特徴が増しています。私は本作で監督のイメージが投影されているのはトリニティではないかと思います。そして両者の間を繋げる手助けをするのが、トリロジーから監督の想いを受け取った存在であり、女性の側からマトリックス内で“青”を選択しているバッグスと、ネオと同じく“赤”を選択したモーフィアスです。
時間の変化とそれぞれの立ち位置の変化
監督の立ち位置が変わったことを示すように、バッグスがネオにクルーを紹介する場面で、あなたは“味方の意味”も変えたと言っています。
「The meaning of our side」と言っているので、直訳すると“自分たちの側の意味”も変わったということになります。
本作で現実にあたる都市もザイオンからアイオへと変わっています。アイオはトリロジーのザイオンのように危機に直面している様子もなく、特に問題もなさそうです。ナイオビはネオやバッグスに対して、平和なアイオに厄介ごとを持ち込むなという態度で接します。そしてネオに、世界も、人も、全てが変わったのだと語り、トラブルになりかねない彼を監禁してしまいます。
アイオでは“実を結ぶ”ということが重要なこととして描かれています。緑の植物に囲まれた研究施設で、ストロベリーとブルーベリー、赤と青の二種類の“実を栽培する”話がされていました。これはマトリックス内で人間が生産力を産むためのバッテリーとして存在していたのと重なる構図になっています。機械も人間も、ある種族が存在するためには別の種族を栽培しエネルギー源とするしかないのかもしれません。それは一方から見れば繁殖に最適な環境を維持してあげていることになり、もう一方から見れば繁殖と搾取という役目を押し付けられ支配されていることになるのでしょう。そして、自分たちの種を維持するためには、同族のあいだにも繁殖という役目を担う存在が必要になります。
都市の名前がアイオだと知ったネオは怪訝そうな顔をしますが、ザイオン(ZION)とナイオビ(NIOBE)から色々と取り除くとアイオ(IO)になります。本作では現実世界の側に1と0、青と赤という構図が現れていて、最先端のテクノロジーを得たことで保守性が強化されているように感じます。
アイオはバイオスカイという人工的な空に覆われています。テクノロジー+自然、シリコンバレーのような名称です。空といっても光は弱く、どんよりと重たく、トリロジーで描かれていたマシンシティーの風景のようです。
ネオを監禁先の部屋へと案内する途中、シェパードが印象的なことを言っています。
「昔は誰もが自由を望んでた。今は違います。みんな諦めてると思うことも。負けたと(the Matrix won=マトリックスが勝った)」
トリロジーでは、赤いピルを飲みマトリックスから解放されることが自由を意味すると思われていました。つまり、ザイオンにいる人たちはその時点でマトリックスから解放されているので、いろいろと不便はあっても自由ではあったはずです。ところが、ザイオンがアイオに変わり不便性が解消されていくなかで、自由を求める態度も保守的になってしまったようです。その結果、赤いピルを選んで自由になったはずのネオがアイオで監禁されることになってしまいました。
マトリックス内で“青”を選択しているバッグスはナイオビから煙たがられています。トリロジーのマトリックス内でネオがアノマリー(異常)であったように、バッグスはアイオにおけるアノマリーの扱いなのかもしれません。バッグスの存在は青い色をしたストロベリーのようです。モーフィアスと出会う場面で、自分はバッグス・バニーのバッグスだと名乗っていますが、そのつづりは「bugs」IT用語でいうバグと同じです。ネオも、彼が幽閉される部屋のドアに「High risk of Infection」(感染危険)と書かれていることから、バッグス同様厄介者の扱いになっているのだと思います。
ネオとトリニティの関係
“infection”は“感染、伝染、影響を与える”という意味があります。ネオとトリニティの関係についてアナリストが解説をする場面がありますが、ここで二人の距離感の意味とそれを人々がどのように解釈するかが語られています。
「一人だけでは価値がない・・・・君たちが触れ合うと恐ろしいこと(bad things=悪いこと)が起こる。ところが、君たちを程よい近さに保つと、驚くべきことが起きた」
「私の前任者は正確性を好んだ・・・・彼は人の心を嫌った。だからフィクションが大事だと気付かなかった・・・・何がフィクションを現実に変える?感情だよ」
この場面では、鑑賞者が二人の関係を王道の異性愛だと感じる距離感に保っておくことが大切だ、と語られているように思います。二人が触れ合ってしまうと悪いことが起こると言っているのは、二人の関係がトランスジェンダーとして受け取られ、それに影響される人々が増えてしまうと、彼らにとっては“エネルギー不足”を招いてしまうからではないでしょうか。逆に二人の関係がラブストーリーとして人々に影響を与えれば、彼らのエネルギーリソースが増えることになります。
トリニティという言葉には三位一体という意味があります。全てのリソースを二つのカテゴリーに分け、生産力として考えられると思っている勢力からすると、そこから外れる存在も容認するこの言葉は都合が悪いことになります。いわゆるNGワードです。そしてネオから適度な距離感に保たれたトリニティには、女性らしい名前が与えられ、ネオとは反対に夫や子供といった女性性を強調する要素が与えられています。
マトリックスについてバッグスが以下のように言っています。
「あなたの物語を、自分みたいな人間に大切なものを、つまらないものに変えた。それがマトリックス。人の想いを武器に変える。夢も、私たちにとって大切なものも」
「真実はゲームのようなありふれたものに隠せ」
実際の監督の立ち位置が男性の側から女性の側へ移るのに性適合手術が必要だったように、ネオの側からトリニティの側へ移るためにも同様のことが必要です。作中で二人がコーヒーを飲む場面があります。その場面で、トリニティは普段とは違うコルタードを注文し、その費用をネオが払います。
「こんにちはティフ、いつものにする?」
「ワイルドなのにする。コルタードを」
「束縛からの解放」
そこにネオが、払ってもいいかな?と言いながらやってきて二人でコルタードを飲みます。トリニティが席を立つ直前にテーブルが映る場面がありますが、ネオのカップはほとんど手付かずのまま残されています。トリニティのカップは確認できませんが、同じテーブルに反射した彼女の姿は、長いブロンドの髪の女性になっています。
コルタードはスペインのエスプレッソの飲み方です。ミルクを少しだけ入れるのですが、そのときにφという文字を書くように、エスプレッソを切るように注ぐことから、コルタード(cortado=cut、切る、切断するの過去形)と呼ばれています。コルタードが束縛からの解放を意味し、ネオがそれを飲めずにいるのは、ネオとトリニティがビフォーアフターの関係であることを意味するのではないかと思います。
そして、監督が性適合手術を受けたことで、男性の身体、トランスジェンダーとしてのアイデンティティ、女性の身体が一つの人生に宿り、三位一体(トリニティ)となり、本作が作られたのではないかと思います。
マトリックスの変化
トリロジーではマトリックス内で不自由を感じでいる人を現実へと解放することがミッションでした。しかしマトリックス自体が彼らの望む世界として再設計されたあと、そのミッションはどうなるのでしょうか。私の考えでは、マトリックス=仮想現実とアイオ=現実いう区別をなくし、どちらも同じ世界の一部として出入りをもっと容易にするという方向へ変わるのではないかと思います。
トリロジーのモーフィアスは、人類は全員マトリックスから解放されるべきだと思っていました。一方でネオは、解放されたい人もいればそうでない人もいることを察していました。だからネオだけが機械と取引することができたのだと思います。モーフィアスの理想を実現すれば、機械から全てのエネルギーリソースを奪ってしまうことになります。また機械がザイオンを滅ぼし、スミスが全ての人格を取り込んでしまっても同じ結果になります。
ネオは4部作を通して様々な場面で救世主“The One”と呼ばれています。しかし、預言者をはじめナイオビやネオ自身もこれを否定しています。私の想像ですが、ネオは1作目の最後の場面でスミスに飛び込んだ時に、トリニティ(三位一体)を選ぶことで、“The One”をスミスの中に置いてきたのではないかと思います。その次にネオとスミスが会う場面で、スミスは自分にネオの一部がコピーされたと言っていました。そして他者を取り込む能力を得たスミスは、マトリックス内の人格を次々と取り込み、最終的にマトリックス内に存在するのはスミスという“一つ”の人格だけになってしまいました。それ以上マトリックス内に取り込める他者はいませんし、スミス同士では生殖もできないので、彼はそれ以上増えることができなくなってしまいました。これではマトリックスに繋がれた人々が寿命を迎えるたびに機械のエネルギーリソースが減っていくことになります。
そこでネオは、マトリックスから解放されたがっている人だけ解放し、マトリックスで満足している人はそのまま機械にエネルギーを提供し続けるという条件で、機械と取引をしたのだと思います。ところが、結果として多くのリソースを失ったマシンシティーでは機械同士の戦争が起こってしまいました。そしてそれを見たナイオビの心境にも影響を与えてしまいました。
アイオができるまでの世界は、人類のほとんどがマトリックスに繋がれ、その状況に最適化するようにマシンシティも拡大してきました。そのため、マトリックス内で崩れたバランスが他へも影響を与えてしまいました。マトリックス、アイオ、マシンシティー、それぞれの規模のバランスが取れるまでは、まだしばらくゴタゴタが起こるのかもしれません。
おこるかもしれない変化を想像する
アナリストが最後に、支配を望む羊のような人々(シープル)は必ず存在すると言っています。アイオの将軍となったナイオビの一番の部下がシェパードですが、彼はマトリックス内で“青”を選択しています。シェパードは羊を管理する牧羊用の犬種でもあります。アナリストの分析はその通りなのだと思います。そして、解放されることも留まることも人々が望んでそうなっているのであれば、どちらも同様に尊重される必要があります。また、時間と共に立ち位置が変わる可能性も、本作では示されています。実際に立ち位置が変わる経験をしたり、自分の立ち位置もいつか変わるかもしれないという想定があれば、他の陣営を簡単に攻撃できなくなります。いつか自分が変化した時にブーメランになりかねないからです。
本作にはトリロジーのような派手なガンアクションは描かれていません。終盤でボットを相手にする若手メンバーたちがガンアクションを見せていますが、なんだかぎこちなく見えます。それとは対称的に、ネオ、トリニティは押し寄せるボットをブロックとスルーで回避するのですが、こちらのスキルがとてもエレガントに見えました。最後は炎上に巻き込まれ、追い詰められてしまいましたが、それでもボットの相手をせず、さよならと言って飛び去ってしまうところは爽快でした。アナリストはネオ、トリニティに、君たちもまたいつかポッドに戻るかもしれないと言っていました。同じように、ボットになっていた人の中にも、以前は自由のために戦った人がいたのかもしれません。
人生の選択は自由意志か運命か。作中でも登場するこの問いが『レザレクションズ』の大きなテーマになっているように思います。この二つは実際には混ざり合っていて、長い時間の中である時点から振り返ると自由意志の比重が多いように見え、違う時点から振り返ると運命の比重が多く見えたりするのではないかと、本作を観て感じました。ある時点の価値観から自分の立ち位置を固定し、ディベートのようなもので正否を決めようとするのではなく、もしかしたら今後自分も他者の立ち位置も変わるかもしれないと想像し、多様なあり方を尊重することが大切なのではないか。長い時間を経て製作された『マトリックス レザレクションズ』は、私にそんな気付きをあたえてくれる作品でした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
『キャトリックス』考察
ところで、本作にはエンディングクレジットの後におまけがあり、そこでこんなことが言われていました。
「現実を見ろ。映画は死んだ。ゲームも死んだ。物語は死んだ。・・・・今ウケるのはシリーズものの動画、タイトルはキャトリックス」
次の記事では「キャトリックス」を考察してみたいと思います。なぜかというと、作中でスミスがこんな発言をしていたからです。
「君は終わったと言ったが、物語というものに終わりはない。同じ物語を語り続ける。違った名前と違った顔で」
また、「レザレクションズ」が複数化する人間のジェンダーをテーマにしているのとは対称的に、飼い猫のジェンダーは単一化する方向に向かっています。主人公はマトリックスでいうトリニティ。三位一体という意味なのでキャトリックスでは三ャオにしましょうか。Cat +Matrixでキャトリックスですが一文字変えるとCut +Matrixで子宮切除という意味にも読めそうです。それを二ャオが救出するという方向で考察してみたいと思います。こちらは王道のラブストーリーになるのかもしれません。読んでいただけたら幸いです。
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