伝説のままで走り去っていったスタアが残したあの歌から日本語の美しさを考えてみる?
ちょっと涼しくなって
2021年も9月に入り、私が住むところも夏はどこに行ったのか?くらい涼しい日々を過ごしております。
そんな中、暑苦しく勝手にお届けしたい(苦笑)今回の記事は「秋桜」です。1977年に歌手・山口百恵が歌い、第19回日本レコード大賞・歌唱賞を受賞。のちに日本の歌百選にもなった、さだまさし作詞・作曲のあの名曲を考えたいと思います。
ちなみにさだまさし本人の歌はこちら↓
三宅由佳莉・2等海曹と海上自衛隊東京音楽隊が奏でるバージョンもどうぞ↓
日本語をこれほど味わい深く…
この曲を18歳にして自分のものにし、歌い上げた山口百恵の卓越した歌唱力にはただただ脱帽です。当時の映像を現在の私がみると、ワザと幼い印象を作り出している感がありますが、歌い手としての存在感は日本のエンタメ史においても、中々登場し得ない逸材だったと思います。
「秋桜」という曲は、確かに山口百恵という歌い手によって世に広まることとなりました。その後、40年余りたった現在でも、私たちの中の一番の奥底にある優しさ、暖かさ、愛おしさといった人としてのぬくもりの部分に、震えるように共鳴してくる…そんな感じの曲だと私は考えます。
そこには、日本語だから表現し得る、日本の心を持つ者だから共感できる美しさが歌詞、そして楽曲から伝わってくるからとも言えるでしょう。
「秋桜」がもつ日本の情景
この曲では、小春日和の穏やかな日に、これから嫁ぐ娘とそれを見送る母の何気ない日常が歌われています。
ごく見かける日常の中にも、
アルバムの中から思い出される幼い頃の思い出であったり
年老いた母からのエールであったり
娘からの育てたくれた母への感謝の言葉であったり etc.
が瞼の奥から、2021年現在でも、多くの方にVRで浮かんでくると思います。
実の親子から離れたところに向かう娘と、その娘を思いを馳せながら見送ってくれる母…
そこには当たり前にあった娘と母という日常から、同じ"母"の立場になる娘への気遣いと、これから旅立とうとする娘が持つ隠しきれない母への想い…
それを現す歌詞に、余計な修飾語は必要ないということでしょう。
さだまさしに届いたメッセージ
「さださんがこの歌を作ってくれた意味がやっと分かる日が来ました。本当に、本当にありがとうございました。山口百恵」
(日刊スポーツ「歌っていいな」第10回 2020年9月27日配信より)
さだまさしは
「俺には突っ張っているようには見えない。日本女性の奥深さを感じる」
(日刊スポーツ「歌っていいな」第10回 2020年9月27日配信より)
と語ったように、山口百恵に日本の理想女性像に重ねて、娘の嫁ぐ日を詞に、そして曲に込めて彼女に託しました。
先に述べたとおり、それに相応しくパフォーマンスを"演出"した山口百恵もさすがです。
しかし、さだまさしがこだわった日本の美意識は、ダイバーシティとか、グローバリズムとか、ジェンダーフリーなどなど新しい価値観の共有が求められる日本において、人間として忘れてはいけない何かを、日本語を通して、そっと語りかけてくるように思えてなりません。
急速に進む現代社会では、少し歩みを止めて聴くべき名曲の1つだと私は考えます。(了)