表現せずにはいられない。
「創作をする人は自分を表現せずにはいらない人なのよ。」
いつだったか、私が大人になり通ったお習字の先生が言った言葉だ。
また、美術短大を卒業する時、教授がこう言った。
「この中に絵を描く事で息をする者が、どの位いるだろうか。」
作品というものを作る時、不意に現れるこの言葉。表現は何だって良いのだ。書や絵、音楽、演劇。このnote だって。
息を吸い、吐く様に表現をする。
この湧き上がる喜びを、怒りを、悲しみを。この湧き上がる気持ちを。
自分の中で留めておけないその気持ちを何かを通じて表現する。
その作品(もしくは作品と呼ぶにはおこがましいモノ)を通じて、私は自身の自己確認をするのだ。
◇◇◇
私は小学校の図書室ボランティアをしている。
そんなこともあり、廊下に貼られた子供の絵を見る事も多い。
私はその中でも低学年の絵や作品が好きだ。
屈託のない、純真無垢な感じたまま一番描きたい物を紙や作品にぶつける。
線に迷いはなく、ぐいっと力強く簡潔な線で描かれている。
堪らないエネルギーを感じる。
常識に捉えられない世界観も多い。時々、何のつもりで描いたのか分からない絵に目が留まることがある。これは生き物かメカなのか。犬なのかカバなのか、しかも水玉模様。正体不明。
そういった絵はよく見ていると意図が分かる時もあるのだが、分からない時もある。
児童画の見方は分からないが、私的には分からなくてもそれはOKだ。
大事なのはこの子にはこんな風に見えているんだなということだと思っている。
子供の作品には本当に上手い下手関係なく、その発想力と純粋さ、熱量にいつもドキドキする。
学年が上になればなるほど、技巧は凝ったものとなり、表現を模索したりする跡がみれたりとその着眼点や、また低学年の作品とは違った部分で感動したりする。
また何年か前に友人の誘いで美術科のある高校の文化祭に行ったことがある。
美術科と一口に言っても色々あり、美術学科、デザイン学科、アニメ・漫画学科と分かれている。
一年生は一通り学び、二年生から専門を選び学ぶらしい。
一年生の展示を観ていると、絵画模写、彫刻、デッサン、デザイン画、イラスト…等々、各課題1人1作品づつが展示されていた。
クオリティ様々な中に違った意味で一際、釘付けになった絵画模写があった。
ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」
ダ・ヴィンチの完成品としては最後の作品として名高い。柔らかな肌、モナリザを彷彿とさせる微笑、仄暗い場所から姿を現し、木の十字架を持ち、指は天を指す。その姿からダ・ヴィンチの強いメッセージ性を感じ、想像を掻き立てられる。
しかし、そのある生徒の作品からは、上手い下手以前に、全くやる気がみられない。絵具の混色もほぼしていない。
似せる気ゼロ。
何よりヨハネが超絶アフロヘア。
確かに見ようによってはアフロに近いか?
いや。でもそれでもせめてソフトロングアフロかドレッドヘアにして欲しかった。
(アフロでもドレッドでもないけれど)
ポーズからと他の生徒が同じモチーフを使っているから判別できる感じだった。
失礼ながら、以前話題になったスペインでおばあさんがキリスト壁画の修復をし、大失敗したレベル。
「きっとこの子、絵画はやる気ないんだな。」
アフロのヨハネからその子の強いメッセージを読み取る私。
実際、デザインの展示コーナーではその子の作品は気合の入った仕上がりとなっていた。
「君、この分野やりたいんだね。」
勢いがあり、若さを前面に感じる大胆な色彩にときめいた。
「俺はやりたい事にしかそのエネルギーを使わないぜ。なめんなよ。」そんな強い意志を感じた。
アフロなヨハネを見た後だったので、その印象は強烈。
「そのメッセージ、しかと受け取った!」
私は顔も知らぬその生徒の作品の前で頷いた。
いろんな人の作品を観ていると、その熱に当てられ「自分も何かしなければ。」と思う。
自己表現というものは丁寧な作業だと思う。
自分から溢れる気持ちを作品に昇華し、形に再構築するのだから。
私自身も評価というだけの話であるなら、やはり感情が昂っている時、追い詰められている時に出来たモノは褒められる事が多い。
普段、アレコレ考えがちな私から「アレコレなんて、しゃらくせぇ!」と余計な考えが取っ払われ、チリチリとした感覚の中で、色々な感情の吐け口になるからだろうか。
実感として言うなら会心の一撃の線が出ることも多く、時には長く越えられなかった壁が越える感覚があったり。はっきりとした解放感さえある。
特に書に関しては一筆一筆、迷うと線も止まりバランスは崩れる。やり直しの効かない一筆の中にも繊細さも大胆さも求められたり。呼吸も大事。
完全に私はその時の気持ちや感情、精神状態に恐ろしく左右されている。
誰しもそんなことはあるのだろうが、それを差っ引いても、人よりHIGH&LOWが激しい目ではあるように思う。
なので、メンタル的にも(技術的にもだが)どんな状態でもある一定のレベルを結果として出さなきゃならない商業作家には絶対向いていない。
まぁ、仰々しく色々書いてしまったのだけど、一つ身近なとても感心した表現の話がある。
息子の小学校の時代にママ友達になった葵さん。
彼女は自宅でピアノの先生をしている。
その葵さんと立ち話をしていた。
葵さんに「普段、教室以外でピアノを弾いたりするの?」と、何気なく聞いた。
すると、葵さんは「練習もあるけれど、嬉しい時、悲しい時、気分によってピアノを弾くことがあるよ。そういう時は主に創作曲だけど。」と言った。
全く楽器の演奏が出来ない私。
「へぇ。カッコいい!」と答えると、続けて葵さんは笑いながら「一昨日ね。旦那と喧嘩したの。旦那はガンとして譲らないし、腹立つし、悲しいし、うまく伝わらないのも悔しくて。発散のつもりでピアノで"ワタシは悲しい"って、ピアノを弾いたの。」
そう言って鍵盤を両手で端から端まで走らせるしぐさをした。
「15分位経った位かな。旦那が申し訳なさそうに"すまなかった。頼むからその曲を止めてくれ。"って謝りに来たよ。」
葵さんはそう言ってウフフと笑った。
「さぞかし、悲壮感溢れる曲だったんでしょうねぇ。しかし、それを読み解く(聴き解く?)旦那さんも凄いねぇ。」
心底感心し、葵さんの息をし吐くようなその表現に感動した。
勿論、合う合わないはあるが、私は全ての表現者を尊敬している。
その溢れる思いに感動する。
またどこかで、どんな形であれ惹きつけられる様な作品の出会いを楽しみにしている。
そして自分自身、息をする様に何かの形に表現できる者でありたいと思う。自身のためにも。
因みに葵さんに「私も夫と喧嘩した時は、絵は大変だから書道の条幅紙(大きな紙)に般若心経でも書こうかしら。」と言ったら「怖いわ!」と言われた。
えー。真理の説かれた般若心経。心のまま筆を走らせたら、面白い作品になりそうじゃない?
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