M・ストープス『結婚愛』(2)性の解放の先駆者がここにいた【禁書を読む】
前回の記事はこちらです。今回も長くなってます。すみません。
性生活への失望は実体験だった
マリー・ストープスの『結婚愛』は、日本では1924(大正13)年、性関連の語があからさまに頻出したりする箇所が伏字となって刊行され、大いに読まれた。
彼女の著作の翻訳者としても知られた平井潔は、こう振り返っている。
ここであらためて、医者でも何でもないマリーが、なぜこんな本の執筆を思いついたのかという動機に、目を向けておくべきだろう。
マリーは序文にこう書いている。
マリーは生涯で二度の結婚生活を送っている。
「恐ろしいほどの犠牲を払った」という最初の結婚は、『結婚愛』発行の7年前の1911年。相手は、その前年末に研究で赴いたアメリカ大陸で巡り合ったカナダ人の遺伝学者、レジナルド・ラグルズ・ゲイツだった。
日記によると、マリーは1910年12月26日にアメリカのミネアポリスに到着し、29日にセントルイスで植物学会夕食会、米国科学学会の会合に出席。ここで席が隣り合わせになったのがゲイツだった。
マリーは2歳年下のゲイツとたちまち意気投合し、翌日は一緒に学会に出席し、夜も仲良く観劇を楽しんだ。そして大晦日にはゲイツがプロポーズし、マリーは一週間もたたないうちにイエスの返事をしたという。
驚くべきスピード!
1911年3月にモントリオールで挙式した2人は、4月にはそろってイギリスに戻ったが、幸せは束の間だった。
じきに仲違いは覆い隠しようがなくなり、マリーは22才年上の既婚者男性と昵懇になった末、この男性を自宅に下宿人として住まわせるようになる。3人の奇妙な同居生活は、夫・ゲイツの嫉妬心をひたすら膨らませるものでしかなかっただろう。
マリーは1913年には弁護士に離婚の相談をもちかける。最終的に結婚が解消されたのは1916年のことだった。
名指しこそしていないものの、ここで描かれた男性が、元の夫のゲイツを指しているのは明らかだ。この時期、マリーは傑出した若手女性学者としてもてはやされたのに対し、ゲイツは思わしいポストを得られず、今でいう「格差婚」のような状態だった。
ゲイツが自尊心を傷つけられ、亀裂を招く一因になったのは間違いないだろう。さらにその奥に性生活の問題が潜んでいたことは当時の2人の言動から想像がつくが、真相はあくまで藪の中だ。
というのも、マリーは医師から処女であるとの診断を受けたとしているのに対し、ゲイツの方も「完全に正常」という診断書をもらったと主張しており、真っ向から対立するからだ。
ただし、ゲイツは繊細で神経質だったといい、マリーとの生活に強いストレスを感じて性的不能に陥ったというのは大いにあり得たことだろう(彼は後に他の女性と結婚し、子供をもうけたという)。
いずれにしても、マリーが『結婚愛』で声高に繰り返した「性生活における失望は結婚生活すべてを無感動にし、破壊する」という主張は、見事なまでに彼女自身の実体験だったのだ。
日本人研究者への失恋をばねにした
ところで、マリーには日本と関わったエピソードも豊富だ。日本との縁がなかったなら、『結婚愛』が世に出ることもなかったのではなかろうか。
時はマリーがゲイツと出会う前の1904年、彼女がミュンヘン大学で植物学の研究に精力を傾けていたころにさかのぼる。
同じ研究所に日本からの留学生がいた。東京帝国大学助教授の藤井健次郎だった。藤井は金沢の出身で、マリーより14歳年上。一緒に植物の調査に出かけたりするうちに2人は熱烈な恋に落ちる。
マリーと藤井はひそかに将来を約束し合ったものの、じきに藤井は日本に帰国していった。
ここでマリーはどうしたか。
カギとなったのは、植物学者としてのマリーの研究テーマが植物の化石だったことだ。
日本の地層には、ヨーロッパとは異なる時代の化石が眠っている可能性があり、特に北海道は白亜紀の植物化石の宝庫と考えられていたのだ。
彼女は早速、英国学士院に働きかけて費用の援助を取り付け、1907年、単身で来日した。
名目は北海道での化石研究だったが、秘めた目的が藤井との再会だったのは言うまでもない。彼女は藤井との結婚を切望していたのだ。
しかし藤井側からすると、マリーの来日は決して歓迎できる出来事ではなかった。
この後もマリーの熱烈なアプローチは続いたようだが、藤井は完全に腰が引けたようで、あくまでノーを貫いた。
マリーの絶望は想像に難くない。しかし、ここで「落ち込んで終わり」とならず、それをばねにしていったのが、彼女が只者ならざるところだった。
マリーは持てる情熱を北海道での調査に振り向けた。何事もなかったかのように、藤井との連名で『白亜紀植物の構造と類縁に関する研究』と題した研究論文を仕上げていった。
その成果は今もなお、日本における植物化石研究の出発点になったと高く評価されている。
ちなみに藤井健次郎はこののち、東京帝国大学教授として日本で初めての遺伝学講座を担当。「遺伝子」の命名者としても名を残し、出身地・金沢では「金沢ふるさと偉人館」に展示顕彰されている。
イチョウの精子に魅せられた
マリーが1年半にわたる日本滞在で拠点とした東京帝国大学農学部は、19世紀末に世界の植物学界を驚かせる発見があった場所だ。
主役は植物学教室の画工だった平瀬作五郎。彼は世界で初めて、イチョウの精子を確認した人物となったのだ。
コケ類やシダ類などの原始的な植物は精子を放出し、雨水などで精子を泳がせて受精する。一方、花を咲かせる裸子植物や被子植物は、雄しべから雌しべに花粉が届くことで受精するので、原則的に精子は持たない。
進化の過程からして、精子を持つ裸子植物が存在する可能性は指摘されていたが、それを確認した者は誰一人いなかった。
平瀬は1896年、小石川植物園のイチョウの種子を採取しては精査するという研究を繰り返す中で、種子の先端の空洞に放出された精子細胞が数千もの繊毛を動かし、卵に到達する様子を確認した。
裸子植物で初めての精子の発見という、ノーベル賞級の快挙だった(このイチョウの木は今も、東京・文京区の小石川植物園で見ることができる)。
マリーが来日したころ、平瀬は既に東京帝大を去っていた。しかし彼女は、研究所で平瀬の実験を再現した時の様子を日記につづっている。
きっとマリーはこの時、イチョウの精子の動きに魅入られたのだ。
裸子植物であるイチョウと人間は同列ではないが、この体験を通して、生命の誕生に対する彼女の関心とあこがれは一気に強まった。
マリーがイギリスに帰国したのは、この1年後の1909年。
その後まもなくゲイツと巡り合って結婚するが、イチョウに「触発」された彼女がひたすらに妊娠・出産を望んでいたにもかかわらず、夫との生活はそれを裏切り、期待を踏みにじるものでしかなかった。
彼女は深く失望した。そして、しっかりとした性知識を持たずに結婚した自分自身に苛立ち、後悔したに違いない。
その思いこそが、彼女に、大胆極まりない内容の『結婚愛』を書かせる原動力となったのだ。
70代まで恋を繰り返し、NGOに名を残した
『結婚愛』はほぼ一世紀前の作品だ。
マリー自身にはバイセクシュアル的な嗜好があったとされるようだが、男女の愛と結婚を前提としているところなど、古めかしさは拭えない。
ただ、文中の「夫」や「妻」、「男性」「女性」といった言葉を別の語に置き換えたなら、さほどの違和感がなく読めるようにも感じられる。
それは恐らくマリーが、男性のつくった社会や文化によって束縛され、抑圧されてきた「性」を解き放つことを心から願って書いた文章だから、なのだろう。
彼女はやがて、アメリカのマーガレット・サンガーと並ぶ産児制限運動のリーダーとして世界に名を馳せていく。第二次大戦後には、イギリスで初めてとなる産児制限診療所をロンドンに設立した。
その名は今も、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利)活動に携わる世界的NGO「マリー・ストープス・インターナショナル」に受け継がれている。
マリー・ストープスは、私生活では『結婚愛』が出版された年、実業家のハンフリー・ローと2度目の結婚を果たした。翌年の妊娠は死産に終わったものの、その5年後、43歳にして男児を出産して母となった。
『性の革命』によると、その後、ローの衰えもあって夫婦関係は悪化。マリーは「健康であり続けるにはセックスが必要」との信念のもと、70代になるまで若い男性とのアバンチュールを繰り返しつつ、その鮮烈な生涯を閉じたという。
LGBTQはもちろんジェンダーという言葉もなかった時代。
とてつもない勇気と使命感をもって、抑圧された性を解放する先駆となった女性がいたことを覚えておきたい。
【参考文献】(本文中に紹介したものは除きます)
『結婚愛の研究』マリー・スト―プス著、畑道雄訳(創文社)
『結婚愛』マリー・スト―プス著・矢口達訳(アルス)
『世界性学全集19 女体の結婚生理』M・C・スト―プス著、
青木尚雄・宮川実訳(河出書房新社)
『植物のたどってきた道』西田治史著(NHKブックス)
『近代出版史探索』小田光雄著(論創社)
『歴史を読み替える ジェンダーから見た世界史』
三成美保、姫岡とし子、小浜正子編(大月書店)
『日本の銀杏とイギリスの「家族計画」を結ぶ縁』望月吉彦
https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column180611&doorSlug=dr
『鉱化化石から探る日本の白亜紀植物の世界』西田治文
https://www.palaeo-soc-japan.jp/publications/78_Nishida.pdf
『イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺』日本植物学会
https://bsj.or.jp/jpn/JPR/digital/icho2.php