対資本主義についての考察、そもそも、文系学問は対搾取の能力を欠いてるのでないかと疑いつつ
2022-11-004
対搾取として、文系的局面での個別性への内実不問は搾取可能状況
(内実の確からしさ差の混同事態を利用した帰属の操作が可能な状況)と捉え、修正対象扱いする。
(自他が受容に値する条件を帰属の修正余地のなさとする。
文系的局面においていらぬ飛躍がないとは、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不十分さが解消されてる状態であり、その時の内在性質外在性質の有り様をもって受容条件を満たしてるとする。
場の疑似でない固有性の全面展開として、場に置かれてるものが受ける整合があるなら、その整合は具体化精度の上限と見なし、受容条件を満たしてるとする。)
反動反発(表層形反転)は問題点をそのまま保存する(内実の確からしさを改善しない)、良くて次善の策
(局面が要請してる限りにおいて肯定されるものなので、一般化していたら搾取なり知性の機能不全なり)と見なす。
(自由と平等、競争と協調、感情と理性、理想と現実、抽象と具体、不確定的と確定的、これらの対立構図や上下論を本筋かのように扱う場に誘導されない。
需給事情が場の疑似でない固有性の反映であるかどうかを問題とし、反映像から乖離してる部分込みでの肯定も、反映像から乖離してない部分込みでの否定も本筋としない。)
理想現実関係は抽象化具体化の不十分さの解消問題、歴史性は抽象化具体化の交互反復に拡張した同解消問題と捉える。
(具体化精度の上限は、理想にも具体にもいらぬ割り引きを負わせてないという意味で、内実不問を否定しつつの抽象具体の価値対等が達成される地点と解する。
表層形自体はAよりBが望ましいとしても、上が解消されてる状態の反映であるAと反映でないBとでは、Aが肯定されBは否定される、この内容を対自己込みの救済観に持たせる。)
これらをもって対資本主義(市場の資本主義的展開への対処)を試みるとして、受容に値する個々事情から成る需給事情(市場という場の性質)へと持ってくべく、
同種の他との差異要素捨象への厳格さと違い、同種の他との共通要素捨象への厳格さは教育を通して獲得されない為、
対象に関する抽象具体関係構造の像構築(理解力や実力)が、表層の汚れを拭うだけ、表面をなめすだけで満足し、内実に含まれるいらぬ飛躍は許容してる形になる実態主義で止まってしまう状況
(何かを切り捨てる根拠としてその意味の実態を持ち出した場合、いらぬ飛躍の分だけ不当であるのに、
むしろ不当獲得を通す為の表層次元への着目誘導すらあるのに、市場や民主制、あるいは、言語運用が実態主義に留まるなど)を、
いらぬ不幸が世界に生じる原因と捉える像の周知試み(デフォルト化された場の形成試み)の話、
特に、2+3を10とか100とか言い張る、存在と引き換えの要素以外も込みで根拠にする(自由とか皆の為とか言い張る)、これらの同列化の不在を内実不問の原因と見て、解消する事により、
自身が生み出したものも含め、搾取可能状態にあるものに対し鈍感なまま子どもが、社会に送り出されてしまう程度を抑えにいく話になるのでないかと想像します。
ところで、科学の在り方や国家の権威や個人の精神を近代は、宗教から分離したとして、
数学による自然の説明は、キリスト教とアリストテレスの組みから、プラトンとアリストテレスの組みに替える事によってアリストテレスも乗り越えてる形なのかもですが、
いずれにせよ、先の不在が帰属の修正を、ひいては、より確からしいものが取って代わる運動性を阻害しない為、
理系的局面の外に出ないでいてくれる限りにおいては、科学の類は先の解釈であろうとも受容条件を満たしてるように思われます。
一方で、宗教に頼らずに国家の権威が要請されるストーリーを用意して、それをもって社会を説明してる形。
現実存在としての自我を始点とし、理性なり神なりを経て数学等も可能になるストーリーを用意して、それをもって世界を説明してる形。
(理性の限界故に理想には至れないが理性はごり押しに値する説、弁証法によって理想に至れる説、やはり至れないけれどある種の現実全面肯定をもって理想に代えられる説。)
こうした事例(文系学問への影響を未だに持ってる)においては、先の不在が、内実不問(帰属の修正余地)を含んでるストーリーを用いて対象を説明する事態を齎していて、
社会も内面世界も、場の疑似でない固有性の反映形かどうかを問われないまま対立構図に落とし込まれるとか、
設定した理想との距離を問題にさせる事で、抽象化具体化の不十分さが解消されてるかどうかの観点を埋没させてしまう
(国や個人等の歴史における論点がそこの解消にならず、浮き沈みに振り回されてる場合、
内実の確からしさを確保しつつの展開への志向の欠如から、その人の自身の思考への信頼も勘違い程度が高くなる)なども含め、
少なくとも、対内実でのより確からしいものが取って代わる運動性を阻害する為、学問が先の解釈での受容条件
(つまりは、有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらへの帰属)
を満たさせる能力を欠いた状態であり続けており(搾取の着せ替えでしかない対搾取を権威で助長さえしていて)、
既存の対資本主義もその例外ではない、という事でないかと思います。
(検証実験の精度が低いのと、競争や協調においてポジションや具体的有り様をアンフェアに定めるのとを、
場で問われてる差異の取り出し具合に難があり、取り出されてる差異にいらぬ飛躍がある点、難の有無を捨象してフィーバックすると改悪になる点で、同列化するとして、
場に置かれてるものが場から受ける整合を、場の疑似でない固有性の反映である場合にだけ受容するなら、場に置かれるものも場の性質も、改悪フィードバックとはならず、
場に置かれるものも場も、より確からしいものが取って代わる運動性を阻害してない有り様と見なせます。
逆に、どちらであれ、例えば、場を荒らすという有り様に対して、場の表層でなく場の本質に合わせた結果のものかどうかを問わない、具体化精度に鈍感な理解力である事を意味する、
上で言う反映な整合から乖離してる部分込みで受容する妄信系や乖離してない部分込みで拒絶する反動反発系、
言い換えるなら、場の聖域化や場に置かれるものの聖域化は、改悪フィードバックやフィードバック拒否を意味する為、上の運動性を阻害してる有り様と見なせます。
したがって、自己の聖域化を正当化する為に、場は開かれたものであるべきだと主張し、
上で言う難に対する内実不問を強いる、つまり、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の帰結という受容に値するものか、そうでないかについて問わない態度を強いるケースもある中で、
具体化精度に対する敏感さが、あるいは、具体化精度の上限を尊重条件とする受容態度が持たれる前に、開かれてる状態を推奨する事は、
実力をつける前の段階で自己判断を強いるような、有害な影響行使であって、
先の不在を解消する、ひいては、内実不問な理解力から解放する働きかけを受け付けてこなかった形の文系空間は現状、
聖域化されてるも同然であり、より確からしいものが取って代わる運動性を体現してない形骸状態と見なせ、そこに染まると改悪フィードバックによる自身の構築を意味するので、
文系の権威を付して何らかを通す振る舞いには、染まってる人の再生産側面をはじめ、有害な側面が含まれてると言えるように思います。)
注、以下、末尾部分の投稿用(ところでの前に移行)
(検証実験の精度が低いのと、競争や協調においてポジションや具体的有り様をアンフェアに定めるのとを、
場で問われてる差異の取り出し具合に難があり、取り出されてる差異にいらぬ飛躍がある点、難の有無を捨象してフィーバックすると改悪になる点で同列化し、
具体化精度に対する敏感さ、あるいは、具体化精度の上限を尊重条件とする受容態度の獲得をもって対処してもらう教育により、
例えば、自己の聖域化を正当化する為に、場は開かれたものであるべきだと主張し、上で言う難に対する内実不問を強いてくる内容の言動に出くわしても、
権威が付されてようと与しない子ども、場合によっては、改善フィードバックへの妨害として糾弾できる子どもを育てる事も、その話には含まれる。)