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個人と社会であれ、人権と主権であれ、内実の確からしくないもの同士の主導権争い、といういらぬ闘争の構図へと話を矮小化させてしまわない時代を目指して

2022-10-007

負わされるに値しないものへの対策として、事実上、反動反発を推奨してる形の主張は、知的上層にも普通に見られますが、
負わされるに値する部分しない部分の区分けについての恣意的判断を許す内容なので、その種の主張に従っても、

値しないものまで受容しながら固有性育む妄信系が、値するものまで拒絶しながら固有性育む反動反発系へと振り替わるだけ(いらぬ飛躍が着せ替えられるだけ)ですし、

自身の負わせるに値しない(いらぬ飛躍があるという意味で、正当化に値しない)固有性と取り巻く外界との間の負わせ合い
(取り巻く外界が帰属の修正余地ないという意味で、負わされるに値するものだけから成ってる場合込み)の構図に自身を追いやるだけです。


(したがって、上で言う普通に見られる現状は、AとBを個々具体とする抽象次元に遡る処理や、その次元から局面等の具体化条件に応じて切り出してくる処理が、
機能不全でも知的上層になれる事を意味してる可能性があり、

主語の切り出しや主語からの切り出しを踏まえると言語運用能力にも、利己利他を個々具体とする像を踏まえると倫理感覚にも、
含まれてると言えるそれら処理は、これまでの教育では十分にはカバーされないと疑えます。)



内在事情に対しても外在事情に対してもその代替不可能な要素にのみ応じてきた結果の固有性(個別性)に近いほど肯定し、遠いほど否定する
(その主体のできるできないの有り様に対して求める事のできる上限を、同結果の有限性形態とする)、

場に置かれてるもの(形式込み)がその場から受ける扱いは、場の疑似化してない固有性と整合的なものなら肯定(整合的な割り振りへの支持を越えて自他を助けない)し、そうでなければ否定する、


この前者は後者を含んでるわけですが
(もちろん、能力獲得等でのいらぬ特化を避けるべく、つまり、具体化精度への問題意識の反映として、獲得喪失を内在事情や外在事情と整合させるケースのように、
有限性形態を具体化条件、続けて、具体化条件を場の性質と捉え直せば、前者そのものを後者の一種、あるいは、理系における実験精度の問題と同等の話として位置付ける事も可能)、


固有性(個別性)に対する肯定否定が前者の内容でなかったり、
場(内面世界込み)の上に立ち上がってるものに対する肯定否定が後者の内容でなかった
(例えば、認識におけるそれをはじめ、確定的扱いの程度を局面との整合と無関係に肯定否定する、という具体化精度への鈍感さの意味でのいらぬ飛躍が見られる)としても、

疑問を持たない人が、知的上層にも普通にいる(持つ持たないが教育と関係ない上に、持たない類の言動が権威を持ち得る)為に、

内実の確からしくないものが内実の確からしいものと同じ扱いを受ける事態(搾取可能状況)の、十分生じ得る世界であり続けてる
(件の前者後者の二つを内容とする修正の、積み重ねの先にある世界への道が埋もれてしまう)のでないかと思います。



個人的には、理系的(同種の他との差異要素捨象の次元)な普遍通用性では、前者的観点において肯定される固有性も否定される固有性も区別されないけれど、
文系的(同種の他との共通要素捨象の次元)な普遍通用性は、前者的観点において肯定される固有性
(雨が降ろうが槍が降ろうが持たざるを得ない、存在と引き換えの要素だけから成ってる固有性)が相当する

(内在の性質も外在の性質もそのような固有性である時、両者の合わさったものとしての現象は、帰属に修正余地、より確からしいものが取って代わる余地がない)。

(この為、理系的に捉えた確からしさを、文系的局面において持ち出す誤認は、
存在と引き換えでない要素込みの実存まで正当化できるせいで、理想に対しいらぬ割り引きを持ってしまってる現実としての有り様に留め、受容に値する状態へと向かう道を潰してるも同然な状況をつくり、

対文化における同構造も含めて、リベラル的な尊重や救済が持つ歪さ、リベラル的な気にするいらぬ飛躍気にしないいらぬ飛躍の枠組みが持つ歪さの原因ともなってる。)


この理解(文理における確からしさの作り方の違いについての理解)があるだけでも、
文系的局面で通念的な論理(同種の他との差異要素捨象と整合的な論理)を持ち出したり、

その持ち出しに反動反発してるだけなので、前者的観点とは関係なく感覚的なもの
(つまり、より確からしいものが取って代わる運動性を受け皿として体現する有限性形態がいらぬ飛躍を含んでる、この状態を内実としてる観点)を持ち出したりという、


言わば、近代以降の文系におけるお決まりパターン、不当合理と過剰特殊の二択な反応様式
(どちらであれいらぬ飛躍を保存してしまう、したがって、いらぬ飛躍除去を知性や倫理の働きと見た場合、
それらが形骸化してると言える地平)は、十分防げるのでないかと期待します。


同様に、文系的局面において根拠にされてるものに対し、同種の他との共通要素の捨象に十分さらされているいないの区別がつくなら、
個人と社会であれ(国と国際社会であれ)、人権と主権であれ、内実の確からしくないもの同士の主導権争い、といういらぬ闘争の構図に話を矮小化させてしまう事もない、

そう解せば、知的上層すらそこの区別がつかない状況(パラダイム)の有害性は明らかと思いますから、

教育をはじめ、文系空間がどういう有り様をしてるかに関係なく、そこの区別がつく状態へと自身を持っていき、
さらには、先の前者後者を内容とする修正(社会改善の本筋)が可能な人を増やす事で、
外界(文系空間込み)が負わせるに値しないものを負わせてくる程度を抑えにいきましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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