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知的権威に当たる(特に哲学者の)皆さんに向き合ってほしい話(3400字)

2020-12-006

文系域で必要なのは、美味しい林檎しかないとか、不味い林檎もあるといった次元で満足したり押し付けてくる、知性や倫理の使用に関するセンスや枠組みから、

美味しいや不味いといった性質の確定度と、より確定性の高い表層形への移行に閉じているいないの程度を問い、
また、それら林檎がどう扱われるかは置かれる場の性質により決まる為、その性質に関しても同様に問うセンスや枠組みへの、

(知性や倫理に、構造化や割り振りにどういう枠組みを持たせるのかについて、代替不可能な要素が埋没する枠組みから、しない枠組みへの、)


更新(アンフェアの帰結含め、形骸な表層形の実現可能性を潰しに行きもしない以上、その可能性と引き換えに何かを得る形にしかならない前者に、

留まったり留まらせようとする事自体が近代という既得権益の、その枠組みによる確定性の高低不問の弊害から目を背けつつの保持行為であって、

修正すべき箇所持つ限定通用物を通用の行き渡ってるものかのように扱い、つまり、知的権威者による場合はいらぬ飛躍に対する責任という存在意義に抵触してまで、過剰に利益を得ようとしてる形)でないかと思います。



どういう条件下に置かれようとそれがそれである限り引き受けられざるを得ない性質(機会があれば更新する)をもって、それを規定する、

という作業や態度を対内在でも対外在でも展開する主体が、既存の教育では養成されないのは、

同種の他との共通要素の捨象(文系域での確定性向上)アプローチが育成対象でない(世界標準の知性や倫理を縛ってる近代パラダイム、つまり、同種の他との差異要素の捨象アプローチ特化と整合的でない)上に、

与えられるものに盲信的である(確定性の高低としての、実質の有無を問わない)方が点数を取るのに、ひいては既存の権益に与るのに効率的であるから

(質より量を重視するスタイルを次善の策として特殊的に扱う意志があっても、常識等の特定時空性との付き合い方次第では、

つまり、下で言う実質確保の能力が機能せず、一旦抽象化し代替利かない具体化条件としての時空性を付し直されたものにのみ応じる付き合い方でない場合、
特殊性への普遍扱いまである、いらぬ飛躍込みな扱いとなる)

と想像されます。



その主体は確定性の低いものを受け入れるぐらいなら点数や利益を得られなくても構わない(高いもののみを、実際にそうした場合の帰結含め受容する)的なスタンス
(質より量を重視するケースも、局面次第では、局面要請という実質が付されるので十分有り得る)でしょうから、

それとは逆のスタンスを採る主体の方が現状、存在しやすい社会(知的権威が生まれるサイクル含む)と言えますが、


しかし、自己や対象に関する、対内在や対外在での上の作業を事実上展開できない(パラダイムで押さえつけられてる)以上、理想を抽出したり過不足なく割り引く事が、

(抽象化と具体化条件割り出しの、あるいは、抽象と具体の行き来としての歴史性の、文系域における実質を確保する事が、)

つまり、理想と現実を排安易にバランスさせる事が上手くできない生しか送れないのに、

そんな主体の養成で責任を果たしたかのような顔して、教育は社会に人を送り込んできた形です。


(歴史性の実質確保具合でなく、保守革新という変化の遅早枠組みを踏まえた言動やその弊害も、そうした意味で教育に責任が問われるのは仕方ないでしょうが、

プラトンにせよカントにせよ、理想と現実の関係についても、主語の切り出しや述語化についても、上の実質確保を限定化作用、に関する解決状態としなかった点が、
教育の置かれる枠組みに関わる先の未更新含め、今なお修正されてない以上、

責任は厳密には、哲学者にまで遡ると思われます。)



言わば、チキンレースで即離脱するか崖に落ちるか、そのどちらかに寄った生を送り、排安易なバランスへと向かわせる助け船があっても払いのけ、

外界に影響が及ぶ際の、己の価値観が反映されてる部分については、そのどちらかに他者を引きずり込んだり留まらせたりしてるようなもの

(資質や環境、内面や局面から確定性の高い性質を取り出し根拠に採用してる有り様の産物ほど価値は高い、との反応を常としてなければ引きずり込まれる可能性は高くなる)と言えるのに、


(その上、払いのけてる時点で実力向上に関する本筋を断ってるのに)自己判断できるだけの実力がある(現実が持つ複雑さに通用してる)と思いこんでマニュアルから離れた対応をする的に、

発信するなど積極的に影響を及ぼし、そこに疑問を持たない理由の一つとして、
既存の教育(文系域での確定性の高低を扱い差に反映させる能力は保証されない)やその延長線上にある業界での、自他の実績なりもあるのでしょうから、

我々は現行の評価体系の弊害に、体系の再構築の必要性に向き合うべきなのだと考えます。



そして、知的権威に当たる皆さんにそこと向き合ってもらい、

上で言う反映させる能力が評価対象でなかった為に、文系域でのいらぬ飛躍を取り除くという意味での実力が不十分でも知的権威になり得てしまう点と、
それが自分達の存在意義的に修正対象に他ならない点を認めてもらう事で、

先の枠組み更新に対し彼ら(既得権益層)が抵抗勢力となるのを防ぎましょう。


対象を捉えるのでも、いらぬ飛躍なく捉えるには、

主語述語の関係で言うところの、主語の切り出しや述語化に際する限定化作用を過不足ない
(場の代替不可能な固有性としての偏りのみが反映された)加工に抑える、という作業に相当する処理が必要と思われますが、


例えば、自他なりの、権益対立関係にあるという事実が、

話を矮小化する形でしか対象を捉えられない事態として、つまり、その作業を失敗させるものとして反映されるのは、

認める割り振られ(損得や役回り)を、場の代替利かない固有性に即した割り振りに限ろうとしてない、
限られてる状態(フェア)を保障するように形式や帰結が組み上がっているいないで体系やそれが負わせてくるものを肯定否定しようとしてない、

そうした傾向の現れ(つまり、フェア化は対象把握に際する過剰割り引きへの対策に当たる)と言えるでしょう。



知的権威にすら右派左派対立構図の類を前提とした対体系の言動が見られるのは、

そもそも、場(内面含む)と置かれるものとの関係を確定性の観点から評価しない(その意味で理解や対処が浅くなる)既存パラダイム

(日本では例えば、空気を読む系の弊害に対し、
場の表層でなく場の本質に合わせた結果なら迷惑もOKとした上で場の性質把握の深浅を論点とする方向に向かうよう働きかけるのでなく、
場に合わさない方向に解決を見るセンスが、近代的個人観等の反映の典型)

の外に彼らが出てないから、

(外に出ない弊害として、
差異への反応が局面との合致に徹してるとは言えない、大騒ぎや見て見ぬ振りに相当する部分が反映されてる領域とされてない領域の差を、

いらぬ飛躍や不当な不利益回避なり利得の有無の差とする扱い差が、情報取り扱いや多様性確保に織り込まれてない言動にも、

知的や倫理的な説得力を覚えてしまうセンスも、
そこに見られる非妥当性や不当性に対する感度や抽象度の低さもあるわけで、)

肩書きに関する影響力(知的地位を授けたり奪ったりの話含む)といらぬ飛躍を取り除くという意味での実力とが結び付いてないからでしょう。



対パラダイムに最も責任ある立場の哲学者が、そうした近代人センス(に縛られた思考内容)に留まってるケースに至っては、

ソクラテスから随分と時が経ってるのに、ある種のいらぬ飛躍(肯定否定がポジショントークや冤罪的非難の側面を持ってしまう事態)を許してる、己の内なる飛躍と向き合わないままでいる状態を意味する為、

表層をなめしてるだけの洗練、いらぬ飛躍を的確に糾弾できてるつもりなだけ、といった実態をそれっぽく見せてるに過ぎない

(その形骸性に受け手が疑問を持てない状態のおかげで成り立つ以上、
その次元に留まろうとするのは他者が持つ可能性の搾取、他者のより高通用な在り方と引き換えの利得行為に近い)

とも言えるわけで、
通用領域のより広い枠組みへの更新(近代の脱却)を阻害する(確定性の高低不問に由来する、通用性が高い扱い、低い扱いの操作可能性を保存する)のでなく、

原点回帰的な反応と役回りを引き受けてくれるよう彼らに求めていきましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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