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4418文字、哲学に求めるべき効用について、勧めて良い哲学の内容にも触れつつ
2024-12-007
例えば、対戦もので、自身の場所なり着目なりを右へと対戦相手から誘導されたとして、
必要以上に反応しない、かつ、反応後は右も左もカバーできてる状態に可能なだけ戻るなら、生じた偏りを利用される程度は最小となるのに対し、
過剰に反応したり、大した理由なく戻るのを怠ってる場合は、防げる類の劣勢を許した分だけ相手を過剰に楽にしてる
(対戦相手側からすればこの場合に、悪手を咎めない、チャンスを逸する等をもって応じてしまうと、いらぬ優勢を与えてしまう分だけ味方にいらぬ劣勢を負わせる形になる、
特に日本では、場を荒らさないという表層形を優先してしまい、味方にいらぬ劣勢を負わせない為に必要なものまで自ら避けたり避けるよう強いる形骸な和か、
論点を捉え損なって形骸でない和まで否定する反動反発かの二択に、内実不問だと陥る)わけですが、
この事実から実力を現状の上限で保つには、いらぬ特化を避ける有り様(いらぬ前提を自身に持たせない姿勢)が必要であると分かります。
ここで、過不足ない特化しか認めてない内容の哲学(知性倫理美意識にいらぬ前提を持たせない方針の実践)を前者に、世界有り様をそのまま受容してる生を後者に重ねれば、
その種の哲学には、対世界に関する実力を上限に持っていく働きがあると見なせるはずです。
もちろん、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像への志向を内包してない哲学は、
過不足ある特化を許容してしまってますから、その働きを十分に持ってるとは言えません。
同様に、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失有り様との整合を要求せずに
(例えば、さぼったり手を抜いたりといった表層形を、内実がこの整合を優先した結果の獲得放棄や定着放棄であるケース込みで否定していたら、要求してるとは言えない)、
能力なり情報なり可能性なりの獲得推奨を展開してる既存の教育と整合的な人
(例えば、身体的にか精神的にか誰かが痛みを覚えたという事態は問題発生に関する情報の帰属の話なのに、能力や情報や可能性の帰属関係に修正余地が生じてる場合でも気が付かない人、
個別性に対する防げる類の取り違えを個別性が根拠になる局面での論理飛躍とした時の、
理系において通念的な論理の飛躍を犯した人が受けるべき扱いを文系において受けるべき人)は、
高い評価を得ていようとも、知性倫理美意識にいらぬ前提を持たせてしまってる分だけ対世界の実力を上限化できておらず、
世界に対して持ってる肯定否定も、実力を現状の上限で保っていたなら生じない類の振り回されが反映されたもの
(場合によっては、その振り回されに相当する見て見ぬ振りや大騒ぎの産物である理論を構築し、押し付けてきさえする)と言えます。
ところで、文化や常識の内面化(家庭や職種といった規模も込み)は、代替不可能な外在事情にしか応じない生でないといらぬ特化が生じてますが、
このいらぬ特化回避は厳密には、特定時空性に合わせた加工を可能なだけ剥いだ上で、
引き受けざるを得ない特定時空性のみを付した状態と実際の有り様とのズレ部分に付き合わないという話になるので、
自他に対する評価における、いらぬ特化を回避できているいない(自他の見せる反応にいらぬ前提が混じっているいない、ひいては、確からしい反応であるかないか)の観点は、
同種の他との共通要素捨象(個別性の取り違えの抑制)を用いた抽象化具体化の不十分さに対する拒絶具合への着目に他なりません。
(ちなみに、客観は主観に対して同種の他との差異要素捨象を展開した上での認識でしかなく、
主観は主観に対して同種の他との共通要素捨象を展開した上での認識でなければ確からしさが上限化されてない、
この理解は、個別性捨象である前者捨象に特化させ、後者捨象の能力を埋没させるせいで、
個別性が根拠になるならないという局面事情と捨象対象との不一致が対理系を除いては常態化してる主因であり、
したがって、局面の個別性の取り違えが、この局面ではこの差異しか問題になってないとの判断に反映されてしまってる知性倫理美意識を対文系の根拠にする原因になってる既存教育に、
さらされてなお認識観に対していらぬ前提を持たせないでおく為に必要ですし、
その局面で問題になってる差異とは関係ない為に捨象されてるはずのものという意味で余計である優劣関係等を、発信や受信に持ち込んだ結果の疑似問題が、
前提になってる問題群を真に受けて、いらぬ前提除去以外の解決枠組みを押し付けてくる人が実際にいて、かつ、影響力を持つ事も十分可能な時代である以上、
発信受信に対する評価が局面事情と着目無視設定との合致程度をもって為されてる内容の方が、為されてない内容よりも支持されるよう、社会的にも必要です。)
なので、そこの十分不十分の差異を検討しない(したがって、十分なものまで否定し、修正余地のないものをあるものとして扱う疑似問題に囚われさせる有害性か、
不十分なものまで肯定し、修正余地のあるものをないものとして扱う疑似解決をもって修正余地部分の受容を強いる有害性、
言動に対する代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映具合とは無関係な対人評価に代表される、内実不問な肯定否定の弊害であるこれらが、
生じてる点では既存秩序に対する無検討と同じである為、事実上、高い知性倫理美意識による検討の産物という見た目が付されてるだけの単なる表層の着せ替えに過ぎず、
内実不問な人の方が文系空間で影響力を持てる状況に対して、ひいては、内実の確からしいものと内実の確からしくないもの、
前者が後者のように、後者が前者のように扱われてる事態に対して無力)との意味で表層次元に留まってる哲学は、
どんな効果を謳っていようと、自他の見せる反応に対する評価を確からしくするものではありません。
(自己判断できる段階にない人からマニュアルを取り上げるような無責任さが、疑似問題を捨象できない人に哲学やその種の実践を勧める働きかけにはあるのでしょうが、
勧める内容の条件として、疑似問題を捨象する処理の内面化、帰属修正余地の総体から、
つまりは、内外境界の登場を意味する有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性にのみ帰属があるという、帰属修正の上限に至ってない状態の総体から、
自身の取り違え最小な個別性を具体化条件にして切り出してきたものとしての具体的問題は表層形によらず引き受けるが、それしか引き受けなくて良いという、
冒頭の防げる類の劣勢の解消に、したがって、問題を持つ事に関する実力の上限化に相当する態度の獲得込みなこれが、
期待できれば問題ないわけで、しかし、内実不問な哲学は内実の確からしいものと確からしくないものとを区別しない以上、
以下のような表層次元に留まってる哲学はこの意味での勧めて良い条件を満たしてるとは言えないはずです。
理想現実関係に対して、限定を受けてない状態の割り出しと引き受けざるを得ない限定条件の割り出しの上限化を、
特に、理想の位置により確からしいものが取って代わる運動性と整合的であるが故に常に確からしさが上限な真善美が置かれ、
現実の位置に限定作用に対する同運動性の働きを最大化させる作業である具体化精度確保が先立ってる知性倫理美意識が置かれてる関係を求めてない。
歴史に対して、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実が点として紡がれてる内容、
実存で言うと、理想軽視か現実軽視の二択を拒否すべく、有限の与件性をもって不完全さ自体の否定を疑似問題と見なして退けつつも、存在するのと引き換えレベルの修正余地なさを不完全さに持たせ、
できないとか失敗といった不完全さの弊害の受容を存在尊重に包含させる責任は負う、代替不可能な内外事情にしか応じない実存が点として紡がれてる内容では、
つまり、理想を割り引く程度が大きい時も小さい時も当然あるけれどその種の現実でありさえすればそれ以上は求めない対歴史、
過去に対しても現在に対しても未来に対しても、上で言う責任は要求するけれどそれしか要求しない平等性故に、
対テキストが過剰断罪と責任不問を同時に防いだ対過去と言える為の条件でもあるこれでは満足しない。
個別性が根拠になる局面での論理に対して、通用が行き渡ってる状態を肯定の根拠にするよう求めてる形に、
主観軽視の領域侵犯によって個別性捨象を持ち込むか、取りこぼしが生じてない点をもって取り違えを最小化してない個別性の根拠化を正当化するかの二択故になってない。
個別性が根拠になる局面での学問に対して、現象を内外性質統合、あるいは、抽象物が具体化条件を負ったものと見なした上で、
個別性捨象を無限展開してる枠組みに現象を落とし込んでるケースを、領域侵犯として、
もっと言うと、他人の行動原理の傾向押さえる等の処理は誰しも日常だろうに、局面次第でしかないものを局面無視で規定するなどの短絡さ故に、
現象から外在性質や具体化条件を外した状態の取り出し精度も疑わしい内実不問な人による、学問や知性倫理美意識の矮小化として扱いしつつ、
個別性を根拠にする際の個別性割り出しに対して、より確からしいものが取って代わる運動性としての無限性の受容阻害最小化を展開してる枠組みに現象を落とし込むよう求めてない。
秩序に対して、他種や無生物、概念等含め、場に置かれてるものが受ける扱いをその場の性質の反映に限定する帰属修正をもって、
割り引かれや優劣差異の発生自体が否定対象になってる内実不問な自由観平等観を妄信してこの帰属修正まで拒む事例、
余裕がないとか個別性捨象の文脈であるとか、内実不問が許される局面でのみ害がないと言える道徳や権利を絶対視してる事例含め、搾取である帰属操作を防ぐべく、
場の性質変化への対応、主体の内在場外在場上下論、場の尊重が原理になってない事態を意味するこれへの両場の個別性の間の抽象物具体化条件関係に差し替える対応込みで、場の性質の取り違え最小化を論点とするよう、
したがって、場に合わせる合わさない、あるいは、包摂されるされないの表層形反転二択であるが故に場の本質にのみ合わせる具体化精度確保、
および、その結果のフィードバックによって可能となる抽象次元改善の上限化、
対象はこの情報を知らないという帰属関係把握があるから嘘もつけるし危険を知らせようともなるわけで、
帰属関係に関する仮説改善を世界理解の内実と解せば、その人の世界理解が根拠の言動に、現状これ以上望めないという内実確からしさを齎してくれるこれ、
さらには、両者をセットで捉えてる内容の具体抽象間の価値対等化を埋没させる相対主義絶対主義の対立枠組みについて、
曖昧と明晰の二択論でしかない主張を局面に合わせたスペクトラム上の点選抜、および、場が無数にあるという世界観に差し替えるなどして廃棄するよう、求めてない。)
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