問題は入らなかった一物じゃなくて、世渡りに入れない私「夫のちんぽが入らない」読後

婚約者と、喧嘩とまではいかないが、互いの悲しみをぶつけ合って双方が気落ちしてしまうような言い合いをした。

こんな日にこそ、読んだ方がいいような予感のする本のあてがあった。今から本屋に行って、もしこの本が置いてあれば、その予感はきっとあたりだ。というわけで、電車で一駅のデパートのビルに入っている大型書店に私は向かった。お見事、目当ての本は、文庫本コーナーの棚に一冊、慎ましく収まっていた。

センセーショナルながら脱力系のポップさのあるタイトルに、安易に飛びつくことがどこか品の無い行為のように思われて、発売直後は手に取ることを躊躇っていた本。

しかし、この本に綴られているのは、笑い飛ばせるようなポップな夫婦の生活のお話でもなければ、夫婦の性事情についての深刻だったりドロドロだったりする物語でもない。

ちんぽが入らない、という性の問題という範疇をゆうに超えた、1人の女性の生きざまの筆跡である。上手に、生きられなかったパターンの。

この本を私が手に取る日の到来は、世間一般にいう上手で要領の良い人生、安泰で確実な人生から、私が離脱を決めるまで保留されていたのだ、きっと。

婚約者との悲しく落ち込む言い合いの発端は、私の退職だった。私は世間一般からは、この仕事に就けばばもう生涯安泰!と評されるような仕事をしていた。そこで昇進を機に、適応障害を発症し休職。休職中に、今後の勤務条件や会社の状況、結婚後の生活について婚約者とも話し合った結果、退職することにした。業界全体の離職率がかなり低く、大手ゆえに休暇や福利厚生の制度も整っていたので、寿退社をする人間は稀だった。

私にもっと組織の中でうまくやれる器用さがあれば、病気にもならず、辞めずに結婚後も働き続けられるはずだった。けれども私は、辞める。問題は、できの悪い上司に運悪く当たっただとか、仕事の能力が高いか低いかということ以上に、私という人間が、社会で生きる上であまりにも不器用すぎたことにある。

「夫のちんぽが入らない」の主人公にとって、自ら志して就き、前向きに取り組んでいた教師の仕事を辞めることは、自身の人間性の問題であった。

「疲れや一時的な気の迷いなどではなく、私の人間性に関わる根本的な問題」(講談社文庫 こだま『夫のちんぽが入らない』p.139)

彼女はずっと、夫との性の不一致だけでなく、生まれながらに彼女の中に抱えてきた、自分の人間性にかかるあらゆる部分の不備を責め、自信を喪くしながら生きている。

生きづらさや欠点が全くない人間はいない。だが、生きることが得意か、不得意かというレベルの差は人の間に確かに存在する。そして、要領よく上手に生きられないことに思い悩み、順調な人生を歩もうと思っていたところを己の生き下手さに邪魔される人間は、一定数いる。私もその1人だ。そして「夫のちんぽが入らない」主人公も。

私は自分の生き下手さと職場との不和に苦しんでいたところ、結婚が決まった。勤務条件の面で、これは結婚後はちょっとなあ〜と考えるような点があったので、退職そのものは正しい選択だったと納得している。そして私は結婚という道により、このまま仕事を続けて精神を摩耗させ苦しみ続けるか、職を失い不安定な身分になり(私の仕事は転職が難しい業種)困窮して行き倒れるか、の二択で人生を考える必要がなくなった。

けれども、それは逃げなんじゃないかという考えが、拭えない。自分の生き下手に甘えて、生きるためにすべき努力から逃げているんじゃないかと。

安定した堅実な職を失うことも、1人で生きていく力を失うこととイコールで怖かった。辞めたって別の仕事ができるでしょグヘヘ、と思えるぐらいに自分に自信があれば、そもそも今の仕事を休職も退職もしてない。それができないぐらいのダメな人間だという自覚があるから、せっかく得た今の職を失うのは怖かった。私にとって仕事はいわば、自分が真っ当な人間であることの唯一の証明だった。不具合の多いダメ人間でも、社会的に存在していて大丈夫ですよ、なんてったってここに真面目に勤めてる人なんですから、という許可証のようなものだった。

結婚に逃げ、自分が社会的に真っ当な存在である根拠である仕事を失って、果たしてこの先、何を根拠に自分で自分のことを信用してやれば良いのか分からなかった。

「主婦も立派な仕事だ」と言われても、このだらしない私が仕事の努力を放棄する言い訳のように思えてくる。婚約者は同業で、これも「夫のちんぽが入らない」主人公と共通なのだが、「君がダメだったわけじゃない、でもうちの組織ではこう動いたほうが良い」という仕事の話をされると、私の努力は役に立たない徒労だったのかと虚しくなり、余計に自分を責めたくなる。

そもそもの生きる前提が、「自分はこの社会で生きていくには不具合の多いダメな奴だ」というところから出発していると、順調な人生へのつまずきは、「ダメな自分がうまく生きられなかった責任だ」というところへ全てが収束してしまう。

さあ、こんな私がどうすればいいんだ、これから。

そう必死で訴える私と宥める婚約者とが、一時間近く言い合いをした日の夕方、私は1人本屋へ出かけた。「夫のちんぽが入らない」を読むべき時が来た予感がしたからだ。

納得して選んだ退職ながら、致し方のない人生のネガティブな進路変更、いや退避?原因は、自分の人間的な不具合。こんな自分で、これからどうやって生きろと?

この答えとなる事例の一つが、「夫のちんぽが入らない」だ。

この本に書かれている、うまく生きられない人間が愈々うまく生きられなくなった後の姿は、とても静かで、穏やかだ。

ただ、こうしたのでうまくいった、というような明朗な方法が提示されるわけでもない。こんなことがあって道が開けた、という劇的な展開はない。救いようはないかもしれない。

だが、人里離れた山々の夜に延々広がる霧のような、ひっそりとしていておおらかな赦しがある。

世間一般にいう上手で要領の良い人生、安泰で確実な人生から、私は離脱する。でも、それは全然怖くない。そんな私は、婚約者の一物は入るけれども上手な世渡りの流れにはうまく入れなかった私は、「夫のちんぽが入らない」の読後に、安らかさを覚える。なんや、「生きていていいし、生きるだけやん。」という気持ちになる。

そんな慎ましく優しい本だ。

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