自律型人材が集まる組織とは? | 『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』
2021年の4月がやってくる。企業の人材ライフサイクルという観点から見ると、「コロナ禍のなかでの、2回目の人材育成」と言えるかもしれない。1回目である2020年が、危機への対応という意味では、瞬発力の勝負だったとしたら、2回目は準備の勝負とも言える。
自戒を込めてだが、コロナ『禍』という言い方/考え方から早々に脱することが、もっとも大切な「準備」なのだと思う。ニューノーマルだなんだと言ったって、それを「禍(わざわい)」すなわち「望ましくないもの」「でも、いずれなくなるもの」という修飾語と一緒に使っているうちは、どこか他人事なのだと思う。健康や経済という面から言えば、「禍」はまだまだ現在進行形。だけど、企業の人材ライフサイクルという観点では、もうそれは価値判断を抜きにした単なる事象として、「ただただ、そこにあるもの」なのだ。
そんな「ただただ、そこにあるもの」という視点でもって、2回目の人材育成を準備するうえで示唆に富むのが、『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』だ。
帯に「リモートワーク時代の教え方の新常識」とあるように、リモートワークという(「禍」が過ぎても残るであろう)「当たり前」の環境における人材育成について、学術的知見を踏まえながら、それでいて現場で実践しやすいかたちにまで噛み砕いて紹介してくれている一冊。さきほどは「2021年4月」という新卒入社者を想起させるような言い方をしたが、本書は新卒はもちろん、中途入社者についてもしっかりと取り上げているところが、現場での実践を真正面から捉えてくれていると感じ、個人的に好感の大きいところ。
本書の主題はもちろん、「リモート環境でどのように人材育成を進めていくとよいか」ということなのだけど、企業人事としては、それ以外にも考えさせられる論点の多い一冊。ここでは、本書の主題をなぞることはあえて捨てて、企業の人材ライフサイクルという点から感じたことを複数回にわたって書き連ねてみようと思う。それがひいては、2021年4月という射程を超えた、長い目線での「準備」につながるはず。
そもそも、自律型人材とはどんな人材なのか
本書を貫くキーワードのひとつに「自律型人材」という言葉がある。組織からすると、いわゆる「喉から手が出るほど」欲しい人材とされる自律型人材。しかし、そんな彼らを採用できたからといって、組織としてはそれだけでは安泰ではないという、厳しい現実がある。
自律型人材が増えること、副業兼業者や起業希望者が増えること。
そして、職場から離れてリモートで仕事をすること。
これらは、組織において、外に向かう力(「遠心力」)が働いている状態とも言えます。
社員を私たちの職場、組織につなぎとめておきたくても、何か対策をとらない限り物理的な場所や気持ちが離れていってしまうという状態です。
それが、転職や独立・起業といった形で、実際に会社を離れることにつながるかもしれません。
『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』より
自律型人材というのは、いったい何から自立しており、何に対して自律しているのだろう。言い方を変えると、何に依存していないのだろう。
組織が、ある種バズワード化している自律型人材という言葉を持ち出すとき、そこには「手のかからない人」という本音が見え隠れする。本書でも自律型人材の特徴として「やることを決める」「決めたことをやる」「チームとして動く」の3つを挙げており、「手のかからない人」という定義は、あながち間違いではない。この定義を、「自律型人材というのは、いったい何から自立しており、何に対して自律しているのだろう」という問いで捉えなおすと、「業務を遂行するうえで、上司の指示/支援から自立(指示/支援がなくても動ける)しており、仕事に対して自律して取り組める(自分で目的を持って動ける)人」となるだろうか。
自律型人材が見ている景色
ではここで、視点を個人の側に振ってみよう。個人が自律型人材という言葉を口にするとき、彼/彼女は「手のかからない人」という存在を目指しているのだろうか。彼/彼女が新卒入社まもなくて、身の回りの仕事を覚えることに必死になっている時期であれば、たしかに「手のかからない人」というのは、本人の望むゴールイメージのひとつだろう。
しかし、「手のかからない人」という共通のゴールイメージでもって、組織と個人が蜜月を過ごせる期間は、そう長くはない。彼/彼女はいずれ近いうちに、自らの成長にともなって、自分が手がける仕事や自分が所属する組織のことを相対化して眺めるようになる。「この仕事/組織は『私』にとってどんな意味があるのだろう?」「この仕事/組織は『私』の将来にどうつながっているのだろう?」と。その相対化の結果が、ある人にとっては目の前の仕事や所属する組織へのエンゲージメント向上へとつながるのかもしれない(蜜月の継続)し、一方である人にとっては、ここではないどこか新しい場所にチャレンジの機会を求めることにつながるのかもしれない。
個人から見たときの自律型人材というのは、自らのミッションに対して自律的に振る舞える(「私はこれをやる。なぜならば」を自分の言葉で語れる)ことであったり、自身のキャリアについて自律的に考えたり行動することができる、という意味だったりする。さらには、経済的に自立しているという点も含まれるだろう。経済的自立については、収入の金額の大きさはもちろんのこと、複数の収入源を持つということが、後述するように大きな意味を持つ。
これを「何に依存していないのか」という問いで捉えなおせば、「どんな仕事をするのか(ミッション)、その仕事が自身の将来にどうつながるのか(キャリア)」という意思決定において、組織に依存していないことと言える。経済的な面では、単一の収入源として依存していないとも言える。さらには、経済的な自立が、意思決定における自律をさらに強めるという正のフィードバック・ループ(「この会社を辞めても生活していける」と思えれば、その会社からの収入に囚われずに意思決定できる)がそこにはあるだろう。
指の間からこぼれ落ちる砂
組織は、自律型人材を「欲する」こと(採用)にエネルギーを割くのと同じくらい、「つなぎとめる」こと(定着)にエネルギーを割く必要があるはずなのだ。個人と組織の関係という意味において、自律型人材というのは、潜在的な遠心力が大きい人材と言える。「自律型人材はどこにいるのだろう」という問いでもって砂場を探すことも大切だが、「我々の組織は、自律型人材がつながり続けてくれる場所だろうか」という問いをあわせて考えることが大切。そうしなければ、仮に砂場をみつけたとしても、そして砂を手に取ることができたとしても、その砂はあっという間に指の間からこぼれ落ちてしまう。
物語としての組織
本書のキーワードである自律型人材を取り上げて、働くことにおける個人と組織の関係について書いてみた。こんなふうに、「働く」を、個人と組織、あるいは、「働く」と「働いてもらう」という対比で捉えるようになったきっかけになった記事がこちら。
いま改めて読み返すと、2020年5月という時期の蠢きが伺える記事だ。個人としての自分がフル・リモートワークになって働きやすさを(能天気に)実感していたときにこの記事を読み、企業人事(組織)として、「働いてもらう」側にもいる自分に気付かされた(それまではすっかり忘れていた)ことに、頭をガツンと打たれたことを今でも思い出す。
なるほど、財務基盤が必ずしも頑強ではないベンチャーにとって、毎月の固定費である家賃は確かに大きな負担となって現状のしかかっているのだなと思った。それは本当に大変なことだと思う。
小規模なベンチャーにとって、リモートワークで仕事を回さなければならなくなり、でも、それでもまあまあ仕事が回る状態まで持ってきたときに、経済的にも苦しいし、そもそもオフィスって要らなく無いか?という疑問が生じているということなのだろう。
一方で、この質問は、組織とは何か、ということについて、かなり根本的な問いを突きつける非常に重要な質問だと考えられる。
(中略)
こうしたことにおいて考えられるべきは、組織とは一体何なのか、ということではないだろうか。
現状ではなく、新型コロナ問題以前の通常の状態で、例えば、企業なり、大学なり、病院なり、何らかの組織の中に沢山カメラを設置しておいて、その映像を観てみたとしよう。それを一日中観察しても、組織なるものが現れることはない。当たり前だが、組織とは基本的には物的な存在ではない、と考えることも可能だろう。
もしそうであるならば、物的に組織が存在しないならば、別にオフィスなどなくて良いではないか、という考えもまた、ある意味で正しいように見える。
『オフィスには何の価値があるのか』より
では、オフィスのない会社というものを考えてみたときにはどうだろうか。オフィスがないこと、それ自体をアイデンティティとしているのであれば、それはそれで「我々はオフィスがなくても良い仕事ができる」ということを語っているだろう。
一方、コストという観点からオフィスを持っていないとするならば、「お金を節約するためにオフィスを持たない」ということになり、様々な行いがそういう観点から解釈されることに注意をしたい。
オフィスを持たないことが単にコストを削減するという意味を包含するもう一枚外側の大きな解釈の枠組みを構築できないのであれば、それは組織としての基盤が脆いことを意味しているのではなかろうか。
ここまで書いてきてわかったことは、オフィスを持つか持たないかという問題よりも、その組織がいかなる解釈の枠組み、物語を生きているのか、ということが、今問われているということだ。
我々はそれぞれの組織という物語の方舟に乗って、この長きにわたる大洪水から何を守ろうとしているのだろうか。
何を方舟に積み込んで守っているのだろうか、そして私たちの方舟は何を嵐と隔てるために存在しているのだろうか。
私たちは物語を生き、紡ぎ、運ぶ存在なのである。
『オフィスには何の価値があるのか』より
組織はオフィスのなかに「ある」のではない。「会社さん」という人がいないように、「組織」という単一物ないしは単一人格が「ある」わけでもない。組織が、「【組】み合わされ、【織】り上げられることによって生まれる存在」だとするなら、その構成要素(積み木/糸)である「個人」と、個人と個人のあいだの「関係性」(組み合わせ方/織り上げ方)という2点に、「組織とは何なのか」という問いは収斂される。
組織が個人と関係性に還元されるというのは、もっと踏み込んで言うと、「分解した要素を組み立てなおすと元の総体に戻る」という要素還元的な「分解」というよりは、組織という存在が、「それぞれの個人の目に映る」というかたちで立ち上がるという意味において、社会構成的なことだと、私は考えている。
上記の引用では、その社会的に構成された生成物を「物語」あるいは「物語の方舟」と呼んでいる。
組織は、求心力たりえる物語を用意できるか?
という問いを考えるとき、本書にはそのヒントがある。現場でのOJTが、目下の「この現場」を超えて、組織全体にとって大きな意味を持つことを示唆している。
このように遠心力が働いている中で、どうやって職場・組織へとつなぎとめておく「求心力」を保てば良いのでしょうか?
愛社精神? 給料?はたまたチーム内の仲間意識?
ほとんどの会社にとって終身雇用を約束できなくなった時代に、どうやって従業員、特に自律型人材を自分たちの組織に留めておけるのでしょうか?
本書では、重視すべき点を「成長環境」に置きます。
この職場・組織に属していれば、この上司・先輩、仲間と一緒にいれば、自分が成長できると感じてもらうことこそ、求心力になるのです。
自ら考え行動する自律型人材をつなぎとめておけるのは、そこに「成長環境」があるからで す。
逆に言えば、「ここにいても、自分は成長できない」と感じれば、彼・彼女たちは、組織から離れていくでしょう。
『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』より
本書を読んで個人的にグッときた1つ目が、自律型人材というキーワードを通じた個人と組織の対比だとすると、2つ目がここで取り上げられている「成長環境」というキーワードだ。
組織が追い求めるのとは対象的に、潜在的な遠心力は大きい、自律型人材という個人のありよう。この自律型人材を組織につなぎとめておくための、求心力としての「物語」が、「成長環境」だというわけだ。
逆に言えば、「ここにいても、自分は成長できない」と感じれば、彼・彼女たちは、組織から離れていくでしょう。
この一文に、企業人事としては背筋が凍る。私の実感としても、この遠心力は間違いなく存在する。静かに、しかし、強く。
育成というとつい、組織(上司)が個人(部下)に対して、「◯◯ができるようになってくれないと困る」「そのためにはどうするか」という、「要求」の視点がちらつく。その組織(上司)側の要求(だけ)が満たされた状態が、「手のかからない人」という個人(部下)像だ。
一方で、個人、しかも組織が求めているはずの自律型人材という個人から見れば、「手のかからない人」という人材像は、「成長環境」を求めている彼らからすれば、踊り場ないしは墓場にあたる。さらに、「手のかからない人」という心踊らないゴールイメージに加えて、「ダメ上司」というのも、自律型人材から見れば、「この上司(中略)と一緒にいれば、自分が成長できる」とは感じられないという意味において、その場を離れたくなる(遠心力のもとになる)存在だ。
組織が個人に対して自律型人材たることを求めるというのは、個人と組織のあいだの関係を対等たらしめることを意味する。その対等な関係において、組織から個人への一方的な要求には、個人はもはや聞く耳を持ってはくれない。組織が個人に対して求めるのと相似を成すように、個人は組織に対して(いまは口数は少ないが)要求している。
「この組織は、成長環境たりえていますか?」
「あの人は、ダメ上司ではないですか?」
この要求が満たされないとき、個人は新しい物語を探し始める。なぜなら、組織が求めるところの自律型人材たる彼/彼女は、ミッション/キャリア/経済面において自らの足で立ち、自らを律して考え、行動する人だから。
「人を育てる」という物語
自律型人材という、組織から個人への希求は、個人と組織のあいだの関係性をヒリヒリしたもの(遠心力)に変える。その関係性に対する手当て(求心力)として、本書では成長環境を挙げている。
「働いてもらう」企業人事(組織)として、と同時に、「働く」個人としての私がここに温かい希望を感じるのは、成長環境という手当てが、組織からのドライな手出しに終始することなく、個人と関係性が本来的に持っている可能性に根ざしたものであるからだ。
一人前に育った後、長期的には、頼れるパートナーになって欲しいものです。
組織内の部下・後輩であれば、指導してくれたあなたのことを「自分を育ててくれた恩人」と思ってくれるかもしれません。
そうなれば、仮にどちらかが異動によって他部署に移ったとしても、その部署と連携しやすくなるでしょう。
育てた部下・後輩の数が増えるということは、自分のシンパ(味方)が増えるということ。
社内で大きな仕事を進めやすくなっていきます。
また、「部下・後輩を育てるのがうまい存在」となれば、社内からの評価が高まり、昇進・ 昇格につながっていくかもしれません。
私たちが関わったある企業では、ほぼ毎年新卒社員が配属される部署があり、そこで最初のトレーナーになる方(Nさん)の名字をとった「N塾」というものがありました。
その人に教わった社員は「N塾生」として、異動後も飲み会をしたりしているそうです。
しばらくたって、Nさんが最前線で教えなくなった後も、Nさんの後輩が「N塾」を引き継いで、大事な案件はNさんに相談を持ち込んでいるそうです。
『対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』より
育成というのは、組織(上司)から個人(部下)への一方的な要求という位置づけに閉じているわけではない。育てる側と育てられる側という、二人の個人のあいだの豊穣な関係性に向かって開かれている。
育てることは、人と人のつながりを生む。それも濃密な。そこにいる「その人」(自分を育ててくれた恩人)と、一緒にいる必然性を生む。それは紛れもなく、物語であり、求心力であるはずだ。しかも、組織という「外から持ち込まれた」物語ではなく、個人と個人のあいだの関係性という「内から生み出された」物語という意味で、力を持つ。
「成長環境」というキーワードは、個人が組織の外にいるうちは、組織から個人に向けて一方的に与えられるものと、個人には誤解されがちだ。まだ組織の外にいる就活生という個人が、「成長環境」という、まだ手触りのない妄想でもって会社を選ぶ場面(「私は、成長できる環境で働きたいです」)が典型的だ。すでに組織の中にいる人が、組織の外の人が発する「成長環境」という言葉に違和感を持つのは、そこにフリーライダーの匂い(「私は、成長させてくれる環境で働きたいです」)を嗅ぎ取るからだと思う。
しかし、真の「成長環境」というのは、組織から個人への一方的な「施し」ではない。自律型人材を自認するはずの個人(就活生)が、組織から「与えられる」ことを望んでいるのでは、自己矛盾のそしりを免れない。真の「成長環境」は、個人と個人のあいだの関係性、それも、教える側(与える側)と教わる側(与えられる側)という垣根を超えた、「ともに進む」という感覚の中から立ち上がってくる、まさしく「物語」なのだ。
「人を育てる」という横糸と縦糸
成長環境という物語は、教える側と教わる側という「そこにいる人どうし」のあいだの関係性から立ち上がってくるという点で、力強い求心力たりえる。そして、成長環境という物語が持つ力強さのもう一つの要因が、時間の経過とともに、教わる側(与えられる側)が今度は教える側(与える側)に回るという「循環」を生む点だ。
この循環も、組織から個人への一方的な施しではない。個人が、自分を育ててくれた人に対して自然と心に抱く「恩」を起点とした、人間本位で等身大の循環だ。「そこにいる人どうし」のあいだの関係性も、人間本位で等身大の関係性だった。しかし一方で、それは「その瞬間」のスナップショットに過ぎないとも言える。「成長環境」という物語の力強さは、「循環」というかたちで、そのスナップショット(横の関係性)が時間軸を超えて、縦の関係性をも織るところにある。
組織は、なにをもって組織としての体をなすのだろうか。オフィス(箱)ではないことには、みな気づいた。本書を通して私が感じたひとつの解は、成長環境というキーワードだ。成長環境という言葉は、前述したように、組織から個人への一方的な施しというフリーライダーのニュアンスをはらみがちだ。しかし、そうではない。教える側と教わる側のあいだに生まれる、対等な横の関係性である。かつ、教わる側が次は教える側に回るというかたちで時間軸を超える、縦の関係性でもある。どちらも人間本位で等身大な、横糸と縦糸で織り上げられるところに、人(「私」)は組織(「私たち」)という物語を見出すのではないだろうか。
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本書のキーワードである「自律型人材」「OJT(現場での育成)」から出発(と道草)して、個人と組織の対比や、組織の存在論について書いてみた。
次回は、「『教えること』は『教わること』につながっている」という観点で、OJTという形での育成が持つ可能性について書いてみようと思う。