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水戸黄門を久しぶりに観て思った事 / 理想が消えた社会

年老いた父さんがBS放送の水戸黄門を見ている。昔は嫌で嫌でしょうがなかった、「別のを見て良いよ」と言われたけど、何となく一緒に見てみると、昔とは違って観れる自分が居たので結局、最後迄観た。(昔、嫌だったのは水戸黄門とナイター野球で、世間一般に有る様な父との葛藤は、ほぼ皆無です)

逆に新しい時代劇を見ていると嫌に成る、コスプレにしか見えないし、昔より人の動きが観れる様に成ったせいで、動き方が現代人過ぎる。具体的には下の深い方から動けて無いと、それっぽい事を書いてみる。
でも顔付きも随分違う、昔の俳優はこれで自分より10歳下?と見た目に驚く。

自分は水戸黄門を、勧善懲悪の作品だと思っていた。でも改めて何度か観ると勧善懲悪と言うより、オッサンがオッサンの欲望に、釘を刺す為の作品だと思う様に成った。(自分自身がオッサンなのでこの表現を使います。)
勘違いして欲しく無いのだけど、単純なオッサンの願望、欲望そのものはそれほど悪では無い。それを具体化する時の手段によって様々な問題が起こる。

その欲望を叶える為に権力(悪代官)、金(越後屋)、暴力(武士)、を使う事に嫌悪感を持たせる作品として観ると腑に落ちる。
母にも「オッサンがオッサンに自制心を求める作品」で。本来の儒家思想が求める様な上位者自らが、自戒、自律する事を日本昔話風に促す作品なのでは?と説明すると、成程と頷いていた。(何故父では無く母なのか?それは父が既に寝ていた為)

世間に出て驚いたのは、キャバクラやコンパニオンを呼ぶ宴会を見た時。古代中国の崩壊間近の王朝の様な光景に、いつの時代の欲望だよと思った。
そんなだから世間に馴染めず、当然聖人君子に成れる訳も無く、ネットの隅っこでこんな文章を書いている。自分も金と権力を持ったら似たような事をして、醜い姿を晒して居たんだろう。

もう1つ父がよく見るドラマに「税務調査官・窓際太郎の事件簿」がある。
この作品にも水戸黄門と似たような面がある。でもこっちは主人公が明確に権力と戦うストーリーに成っている。

 ※Wikipediaから一部コピー
東京国税局の凄腕エリート税務官だった。しかし、政権与党に属するある政治家の汚職税事件に関わった事で部下を謀殺され、政治家の罪を問えぬままにその責を負う形で現在の職場に左遷される。そして、その一件は国税局に大きな傷として残ってしまった。
心に深い傷を負った窓辺は、左遷先の税務署にて税金に悩む弱い人々に「正しい税金」を教える「気のいい税務署のおじさん」として平和な日々を送っていた。しかし、「税は騙してでも過剰に取り立てるもの」と公言してはばからない現上司である島崎春男は、そんな窓辺を苦々しく思い、常に名前どおりの「窓際族」に追い落とそうと画策する。
 ※コピーはここ迄

税務署員は「税」を徴収する事が仕事
警察官は「法」を犯した市民を捕まえる事が仕事
兵士は「敵」を殺す事が仕事

これ等の組織は秩序を作る事が本来の目的で、仕事の内容はあくまでも手段。でもこれを実行する末端の者達にとっては、手段が日常なので、そのうち目的と手段の境界が溶けてしまう。
それなので窓辺太郎の上司の様に、自分が得をする訳では無いのに「税は騙してでも過剰に取り立てるもの」と公言する様な、権力と一体化してしまう人が出て来る。(そのせいで、出世する仕組みなのかも知れないけど)

今の会社に就職して20年程、ただの一度も「理想」を誰からも聞いた事が無い。自分は交友範囲が極端に狭いので違うと願いたい。
昔、従兄弟に「○○は理想でしか無い」と言われた時に、いや違うだろと思ったが、その時は何と説明すれば良いか分から無かった。
理想は実現されて無いから、「理想」で有って根本から考え方が間違っていると、今なら言うだろう。でも本当は実現不可能と言いたかったのだろうと思う。

何故、理想や倫理が必要か?
よくドラマや映画で見るが、兵士や警官が「市民を守るのが仕事だ」系のセリフがよく有る、これはとても重要な事で常にこれを意識し続けないと、あっという間に業務内容に取り込まれてしまう。自分はこれを仕事に喰われると言っている。
理想や倫理は実現されるのが重要では無く、これらは本来の目的を見失わない事で、仕組みと一体化しない為の自分を守る手段だと思う。

更に問題なのは上に書いた、「税」「法」「敵」の定義は万能の神が決めたのでは無く、あくまでも人が決めた定義なので、独裁国家なら逆らえば「敵」認定されて殺される。
もっと緩い政権でも「税」の定義を変えてしまえば、税務署員はひたすら「税」を取り立てる事に成ってしまう。
ドラマを観て、窓辺太郎の行動は問題を是正する以上に、理想を追いそれを現実化する過程や、態度そのものが、現実に取り込まれない為には重要だと伝わってくる。

儒家思想がルールとして明文化し易い物で無く、「仁」や「義」と言う比較し難い事を重視するのは、理想を実現化しようと努める時に発揮される、運動性が固定されない様にする為だと思う。
(「運動性」←この表現が言葉として適切なのか、自信が有りません。何となく出て来ました、多分何処かで見たのだろう。でも伝えたい事は分かって貰えると思います。)

結局ルールはどうしても固定的になる、そうじゃないと基準として役に立たないから。でも、それのみだと最終的には上からの命令で全てが決まり。固定的な組織はいずれ必ず崩壊する。
それを避ける為の手段が、自分が仁義に叶う行いを出来ているか?それを個々人が思い悩み考える事そのものが、上から下へ、とは別方向の力を組織に与えると思っています。
ただ、これは正に言うは易しで、今の自分には到底無理です。

この事に気付いてからは、こう言うドラマを実現化されて無いから現実的では無い、と言うのはむしろ現実的では無いと思う様に成った。
だから最近では、話しを出来そうな人やタイミングでは、「理想」を遠回しに少しでも話しの中に、紛れ込ます様に努めています。

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