Nature assigns the Sun — 天文学と占星術、あるいは太陽と友達の違いについて
Nature assigns the Sun —
That — is Astronomy —
Nature cannot enact a Friend —
Taht — is Astrology.
自然は太陽を配置する
これを天文学という
自然に友達は決まらない
これを占星術という
大学のサークルで出逢った友達と昨日久しぶりに会い、イタリアンを楽しみました。
友人は武蔵小杉に住んでいて、大学近くのこの街に来るのは五年ぶりとのこと。食後は当時からずいぶんと変わった街並みを二人で眺め歩きながら、夜空の下に思い出ばなしの花を咲かせました。
ところで僕らの大学時代のサークルといえば、天文部。
というわけで、今回の詩はこちら。
短く、謎めいた、箴言風の詩ですね。
Astronomy(天文学)とAstrology(占星術)という近い印象の言葉が比較される一方で、
the Sun(太陽)とa Friend(友達)はそもそもまったくかけ離れた言葉に聞こえるのでおもしろい。
冠詞に注目してみましょう。
sunには定冠詞のthe、
friendには不定冠詞のaがついています。
冠詞は名詞に付きますが、
特定されたものに付くときはthe(定冠詞)、
不特定なものに付くときはa/an(不定冠詞)です。
たとえば、
I ate an apple. 私はリンゴを一つ食べた。
このとき、リンゴはこの世界にある無数のリンゴのうちの、不特定な一つにすぎないので、an(不定冠詞)。
The apple was delicious. そのリンゴはおいしかった。
つづけてこう言う場合、このリンゴはもはや不特定なリンゴの一つではなく、さっき私が食べた「その」リンゴだと分かるので、the(定冠詞)になります。
なんか塾の授業みたいになっちゃって恐縮です……
話を詩に戻すと、
ではSunにはどちらの冠詞が付くでしょうか。
太陽はもともと一つしかないので、
いつ、どこで、だれが太陽といっても、あの太陽のことをさしているのだと分かる。
よって太陽はいつも定冠詞がつき、
the sunです。
さて、太陽に定冠詞がつくことは、この詩においてどんな意味を持っているのか。
それこそが僕たちの知りたいところです。
太陽には定冠詞がつく。だから僕らは、いつ、どこで、誰とでも、あの太陽について語ることができる。
そして、僕らは太陽について同じように知ることができる。
天文学をつかって。
では、友達はどうか?
友達には不定冠詞がつく。だから僕らはまず語らなければならない。あの人はどんな友達なのか。あの人と友達なのは何故なのか。……
そう、ここがポイントだ。
僕たちは友達について、太陽と同じように語ることはできなかった。
あの人はどんな友達なのか。
あの人と友達なのは何故なのか。
このように問うことは、できない。
正しくは、こうだ。
あの人は私にとって、どんな友達なのか。
あの人と私が、友達なのは何故なのか。
太陽について、僕たちは客観的に語ることができる。
しかし
友達については、私(主観)を抜きにしては語れない。
太陽について明らかにするのは自然(科学)である。
友達はそうではなく、自分との関係や相性の中で明らかになっていく。
前者が天文学で、
後者が占星術。
AstronomyとAstrologyという言葉で、
ディキンソンが言い分けようとしたことは、
そういうことではないだろうか。
友達は必ず、誰かの友達である。
言われてみればシンプルなことなのに、今までこのことについてちゃんと考えたことはなかった気がする。
隣を歩く友には、僕のほかにも友達がいる。その意味で、僕は彼の友達の一人でしかない。
でも、
自分との関係、ということを考えてみたとき、僕の友達としての彼も、彼の友達としての僕も、不特定なんかじゃない、世界に一人だけの存在だ。
友達とは、
自分だけがその輝きを知っている星のようなものかもしれないな。
そんなことを思い、
肩を並べて歩く隣の友を
とても温かく感じた夜だった。
『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICHINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR