和風創作フレンチ
京都のカフェを巡りて、飲んだコーヒーについて言及していく予定ですが、これはあくまで速記的で、備忘録的なものです、制御不能です、個人的見解です、そのときの気分とか体調とか、もちろん相手の調子もあるだろうし、いろいろな要素が絡みあいます、
自分で淹れたやつです
おもに飯の話です
瑞々しい草のように
だいぶ寝過ごした休日、そぼ降る雨の中、歩いてコヨーテに行く、コヨーテ、歩いていけるほど近いのに今まで来たことがなかった、エルサルバドルの農園のコーヒー豆を扱う、スペシャリティコーヒーの店、エルサルバドル、なんとなく、心惹かれる響きだ、ハンドドリップで選べる豆のラインナップは、浅煎りが中心、中煎りと、深煎りも、一種類ずつある、今日は中煎りにした、 温かい温度がそのまま優しさであるかのようにじんわりと染み入る味わい、焼きリンゴや黒糖を思わせる、香ばしさと甘さ、そして酸味、やはり
カフェ、吟遊詩人からの帰り道、珈琲、と潔い看板に目がとまり、吸い込まれるように店の中へ、み空、半地下のような空間ながら、薄暗い印象はなく、風通しの良い空間、明るい廃墟、というか、少し不思議な、SF的な、そんなムードも漂っている、カウンターにつき、珈琲を注文、薄めか濃いめか選べたので、濃いめにした、ネルドリップでじっくりと抽出する店主の、後ろ姿を眺めながら、レコードの音に耳を傾ける、至福のひととき、そして珈琲、美味い、深い薫香と完熟した果実のような甘み、これぞ深煎り、これぞネル
コーヒーを求めてさすらう休日、銀閣寺周辺、哲学の道の傍ら、気になっていたカフェ、吟遊詩人でモーニング、朝の爽やかな気配にピッタリの、明るく、清潔な店内、そしてプロフェッサー然とした店主に迎えられ、席に着く、どこから来たのかと問われ、七条と答える、出町柳から歩いてきたと言うと、労ってくれる、そんなやり取りを交わしながら、中深煎りのブレンドとモーニングセットを注文した、 抽出はペーパードリップ、マイルドブレンドと深煎りブレンドの間をとって中深煎りのブレンドを今日はチョイスしたが
の喫茶室でカフェ、喫茶室、とはいっても室内は満席で、我々はテラス、開放感あふれるテラスで、まるで友人と、ヨーロッパ旅行をしているような気分を味わいながら、ブルーベリーパイと、そしてコーヒーを味わうひととき、ブルーベリーパイは現在の、アンドリュー・ワイエス展にあわせた限定のメニュー、ワイエスの絵にも、ブルーベリーを収穫するオルソンハウスの人たちが描かれていたことを思い出す、コーヒーは後口のスッキリした、マイルドな味わいだ、コロンビア、グアテマラ、ブラジル、あたりのブレンドではな
haraに来れた、なんたる僥倖、以前haraを目指して来たときはお店の前に行列、諦めて帰ったものだが、今日は京都の古書会館、を目指して歩く途中、なんとなく通りかかったら空いていて入れた、ありがたい、昼下がりの空腹にぶちかます感謝のBLT、 とてもおいしい、一見素朴ながら、吟味された素材の味が光る、レタスは言わずもがな、ベーコンがむしろ影となり、トマトを輝かせるサンド、パンの焦げ具合すら、計算された塩梅に思えてくる、そしてコーヒーもうまい、深い香り、トロンとした飲み口で、甘い
ゴゴゴゴゴゴゴゴ… 朝、電車に乗って出町柳、ギリギリの季節ではあるが萩を見にきた、その前に朝の糧を得たく思い、地上を徘徊する、ゴゴゴゴゴゴ、と、お洒落な店でベーグルを食す休日というのにも憧れたが、ここはやはり珈琲と思い、ゴゴ、昭和の香り漂う感じの店だが、果たしてどうか、 コーヒーにモーニングセットでトーストと、バナナかゆで卵が付く、というわけでとくに何も考えずバナナにした、バナナの、正しい食べ方が分からない、抽出はサイフォン、もっとスッキリ、あっさりしているかと思いきや、
先週、大変遅ればせながら梨木神社へ萩を見に行った。見頃を過ぎていたからか、参道の両側に萩の生い茂る境内は人もまばらで、かえって一人、ゆっくりと万葉の歌に想いを馳せることができた。 秋萩におきたる露の風吹きて 落つる涙はとどめかねつも いい歌だ。 前半は自然の描写、 後半はそこへ自らの心と身体を、重ね合わせている。 と、言ってしまえばそれまでなのだが、それが僕の心に、こんなにも美しい情景を描き出すのは、いったいなぜだろう。 細かい雨が降り、風も出てきた。 そんな中考えて
以前、「さつき山」の歌を紹介したが、これもまた、特に説明のいらない歌かもしれない。そしてやはり、詠み人知らず。万葉にはこういう歌があって、ほんとうに素晴らしいなと思う。 君に恋ひ 萎え うらぶれ 我が居れば 〜して、〜して…と言葉(音)の上ではやたら動きがあるように見えるが、実態は、「(私が)恋をして、いた」というだけのことであり、 実際、恋をすると人は悶々として心乱れ、しかし実際には何もしない(できない)で、ただただ時間だけが過ぎていってしまうものだから、この歌は実にリ
休日、久しぶりにゆっくり図書館にでも入り浸ろう、と岡崎へ自転車を走らせると、目と鼻の先にある平安神宮前の公園で、毎月恒例の蚤の市が開催されている、今日、やってたのか、どおりで人が多いわけだ、自転車を停め、その足で図書館へ向かう前にふらりと立ち寄ってみる、と、たまたまその瞬間、ラインのメッセージをやり取りしていた人に、そのことを伝えてみると、たまたまその人も午前中に蚤の市に来ていたようで、お昼を食べに家に戻ったものの、買おうか迷っていたものもあるし、もう一回行こうかな、とのこと
休日、モーニングをきめようと思い立ち、自転車を走らせる秋の風、小川珈琲に決めた、と思いきや混んでいたので神乃珈琲、そういえば京都に来てから初めて名前を聞いたが、神乃珈琲、まだ一度も来たことがなかったのでちょうどよかった、旅先のホテルのラウンジのような空間、ミュージック、クッション性の高い椅子、欄間を思わせる木の意匠、やはりそういったものが、旅先のホテルのラウンジを思わせるのだろう、そんな空間でフレンチトーストのモーニングをいただく、900円、良心の塊だ、 珈琲が先に、それか
来る前から、なんとなく心が惹かれていた、しかし家から近いとはいえない距離にあり、自転車を走らせようにも毎日暑いので、なかなかその距離を埋めることができず、今日まで来てしまったが、ようやく最近秋の風を感じるようになってきたので、その風を感じながら自転車を走らせて今日は来てみた、ウズラ、思っていた通り、まるでずっとここにあったかのように、どこか懐かしさ漂う雰囲気の店だ、一方でガラスやテーブル、棚やタイルの綺麗さはまったく不自然なほどで、いや、それを不自然だと感じさせないのが素晴ら
さや、さや、と歌われる言葉は意味というよりも、音そのものが、的確な世界の描写になっている。それは物事をことばの意味で説明するよりも、いっそうの臨場感をもって、聴き手に伝わってくる。この万葉の歌はまさに、その格好の例と言えるのではないだろうか。 一方、内容はというと、周りの物音がうるさいにもかかわらず、心は揺れず、一人の人を思っているという、現代の人間が読んでも、どこかで心当たりがあるはずの、心の在り様を歌っている。私たちも、物思いにふけっていて、街の喧騒がうるさくも遠く、感
ランチのあと、その近くまで来たので、最近読んだ雑誌に載っていたblend kyotoへ、店内にあまりスペースはないが、スタッフが明るい感じで声をかけてくれ、過ごしやすくしてくれる、ここのシステムは数種類のスペシャリティコーヒーの中から、説明を見たり聞いたり、豆の匂いを嗅いだりしながら2つを選び、その2つをブレンドして飲む、というもの、選んだのはどちらもコロンビア、ミラン農園、農園まで一緒だ、品種も同じカトゥーラで、シドラカルチャリングとナイトロウォッシュド、シドラはリンゴやバ
蔵前、最近はコーヒー目的でこの辺りのエリアに来る機会も増えてきた、前回バッハから蕪木へと向かう途中で見つけ、気になっていた店、今回はその、喫茶半月を訪れた、 木の入口もさることながら、更にその額縁となる建物のブルーのタイルが美しく、しばし眺めいる、店に入ると声をかけられ、まっすぐレジへ進んでオーダー、広々とした店内、貴婦人の家に行ったことはないが、貴婦人の家のような雰囲気だ、 季節のシュークリームとコーヒー、シュークリームは桃で、季節を思い出す、夏、あの暑い季節を、そして
この男の身に、いったい何があったというのだろう。あるいは存外、何もなかったのかもしれない。ただ一つ確かに言えるのは、男には心細さがあったということだ。そういう心持ちであったと解してこそ、家の庭の少しの竹の間を通り過ぎる風の音が、かすかに、聞こえてくるのである。 心を吹き抜けていく風の来し方に思いを巡らせていると、この心細さは人間本来の孤独に由来するのではないかという気がしてくる。 人はみな孤独だ。しかし同時に人はみな孤独に耐えられないので、どうにかしてそれをやり過ごそうとす
Go to 鎌倉。 友人とカレーを食したその足でさらに北鎌倉へと足を伸ばしていく。 なぜこんなにも足を伸ばすのだろうか。 目的は無論、「グレート・リセット」だ。 主に観光地などで食事を楽しんだあと、 神社仏閣を訪れることで適度な運動と神仏の加護によりカロリーはゼロとなる。 これすなわち、グレート・リセットである。 うおおおおおおおおおおおうおおおおおおおおおおおおおおおおおおリセットおおおおおおおおおおおおおおおおお ふう……。 おそらく住職のバイクだろう。 あまり