Elysium is as far as to —— 極楽までの道のりは
Elysium is as far as to
The very nearest Room
If in that Room a Friend await
Felicity or Doom ——
What fortitude the Soul contains,
That it can so endure
The accent of a coming Foot ——
The opening of a Door ——
極楽までの道のりは
すぐ隣の部屋へ行くようなものだ
もしその部屋で友が待っているのなら
善きにせよ、悪きにせよ、
その運命の宣告を
なんと不屈の魂よ
それはじっと耐え忍んでいる
足音が近づいてくるのを
ドアが開かれるのを
ずっと行ってみたかったもののいつオープンしているのか分からなかった最寄りのカフェに、この前ようやく行くことができました。ちなみにその経験をもとに書いたのがこちら。↓
天国のような場所というと、自分の今の生活からかけ離れたものを想像しがちだけれど、それは案外身近なところにもあるのかもしれない。
そんな着想がきっかけで、ディキンソンのこの詩を思い出したのですが、いざ翻訳しようと詩を繰り返し読んでいるうちに、いつしか僕の思考も、遠く離れた場所へと行き着いていました。
この詩の前半は、とくに謎めいています。
Elysium(エリュシオン)とはギリシャ神話で、よき行いをした人が死後に辿り着く場所のこと。それがすぐ隣の部屋と同じくらいの距離しかない、とはどういうことなのか。
そしてこの隣の部屋も、そこに「友」がいて、「至福」あるいは「破滅」を待っているという、ずいぶん特殊な状況下にあるようです。
一方、詩の後半は比較的分かりやすいでしょうか。
Elysiumが死後の世界ということは、
The accent of a coming Foot ——
The opening of a Door ——
これらが示すものは「死の訪れ」であり、
それに対して怯えることなく、
静かに待つことができるSoul(魂)を讃えています。
そんな高貴な魂の持ち主が、「友」。
ならば、この友とはいったい誰のことなのか。
ここまで考えて僕は唐突に、そして直感的に、
これはソクラテスのことではないか、と思ったのです。
古代ギリシャの哲学者、ソクラテス。
このnoteの冒頭に掲げたセリフは、死刑を言い渡されたソクラテスが法廷を去る場面で、最後に口にした言葉です。
いま手元に『ソクラテスの弁明』の本がなく、記憶を頼りに書いたので正確な引用ではありません。(すみません。)
しかし、こんなふうに記憶だけを頼りに思い出せるほど、いつか本で読んだこのソクラテスの言葉は、僕の心に深く焼き付いていました。
ふつう、死は恐怖や嫌悪の対象であって、待ち受けたり、望んだりするものではない。少なくとも遠ざけておくべきものと思われていますよね。
でも、はたしてそれは正しいのでしょうか。
誰も死について知ることはできないはずなのに。
なぜ死がよくないと思っているんだろう。
生が肯定すべきものだから?
生を肯定したら死は否定しなければいけないのだろうか。
…と、まあ色々考えられますが
少なくとも僕たちが死を知らないことは確かなのだから、
知らないことについてあれこれ決めてかかるのではなく、
まずはじっさいによく確かめてみようじゃないか。
ソクラテスもそういうことが言いたかったんだと思います。そしてただ言うだけではなく、ほんとうにそう思っていたからこそ、じっさいに自分が死ぬときも、静かにその時を待つことができた。
Elysiumをfar(遠い)といいつつも、
どれくらい遠いかというと、
The very nearest Room、
まさにすぐ隣の部屋、
と答えるディキンソン。
ひねくれた形で表現された彼女の距離感が、
こうしてみると、
いま少し理解できたような気がします。
つまり、
古代ギリシャにソクラテスが死を待った部屋は、遠い。
しかし、その魂の在り方に強く共鳴し、
心のすぐ近くに感じる。
エリュシオンもまた遠く、
しかし、
心はそれほど離れていないと信じている。
今回の翻訳は思いつきに近い冒険でしたが、
きっとぼくはもうずいぶん前から、
ディキンソンの作品に、ソクラテスが示したそれと似た、魂の孤高さを感じていました。
彼女は彼を友のように慕っていたのではないかと、
そう考える根拠としては、
十分だと思うのです。
『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICKINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?