『365日のシンプルライフ』を観て②モノ語りから【自己理解】を深める!
ドラマ・映画好きのキャリアコンサルタント xyzです。
前回、フィンランド映画『365日のシンプルライフ』を観て① というタイトルで記事を書きました。
今回は②ということで、モノ語りを通して自分を知る、【自己理解】をテーマに書こうと思います。
キャリコンを勉強しているとよく出てくる言葉、【自己理解】。
この【自己理解】という言葉の定義、厚生労働省のジョブ・カードのページにも説明があります。
これまでの経験を振り返り、客観的に自分を見つめなおす。
キャリアコンサルティングに限らず、自分を見つめなおすこと(内省)は、今抱えている問題の解決の糸口になりますよね。
ペトリの1年にわたる実験生活も、モノの取捨選択を通じて自分と向き合う時間を持つ、と捉えれば自己理解を深めるための1年間の記録とも言えます。贅沢な時間の使い方だなぁ……!
しあわせって何だっけ?
所持品完全にゼロの状態から、約3ヶ月かけて必需品を手に入れ、次の3ヶ月で生活が楽しくなるモノを選んだペトリ。実験生活も、初めのうちは良い感じで進んでいました。
実際、8日目のペトリは、こんなにもhappyな様子だったのです。
前日にマットレスが部屋に来て、翌朝起き抜けの呟きでした。念願のモノを手に入れた喜びと、やっとぐっすり眠れたという充足感からか、テンション高めなペトリです。しかし、いくらペトリが若いとはいえ、ヘルシンキの冬の夜、数日間フローリングで直に寝ていたなんて……‼(よい子は真似しないでね)
素肌に直接長コートを着ていた時期を経て、やっとセーターを手に入れて着た時の「服に身を包むのは気持ちがいい」という呟きもありました。
このセリフ、わたしには鳥肌が立つくらい衝撃的でした。物心ついてからというもの「服を着る」という行為が当たり前のことすぎて、ペトリがそこまで感動していることがとても新鮮に映ったのです。
「快」の感覚。
衣服が身体を守ってくれている感覚。
心地いい。気持ちがいい。暖かい。柔らかい。癒される。
着る服がない、という状態になってみて鋭敏になった皮膚感覚への素直な驚きと感動、そんなペトリの心の動きが彼の呟きから感じ取れました。
化粧水や美容液のCMで「お肌が喜んでる!」という表現を見聞きしますが、ペトリの呟きにも「お肌が喜んでる!」的な実感がこもっているように聞こえました。
しあわせってモノ(所有)よりコト(経験、体験、感覚)にあるのですね。
たくさんのモノに囲まれていても感じられなかったしあわせ。モノがそこにあるだけでは、しあわせとは言えない—。
実験生活を始めてから、ペトリのしあわせの感受性が高まったように見えました。
モノはもう要らない
持ち物ゼロから始まって、ひとつひとつと欲しいものが手に入り、生活の不自由さが解消されていくにつれ、急速にモノへの興味が薄れていきます。そして、なんだか浮かない表情のペトリ。
映画の冒頭のセリフがこれです。
いきなりこのセリフから始まったので初めは???となりました。実験生活6か月目のペトリの様子から、実験生活を始めるところに戻るので(しかも実験生活前の様子がちょくちょくカットバックされる)つかみとしては……ちょっとわかりにくいぞ!
モノのことばかり考え過ぎて、モノと向き合う毎日に少し疲れてしまったのか、もう十分なモノは得てしまい、渇望感がなくなったからなのか。もう、モノはいらないとまで言い出すペトリ。
ひと通り物質的に満たされた後、ペトリは虚無感にとらわれているように見えました。
この大胆な生活実験を始める前、ペトリはこんなことを言っていました。
モノから解放されて、しあわせについて考えたいと言っていたペトリ。
モノに支配されることからは逃れることができても、依然として心はからっぽのまま。いったい心は何で満たされるのでしょうね。ペトリのモノ選びに迷いと葛藤が生まれてきます。
モノではないもの
「今、一番恋しいのは何?」
実験生活のことを知った歳の離れた従弟(小学生くらい?)は興味津々でペトリにあれこれ質問してきます。
子供は何でも直球で聞くなぁ。その素直さ、うらやましい……。
「彼女はいないの?」
タジタジとしているペトリにさらに突っ込んだ質問をしてくる従弟。
「欲しいのはそれだね!」と従弟に言われて苦笑いするしかないペトリ。図星だったか!
「十分なモノ、だけでは生活は満たされない。」
おばあちゃんにも、従弟と同じようなことを言われます。
ペトリはおばあちゃん子のようで、よく家に行ってはいろんな話を聞いたり聞いてもらったりしています。
ペトリにとって人生のメンター的存在のように見受けました。
この映画の中でもおばあちゃんはよく登場します。
なんとなく気分が沈んでいる様子のペトリに対しておばあちゃんが一言。
おばあちゃん、ペトリの求めているもの、わかってますね。そう、好きな人、大切に思う人の存在です。
いくらモノで満たされていても、大切な存在がなければ、人生は味気ないとペトリに伝えたかったのでしょうか。
従弟やおばあちゃんに言われるまでもなく、一番そのことを痛感していたのはペトリ本人のようで……。
モノ選びの基準が変わった!
実験生活開始から7ヶ月が過ぎた頃に、ついにペトリに気になる子ができました。付き合い始める前のドキドキ感、相手に気に入られたいと思ういじらしさ。ペトリ、がんばれ!と応援してしまいます。
ペトリの表情が明るくイキイキとしていて、観ているこちらもつられてニコニコしてしまうくらい。よかったねえ、ペトリ。
彼女の名前はマイヤ。
友達に話すことも、マイヤのことばかり。(ペトリ、かなりわかりやすいタイプです)(そしてこのペトリの友人たちが皆いいヤツなんです)
ペトリの変化は表情だけではありません。一日一個取り出すモノ選びにも変化が出てきます。
それまでは「要/不要」「自分のため」という単純な基準で決定できたモノ選び。マイヤと知り合ってからは、彼女と過ごす時間のためのモノ選びへ。
モノ選びの変化の過程で、ペトリの今までのガールフレンドとの関わり方への内省も生まれてきます。
「たくさんのモノ=経済的な豊かさ」を誇示することがペトリにとっての男の甲斐性であり、ありたい姿であり、それが彼女から求められる姿だと信じていた過去。
この実験生活下で新たにモノを買うことも許されず、あるもので何とかしなければならなくなったペトリは、いかに彼女の歓心を得るか、いかに彼女を満足させるか、あれこれと知恵を絞るようになります。
「モノより思い出。」
モノの少ない生活に慣れてきた頃に「もう興味はない!」と言いきっていた自慢の釣り道具セットも、アウトドア好きのマイヤのお蔭で日の目を見るように。一度は不用品扱いしていたけれど(笑)再び価値が生まれました。早まって処分しなくてよかったね、ペトリ。
こうして、マイヤとの付き合いが深まっていくにつれ、ペトリの生活空間のなかに「なくても困らないモノ」だけど「あれば楽しいモノ」が増えていきます。
料理における基本調味料以外のスパイス。ベーシックなワードローブに投入するアクセサリーや小物。そういう類のモノ。
モノは二人で過ごす時間を彩る、重要な小道具。
昔、日産のセレナという車のCMで「モノより思い出。」というコピーがありました。
モノを買うことよりも、買った後そのモノを使って過ごす時間が尊いのです。ふたりでも大勢でも、もちろんひとりでもいいのですけれど。
モノ→コト→トキ かぁ……。
こんなことを考えていたら、ちょうど「トキ消費」について書かれている記事を見つけました。
モノ→コト→トキ→イミ
さらに言うと、今やZ世代は、トキ消費からイミ消費(商品、サービスそのものだけではなく、それらに付帯する社会的文化的な「価値」に共感して選択する消費行動)という流れになっているのだそうです。
SDGs(持続可能な開発目標)や社会貢献の考えにも通じますね。
モノとの関わり方や消費行動も、時代の流れとともに変化しています。
部屋は心
さて、365日後のペトリの部屋は、きっちり片付いてはいないけれど、いかにも居心地の良さそうな部屋になっていました。
一言で言うと、おおらかな部屋、かな。
片付きすぎてない。殺風景じゃない。部屋の至る所に、恋人マイヤの存在を感じさせるモノがあって。時間を豊かにしてくれている、愛着あるモノたちが、ごく自然に部屋になじんでいる。ペトリの満たされた心のうちが表れているかのようです。
部屋は、その時のペトリの心のあり様と深くリンクしているのだと思いました。部屋は単なる居住空間ではなく、住む人の心そのものを映す鏡。(わたしのなかでは本棚も同じカテゴリーです。)
ペトリの部屋の変遷を見てふと思ったのですが、何にもない空っぽの部屋にひとつひとつ選んだモノを入れていく作業は、箱庭作りにも似ていますね。(少々乱暴なたとえかもしれませんが)
部屋作りと箱庭作り
箱庭は、簡単に言うと江戸時代後期から明治時代にかけて流行した遊びに使用する浅箱のことです。砂やミニチュアを使って好きな風景を作る、箱庭遊び。昔は盆栽を使った盆景を意味したようですね。
箱庭といえば、箱庭療法を思い出す人もいらっしゃるかもしれませんね。
セラピストが見守る中、クライエントが箱の中にミニチュアを置いたり砂自体で何かを表現したり、など。
心の風景。
自分の内的世界を表現する箱庭作りと部屋作り、共通項があるような……。
ペトリの実験生活は、等身大の箱庭作りだったのかな、とわたしは思いました。(箱庭療法にあまり明るくないもので、もしも不適切な表現でしたら申し訳ございません!)
雑多なモノにあふれて乱雑な部屋に住んでいたペトリは、何が自分に必要で何が大切かわからない、混沌の中にいました。いったんすべてをゼロにして、ひとつずつ今の自分に必要なモノだけを選び抜く。自分自身を知る作業を通じて、部屋が整い、自分の心も整っていきます。
必要なモノだけを揃えた部屋は、すっきりとしていても殺風景さが目立ちました。部屋がなんというか、よそよそしい雰囲気なのです。すっきりしているだけでは足りない(十分ではない)のですね。ペトリの表情も憂鬱そうに見えた頃です。
実験生活が終わる頃のペトリの部屋は、必要なものが必要なだけあり、至る所に彼女と過ごした時間の「気配」が感じられました。モノは少なめでも殺風景ではない、シンプルでコージーな(cozy:こじんまりとした、居心地の良い)空間になっていました。
モノが増えても、以前のように混沌としていないし、ひとつひとつのモノがそこにあることに意味があり、大切に扱われています。
部屋とは、今、ここに暮らす、わたしがしあわせに過ごせる場所であるべきなのです。今あること(モノ)に目を向けるというのは、今ここの自分が感じている感情や感覚を意識して大切にすることと同じなのですね。
所有と責任
「所有には責任があり、それが重荷になる。」
ペトリが言った言葉です。
責任が持ちきれないものを抱えない。適量を知る。それはまぎれもなく自分を知るということで。モノとの付き合い方を考えることは紛れもなく自分自身のあり方を考えることと等しいのです。
お金を出せば何でもすぐに買える現代で、所有することへのハードルはかなり低くなっているから、本来所有には(消耗品や使い捨て商品を除いて)責任が伴うものという事実を忘れてしまいがちです。
断捨離、終活(生前整理)なども、自分を知る、自分と向き合う機会ですね。
そう考えると、この1年間の実験生活は、ペトリの自己理解の軌跡であり、モノとの関わりを通して語られた、ペトリのストーリー(モノ語り)でした。そしてペトリが生きていく間、彼のモノ語りは変わっていくのでしょうね。
5年後、10年後、20年後のペトリの部屋を見てみたいなぁと思いました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました^^