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【沈黙】と【知者不言】〜「PERFECT DAYS」を観て②
ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。
先日「PERFECT DAYS」を観てから心に浮かんだことを、さまざまなテーマを切り口で書いています。
前回はこちら。
主人公の、毎日をシンプルに、心豊かに過ごす、シンプリストな生き方に焦点を当てました。
第2弾は【沈黙】そして【言葉】がテーマです。
セリフのない数分間
映画が始まって数分ほど、主人公ヒラヤマは全く言葉を発しません。
道を掃く箒の動き、遠くの鳥のさえずり、ぱたんと畳むせんべい布団、古アパートの階段の軋み、ヒラヤマが口髭を整える時の慎重なハサミさばき、仕事着に着替える時の衣擦れ、鍵もかけず無造作にしめる薄い玄関ドア、ガコン、と大きな音を立てて落ちる自販機の缶コーヒー、車に乗り込み、手探りでカセットテープを何個か取り出す大きな手……。
起床からの一連の流れ、静けさの中に生活音や周囲の物音が粒立ってきます。
声のないこの数分で、聴覚が研ぎ澄まされていき、静寂の中にもさまざまな種類の音が潜んでいるのがわかります。静かだからこそ、かそけき音が現れてくるのです。
劇場で観ているわたしたちの耳が、まるでヒラヤマの耳となったかのような不思議な一体感。ヒラヤマと同じ空間を感じているような錯覚に陥ります……。
無口というよりは寡黙
ヒラヤマはあまり言葉数が多くないようです。
一人暮らしで、仕事も個人作業、マイカー通勤、移動は基本自転車……自ずと話す機会が少ないから、環境による無口(無口になってしまった)なのか、それとも生来無口なのかはわかりません。が、言うことは言う人のようですし、興奮して怒ることだってあります。
ペアを組んで仕事をしていた同僚が急に辞めると言い出して2人分のシフトをひとりでする羽目になった時は、会社の担当に電話越しに声を荒げていたし、行きつけの店の馴染みの店員には小声だけれど挨拶はするし、姪のニコの質問にも誠実に答えているし。
余計なことは喋らない、口数は少ないけれど、ちゃんとコミュニケーションはとっています。
無口というよりは寡黙な人なのでしょう。寡黙には、思慮深いというニュアンスが加わりますね。
沈黙がこわいから?
さて、映画に登場するヒラヤマの同僚タカシ。ヒラヤマとは対照的に描かれています。
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まず、圧倒的に若い。
落ち着きがない。
時間にルーズ。
仕事に身が入らない。スマホ見ながらテキトーに作業。
仕事への責任感もなさげ。
おしゃべり、だけどボキャ貧。
ウケてないのに何度も同じこと言う。
モテたくて仕方ない(けれど、モテない笑)
静かな状況が耐えられないのか怖いのか、べらべらと喋り続けるタカオ。沈黙を埋めようとするかのように、必死で喋ってる様子。沈黙が不安だったりプレッシャーになったりするのかな。
一方、ヒラヤマは沈黙を物ともせず泰然としています。ヒラヤマは自分を飾ろうとか大きく見せようといった欲とも無縁に見えます。人からどう思われるかを気にしないようにも。だから沈黙を気まずいとかどうにかしようとか考えないのでしょう。
言葉はなくても思索はある。ヒラヤマは沈黙の時間の豊かさや自由さをわかっている人のように見えました。
知る者は言わず……またしても老子!
前回の記事で老子の【知足者富】を引用しましたが、今回もまた老子の含蓄あるお言葉を拝借します。
知者不言 言者不知
書き下し文と訳はこちら。
知る者は言わず 言う者は知らず
意訳)物事の道理をわきまえている者は、それを軽々しく口にしない。(逆に)しゃべり過ぎる人は(物事の道理を)わかっていない。
口数の多い人は軽薄に見えるだけではなく、ものをわかってない人認定されてしまっていますよー!
借りてきた言葉ではない、ヒラヤマ自身の思いを伝える言葉。
「今度は今度 今は今」
言葉が少ないから、発せられる言葉をきちんと受け取ってもらえる。
雄弁な沈黙
言葉数(かず)に頼らなくても、ヒラヤマの佇まいや表情は彼自身を雄弁に語っています。ヒラヤマについての情報はとても少ないのですが、ヒラヤマと他者との関わり方やその時の表情、間合いなどで彼の過去を窺い知ったり、彼の心の動きを察することができます。ヒラヤマは総じて話さないので、沈黙の時間が長いです。
沈黙はただ「言葉がない」状態ではなく、発話として表に出てこない「無数の言葉やら言葉にならない曖昧かつ複雑な思いやら諸々をすべて内包している状態」と捉えると、ヒラヤマの沈黙の時間には秘められたたくさんの言葉や思いが渦巻いている、と考えられますね。
言葉の限界を知る者
ヒラヤマが沈黙を好むように見えるのも、ヒラヤマが言葉の持つ力の大きさとともに言葉の不確実さを心許なく感じているから?
過去に言葉で認識の齟齬があったとかコミュニケーション不全に悩んだとか……と語られないヒラヤマの過去を勝手に想像(妄想)してしまいました。
言葉は、自らの内面世界を表現するツールとしては便利なものですが、曖昧で複雑な内面世界を100パーセント正確に表現できるものではありません。なぜなら言葉は記号にすぎないからです。
他者とのコミュニケーションはある意味記号のやりとり、送り手と受け手との間で共通認識がないと意思疎通を図るのは難しい……。
他者とのやりとり以前に、自分の選ぶ言葉が自分の内面を正確に表せているかどうかも疑問です。
自分の感情や思いを正確に伝えきれていないジレンマを感じること、感じたこと、ありませんか?
既存の言葉の枠に当てはめることに限界を感じたこと、妥協したけれど納得していないこと、ありませんか?……わたしはあります!
過去が一切語られないヒラヤマには、言葉の力、言葉の限界を知る者の悲哀や喪失感のようなものを感じました。それだから、わたしも含めた観客たちは、ヒラヤマの沈黙から彼の言葉にならない(言葉にしない)思いをなんとか受け取ろうとしているのかもしれませんね。
……と、ここまで書いていて、この映画を観終わって、ふいに学生時代に少しだけ齧ったソシュールの言語学が浮かんできたことを思い出しました。
ソシュール曰く言葉は「シニフィアン」と「シニフィエ」から成り立っていて、「シニフィアン」は表象(単語、名称、音)、「シニフィエ」は意味(概念、特徴、イメージ)を指します。←ものすごく乱暴な書き方になりますがシンプルに表現してみました。
ということで、次回は第3弾ということでシニフィアンとシニフィエ、そして映画で印象的に登場する木漏れ日のことなどを中心に書こうと思います。
この映画一本で書きたいことがありすぎる……!
では、今回はこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございました^^