映画『西の魔女が死んだ』から【心理的安全性】について考える
ドラマ、映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。
今回はわたしの大好きな映画『西の魔女が死んだ』について書きます。
夏が終わると観たくなるんですよね、この映画……過ぎた夏を懐かしみながら。
原作は、梨木香歩さんの小説です。
何度も繰り返し読んだ大好きな本。
映像化にあたりその世界観がどのように描かれるのか楽しみでもあり不安でもあったのですが、想像以上に素晴らしい映像美でした。
今回は、この映画から【心理的安全性】について書こうと思います。
心理的安全性とは
最近よく聞く言葉ですね。
組織行動学の研究者エイミー・エドモンドソン教授が1999年に「Psychological Safety and Learning Behavior in Work Teams」という論文で提唱した「psychological safety」という言葉の日本語訳です。
【心理的安全性】に関するwikipediaは英語版でしか見つかりませんでした。
そして、前回の記事で取りあげた映画の舞台Google社のリサーチチームでは、チームビルディングに非常に積極的に取り組んでいることで知られていますが、Googleがチームの効果性に影響を与える4因子に挙げた一つが【心理的安全性】です。
心理的安全性とは、対人関係においてリスクある行動を取ったときの結果に対する個人の認知の仕方、つまり、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうかを意味します。心理的安全性の高いチームのメンバーは、他のメンバーに対してリスクを取ることに不安を感じていません。自分の過ちを認めたり、質問をしたり、新しいアイデアを披露したりしても、誰も自分を馬鹿にしたり罰したりしないと信じられる余地があります。
画像はGoogle社 re:Workページより
社内環境を改善し、働きやすさと生産性を向上できるような組織作りには欠かせないのがこの【心理的安全性】です。
心理的安全性=優しいだけの世界ではない
【心理的安全性】という言葉が知られていくなかで、本来の意味とは違った解釈が一人歩きしているようでもあります。
【心理的安全性】とは、誰からも何も否定されない、優しいだけの世界のことではありません。
どんな自分を晒してもそのこと自体を否定されることは決してありませんが、建設的な提案や批判までもが全てNGとなるわけではないです。
「なんでも受け入れてもらえること」と「なんでも受け入れること」がワンセット、つまり双方向的な交流、対話的なコミュニケーションが取れる環境が「心理的安全性が担保された」環境ということではないでしょうか。
職場での上司と部下との1on1ミーティングや部内での会議など、学校での生徒と教師との面談、学級活動や部活動、その他組織での活動や交流のなかで、忌憚なく自分の思いや意見を表すことができるか。対話の場を作り出すことができるか。
ただ優しいだけの世界ではないのが【心理的安全性】の担保された世界だと言えます。
まいの居場所
さて、映画に戻って。
中学に進学してまもなく学校に行けなくなったヒロインまいは、親元を離れ、森に住む“西の魔女”ことイギリス人の祖母と二人で暮らすことに。“魔女修行“と称した生活のなかで、まいは次第に生きる力を取り戻していくが……。
「私はもう学校へは行かない、あそこは私に苦痛を与える場所でしかない」
まいは母親にそう宣言して学校に行かなくなりました。
「扱いにくい子」
自分が母にそう思われていると立ち聞きで知って、まいは内心ひどく傷つきます。
自己肯定感も下がりかねませんよね。
(➡︎自己肯定感の上がる映画を知りたい方は是非こちらもご覧下さい😊)
しかし、おばあちゃんは、まいのことを「感受性の豊かないい子。一緒に暮らせて嬉しい」と言ってまいを温かく迎え入れてくれます。
初めは緊張で硬かったまいの表情に安堵の色が浮かびます。
自然豊かな森で、時間に追われることなくゆったりとしながらも規則正しい生活をひとりで送ってきたおばあちゃん。
中学生女子にはよくある、と言ってしまえばそれまでですが、まいは友達関係の悩みから学校に行けなくなってしまいます。
むりやり「友達作り」をしなければならなかったり、派閥に分かれて窮屈な付き合いしかできないような状況に嫌気がさしたまい。何もしないでいたら気がつけばクラスでひとりぼっちになってしまいました。
ひとりがつらくなければ悩むこともないのでしょうが、不本意な形でグループからあぶれてしまい周りから自分だけ孤立している状態というのは中学生には相当つらい状況でしょうね……。
同調圧力に屈せず一匹狼でつっぱっていくのか、不本意ではあっても群れで生きていく安心さを選ぶのか。
なぜ自分は周りになじめないのか。
なぜ自分は受け入れられないのか。
自分はどのように生きていきたいのか。
自分のありたい姿はどんな姿なのか。
まいの年頃はちょうど「自分らしさ」に悩み葛藤する時期です。
エリクソンの【心理社会的発達理論】では青年期に該当しますね。
この辺りのことは、次回のテーマでとりあげる予定です。
さて、学校はまいにとって【心理的安全性】が担保された環境ではなかったようです。
それでは、家はどうだったのでしょう?
まいの母は日本人とイギリス人のハーフで、自分自身も学校に馴染めなかったこともあって、まいに事情を深く聞こうとしませんでした。
また、自分の仕事に忙しく、夫は単身赴任中(ということはワンオペ育児)の母には、娘と向き合う余裕がなかったのかもしれません。
もしかしたら、娘との関係性、自分の母との関係性に人知れず悩みを抱えていたかもしれないですね。
まいにとって、母は対話のできる相手ではなかったのでしょうか。
家もまいにとっては【心理的安全性】を感じられにくい場所だったのかもしれません。
そんなまいが、夏の間おばあちゃんの家で過ごしながら“魔女修行“をするのです。
まいはいろいろなことを学びます。
優しいだけではなく、時に厳しい姿を見せる自然と共に生きることを森から。
優しいだけではなく、凛とした佇まいから、自分を律して日々暮らすことの大切さをおばあちゃんから。
おばあちゃんとの穏やかな生活は、まいにとってのサード・プレイスとなり、【心理的安全性】が守られた場所になりました。
サード・プレイスとは、コミュニティにおいて、自宅や職場とは隔離された、心地のよい第3の居場所を指す。サード・プレイスの例としては、カフェ、クラブ、公園などである。アメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグはその著書『ザ・グレート・グッド・プレイス』(The Great Good Place)で、市民社会、民主主義、市民参加、ある場所への特別な思いを確立するのに重要だと論じている。
Wikipediaより引用
まいとおばあちゃんの距離感
おばあちゃんの唱える“魔女修行“とは特別なことではありません。
✅規則正しい生活を送り、心身ともに健やかになる
✅自分で決めて、決めたことを実行する
✅自分の意思を持ち、自分を信じること
こうしたことを身につけることが大切なのだとおばあちゃんは言います。
生活を正しく整えること。
自分の軸を持つこと。
健やかに生きていくための基本的姿勢でしょうか。
おばあちゃんは、まいに何も押しつけません。
まいに何か尋ねられると、よく考えてから答えてくれます。
まいがひとりですることを静かに見守ってくれるおばあちゃん。
ぬくもりが必要な時には静かに寄り添ってくれるおばあちゃん。
自分の道は自分で決める。
道を歩いていくのも自分。
道標を探すのも自分。
キャリアコンサルタントのキャリア自律支援も、このおばあちゃんの態度やまいとの距離感に通じるものがあるような気がします。
キャリア自律(Career Self-reliance)とは、自ら主体的に、価値観を理解し、仕事の意味を見出し、キャリア開発の目標と計画を描き、現在や将来の社会のニーズや変化を捉え、主体的に周囲の資源などを活用しながら学び続け、不断にキャリア開発すること。
あくまでも主役は相談者。
キャリアコンサルタントは伴走者。
相談者のキャリア自律を支援するスタンスです。
自律を促し、支援する。
まいのおばあちゃんから見ならうことはたくさんありそうです。
家族の決断、まいの決断
まいがおばあちゃんとひと夏を過ごしている間に、まいの両親は話し合いを重ねていました。
夫の赴任先に帯同してこなかった妻。子供と三人、これからどう暮らしていくか。三人それぞれに自分の生活があります。誰かしらに何かしらの変化が生じることは避けられません。
結論は「母親が仕事を辞め父親の勤務地に帯同する」というものでした。
まいの様子を見に来た父親は、まいはどうするのか聞きます。両親と住むことは、引っ越し、転校を意味します。
また、引っ越し先はおばあちゃんの家から相当遠い場所になるので、今までのように気軽に来れなくもなります。
まいは自分でどうするか決めたいと父親に告げ、考える時間をもらいます。
マイ・サンクチュアリ
サンクチュアリとは聖域のこと。
現代においては「安全な場所」という意味で使用されることもあります。
まいにはおばあちゃんの家の森の中にお気に入りの場所がありました。
おばあちゃんはその場所をまいに自由に使っていいと言い、まいはそこを「マイ・サンクチュアリ」と呼んで大切に大切にしていました。
誰にも踏み込まれたくない小さな大切な場所。森の奥にあるその小さな場所は、まいの心を象徴しているかのようです。
サンクチュアリがあるからこそ、外の世界と安心して繋がり、一歩踏み出せる、そんな心の拠りどころです。
そのサンクチュアリのすぐそばで、近所の男ゲンジが土を無断で掘り返している様子をまいは偶然見てしまいます。
まいは元々このゲンジという男にあまり良い感情を持っていませんでした。
サンクチュアリが侵されるかもしれないという危機に直面して、自分の世界を脅かされるような恐れを抱いたまいは、急いでおばあちゃんのもとに帰り、ゲンジが悪いことを企んでいるとおばあちゃんに訴えます。
ゲンジへの拒絶から不信、偏見、思い込みへとまいの感情はどんどんエスカレートし、ついには妄想から、ゲンジをひどい言葉で非難します。
(このまいの行為は、実は彼女自身が馴染めずに苦しんでいた中学での友達関係ー集団主義や同調圧力と根っこは一緒で、苦しめられた相手達と同じようなことを自分もゲンジにしてしまっていることにまいは無自覚なのです)
初めは冷静にまいを諌めていたおばあちゃんでしたが「あんな人、死んじゃえばいいんだ」と感情的に口走ったまいに、おばあちゃんは初めてまいの頬を叩きました。
「おばあちゃんなんか、大っ嫌い」
この時を境に、まいとおばあちゃんの間にわだかまりが生まれ、それを解消しないまま、まいはおばあちゃんの元を離れ、親元に帰ってしまいます……。
おばあちゃんとの別れ、その後
家族三人で新天地に住むことについて、自分はどうしたいのかをずっと考えているまい。
おばあちゃんは「まいが居たかったら、ずっとここに居ていいのよ」と言ってくれていましたが、まいは両親の元に帰ることを自分で決めました。
まいの決断を聞いた時のおばあちゃんの表情がどこか寂しそうで儚げで……観ているこちらも切ない気持ちになりました。
まいは別れ際おばあちゃんに「ごめんなさい」も「だいすき」もお礼も言えないまま、母に連れられておばあちゃんの家を離れます。
余談になりますが……文庫本には、この物語の後日談的な『渡りの一日』という掌編が収められています。その後まいが“魔女修行“を新しい地(転校先)で続行していることが伺いしれます。
おばあちゃんと別れた後も、まいは森でのおばあちゃんとの暮らしの中で培ったことを大切に守っていました。
転校先でたった一人だけど気の合う友達(彼女もまたクラスでは変わり者と思われていて、群れない子です)もできました。
森のサンクチュアリは遠く離れてしまったけれど、あの夏の日々から自分の心の中にサンクチュアリを持つことができるようになって、まいは世界に対する信頼を自分で獲得できたのでしょう。
おばあちゃんが亡くなった後も、まいの心におばあちゃんの教えは根付いたのですね。
そして最後に、おばあちゃんは生前まいと約束していたことを実行してくれていました……😭(微妙にネタバレを避ける表現)
次の機会には、この映画から【エリクソンの漸成的発達課題】について考えていきたいと思っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました🍀