記憶の奥底をくすぐるような、デジャヴ的な感覚を再現するために自然に足を運ぶ|自己の再定義に思いを馳せて
昨日は疲れ果ててパソコンを触る気力もなかった。帰りの電車の中では久しぶりに眠りこけていた。
一日中見たいところや行きたいところをこれでもかと言わんばかりに歩き回ったから、まぁ仕方ないだろう。おかげでフル充電できたような、そんな気がしている。
どこに行ったのかと言われれば、小田原・箱根のありとあらゆる自然を見に足を運んでいた。それは単純に自然が好きだからという理由でもあるし、後に述べる理由でもある。また時間を作って行った場所の共有をしたいと思う。
最近の自分は、これからどうしていきたいのか、ずっと思考のループに陥っていたような気がしている。
それは漠然とした明確な筋道のない将来への絶望感でもあり、何者でもないからこそ何者にでもなれる希望といった、コントラストが入り混じった感覚であった。
絶望や希望を抱く対象は社会に対してでもなく、他人に対してでもない。その時その時で移ろいゆく、猫じゃらしの穂先のような揺れ動きをする自分の心に対する感覚である。
一見情けなくも思えるその定まりのないわがままな物体は、人間の性を的確に表しているある種滑稽なものである。そしてこれから生涯をかけて戦うべきは、その世界観を持つ焦点の定まらない産物なのだろう。
そもそも一貫している方がおかしいという声もある。脳科学的にそうであるようなのだが、それを知っているからこそ一貫性を求めてしまう。そしてそれを追い求めては一時停止して、あらゆる対象に考えを巡らす輪廻転生に陥っている。
それ自体が悪いのかと言われたら、そうでもない気がする。悪いことじゃないけど、それと対峙している今日この頃。
そういったことと最近ずっと闘っていて、わかったことが一つある。結局自分のなりたい像なんて、やりたいことなんて時間の経過で変化する。
だから同じことをずっとしていると飽きてしまうし、変化を追い求める。その変化に飽きたら違った角度の変化を求め、また変わる。
とするならば、自分の絶対像を一つきりに定めることに果たして意味があるのかなとか思ったりもするものだ。好きなことも嫌いなことも全部含めて絶対領域に固定することにはあまり意味がないのかなとも考えたりする。
でも、核となる好きな感覚と表層的に好きな感覚とではまた話は違う。僕の場合、感情や感じたことを言葉にのせて伝えていくのは核の部分であり、間違いなく好きなものの一つだ。僕にできることの一つ、だからこそその時思った感情を追憶するために最近は写真を撮り続けているのかもしれない。
この頃記憶を辿るような写真を撮ることに精を出している。記憶の奥底に眠っている、デジャヴ的な感覚をくすぐるような世界観。この感覚を写真に収め、作り続けることに生きがいを感じる。
その世界が少しでもわかってくれる人がいるとするならば、それはそれで幸いだ。それを伝えていくことに自分にとっての価値があると思ったりもする。
また一つ、自分のチャレンジ項目が追加された。さぁ師走が顔を見せたぞ、この世界観を伝えるために今年も最後まで走っていこう。