「アートに触れるということ」
習慣を変えたり、変化させた習慣を継続することをここ最近意識している。例えば読書する時間を増やしたり、変な飲み会にいくことをやめたり、もの(服などのマテリアル)を買うことをやめたりなど。
一つのことをやめると、他のものに回すことができて、新たな発見がある。なので、あえて変えてみるということは実は良いのかもしれない。
中でも1~2週間に1回ほどアートに触れることを習慣にしている。(アートや芸術が好きになったきっかけはこれ↓)
これをきっかけに、アート愛が一気に爆発した。今まで興味の”き”の字もなかった自分が、どうしてここまでのめり込んでいるんだろう。週末に近づいたら、開催している展示会を検索してしまうのはなんでだろう。
そんなことをふと思った、日曜日の夜。
※Banksy/genious or vandal?(in アソビル)
昔、美術や芸術が好きだったかと言われたらそうではない。むしろ嫌いな部類に入る方だった。
中高の成績を振り返って見ても、美術で5段階中、3を超えたことは一度もない。(下手すりゃ2を取ったこともある)
そんな成績を取るぐらい、美術の時間は嫌いだった。
なんで嫌いだったのかというと、そもそも興味もなかったし、やっている意味や、美術の関わり方がわからなかったからだ。多分後者が一番大きな理由じゃないかと思う。
そもそもどう芸術作品を見たら良いかわからなかったし、そこを教えてくれる人もいなかったから、美術への理解のしようがなかったのだ。
ところが時は変わって現代、崇拝する落合陽一氏のオンラインサロンに入って、個展「未知への追憶」で、アートに本格的に触れた。
ここでひとつ分かったことがあった、「なるほど、アートや作品にはテーマがあるんだな」と。
そのテーマの種類は、独自に設定したテーマだったり、環境、政治など社会批評性のこもったものだったりする。(社会的批評性を漂白したものも当然ある)
例えばこれ。
※Banksy/genious or vandal?(in アソビル)
この作品は、展示会の説明によると大量生産・大量消費が盛んに行われた1960~70年代を意識して作られたものだ(いわゆるポップ・アートと呼ばれるものに分類される)。
消費に心中したキリスト教徒が、最終的にはその行為によって不幸になっていく模様を描いている。つまり、大量消費社会への批評性を指し示している。
作品には必ずテーマが存在する。中には歴史程背景や当時の社会問題を批評するような形で表現されるものもある。そしてそういった経緯を知った上で、自分なりの解釈に落とし込み、考える。
じっと見てもわからないものもあるが、そのわからない状態を楽しむ。わからないなりに、自分のアウトプットや感じたことを具現化、言語化する。
アートってそういう見方をするんだなってことを知ると、一気に面白くなる。もっと美術やそれにまつわる歴史を知りたくなるし、当時の社会問題はどういうものがあったんだろうと疑問に思う。
単純に技法や表現されているものに目を向けるのも面白いし、解説をみることで腑に落ちて納得することもまた楽しい。
一つの教養として、そういったアートに触れることは重要だし、自らの視点を広げる上で大事なものになった、と今は思っている。