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【つの版】度量衡比較・貨幣168
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
松平定信の寛政の改革は、田沼意次の重商主義政策を引き継ぎつつ都市や農村の復興を行うもので、社会・経済的にみて理にかなっており、近代的な福祉政策にも通じる先進的なものでした。天明年間の混乱は鎮静化し、緊縮財政と倹約により100万両の赤字から20万両の備蓄が生じるまでになっています。しかし倹約令や風俗統制令を頻発したため景気は冷え込み、幕府要人や江戸の町人たちからも強い批判を浴びることとなりました。
◆Punk◆
◆Rock◆
思想統制
経済・福祉の面から見れば寛政の改革は立派なものでしたが、朱子学による思想統制が行われたことでも有名です。江戸幕府は家康以来朱子学を体制維持のための思想として重んじていましたが、吉宗は前政権の主導者・新井白石が朱子学者であったことから朱子学を毛嫌いし、蘭学など実用的な学問を重んじました。またこの時代には朱子学以前の儒教に立ち返るべしという「古学」の諸派、朱子学や古学の長所をとるべしとの「折衷学」の諸派が隆盛を極め、朱子学は不振となっていました。
寛政2年(1790年)5月、定信は大学頭・林信敬と幕府の儒官らに対して「古学等の『異学』を学ぶことを禁じる」と命じ、湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験(学問吟味)も「正学」である朱子学だけで行うと通達しました。これは幕府における正当な儒学を朱子学に限定するとしただけで、国内で古学や折衷学・陽明学等を講義することが禁止されたわけではありませんが、諸藩の藩校でも朱子学を正学とするようになり、この政策は定信失脚後も幕藩体制を支えるものとして持続しました。また「異学」とされた儒学を教える儒者たちは弟子たちを失い、貧窮に陥ることとなります。
ただ、定信本人は朱子学を盲信していたわけではないようです。老中就任の5年前に書いた『修身録』では「朱子学は理屈が先に立ち、学ぶと偏屈に陥る」「学問の流儀は学ぶ側が良いと思えば何でも良い」と記しており、むしろ朱子学に批判的で折衷学派に近い思想を持っていました。彼が朱子学を正学として推進したのは、社会秩序の統制に利用するためだったのです。また蘭学などは儒学の範疇の外にあるため禁止されず、定信も蘭学に強い興味を抱いて洋書をオランダ通詞らに翻訳させています。
儒者でなくとも、在野の論者(処士)が幕府に対して勝手に政治批判を行う(横議)ことも禁じられました。元仙台藩士の林子平は、北は松前から南は長崎まで全国を行脚して見識を深め、朝鮮・琉球・蝦夷の地理を記した『三国通覧図説』、ロシアの南下政策に警鐘を鳴らした『海国兵談』などを著した異能の人でしたが、定信に目をつけられて両書とも発禁処分を受け、後者は特に版木を没収されています。その後も彼は肉筆で書写して両書を流布させたため、最終的には仙台へ強制的に帰郷・蟄居させられ、寛政5年(1793年)に貧窮のうちに没しています。
定信も国防の重要性には気づいており、自ら伊豆や相模を巡検して江戸湾の防備体制の構築案を練っています。彼は長崎と江戸に砲術稽古場を置き、伊豆に4箇所、相模に2箇所の奉行所を設置し、津軽海峡に面した陸奥三厩を幕府直轄領として大砲を配備すること、北方防備の役職「北国郡代」を置くこと等を立案しました。さらにはオランダの協力のもとで西洋式の軍艦を建造し、防衛のために配備することも考えていたといいます。林子平が処罰されたのは、あくまで民間人が政治に口出しをすることを禁じるためでした。ロシアの使節アダム・ラクスマンが大黒屋光太夫を伴って松前に到来したのもこの頃で、定信はロシアからの貿易の要求は拒否しなかったものの、長崎のオランダ商館へ向かい交渉するよう指示しています。
風紀取締
庶民に対しては質素倹約が奨励され、贅沢や娯楽は次々と禁止され、銭湯での混浴を禁じるなど風紀の乱れにも公権力が介入します。いかに正論であろうとも、かくもお上から禁令が降り注げば、反発を呼ばざるをえません。当時は田沼時代の経済発展の余禄で文化が爛熟しており、武士や町人にも多数の文化人が生まれ、反骨精神に満ちあふれていたのです。
田沼意次の部下であった旗本・勘定組頭の土山宗次郎は、天明年間には蝦夷地に調査隊を派遣するなど重要な仕事を行っていましたが、吉原の遊女を1200両(1.2億円)で身請けするなど派手な生活を送りました。田沼意次が失脚するとともに失脚したうえ、買米金500両(5000万円)の横領が発覚し、天明7年(1787年)に斬首されています。彼をパトロンとしていた狂歌師の大田南畝は「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶ(文武)といひて夜も寝られず」「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」との有名な狂歌を詠んで定信の政治を批判しました。
天明8年(1788年)には出羽国久保田藩士(江戸留守居役)の平沢常富が朋誠堂喜三二の筆名で黄表紙本『文武二道万石通』を著し、定信の文武奨励政策に右往左往する武士たちをモデルとして滑稽に描きました。翌年には駿河国小島藩士の倉橋格が恋川春町の筆名で黄表紙本『鸚鵡返文武二道』を著し、同じく定信の改革を諷刺しています。彼らはともに120石取りのれっきとした武士でありながら、吉原に通って狂歌や戯作に耽っていた人物です。平沢常富の方は藩主から叱責される程度で済みましたが、倉橋格は寛政元年(1789年)に幕府から呼び出しを受け、病気と称して出頭はしなかったものの、同年7月に46歳で逝去しました。
同じく天明8年には、浮世絵師・戯作者の山東京伝が黄表紙本『時代世話二挺鼓』を著し、田沼意次・意知と佐野善左衛門の争いを平将門(田沼家の家紋は七曜星)と藤原秀郷(佐野氏の先祖)の争いになぞらえて田沼政治を諷刺しました。これは定信には見逃されたものの、翌寛政元年からは定信の改革政治を批判する黄表紙本を次々と出版し、発禁処分を受けています。
こうした黄表紙本・戯作本などの出版を一手に引き受けていたのが、今年の大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎です。吉原で生まれ育ったこの男は、吉原の情報誌『吉原細見』を販売・刊行する本屋として身を立て始め、吉原をサロンとして集う文人たちの著書を出版することで繁盛しました。天明3年(1783年)からは日本橋の通油町に店舗を構え、狂歌師の仲間となって吉原で遊び回りました。しかし贅沢と娯楽と風紀の乱れの化身のような吉原の通人たちは、定信政権の攻撃の的となったのです。
寛政2年(1790年)、定信は問屋・版元に対して出版取締令を下し、出版物の表現内容や華美な着色、装飾などに対して規制を強めます。翌寛政3年(1791年)には山東京伝の黄表紙本・洒落本が摘発され、当人は手鎖(手錠)50日、蔦屋重三郎は重過料(罰金刑)を受けます。「全財産(身代)の半分を没収された」ともいいますが、正しくは「身上(年収)半減」といいます。これに懲りた重三郎は戯作の出版を控え、学術書(物之本)の出版を増やし始めますが、喜多川歌麿と組んで美人画の錦絵を多数刊行するなどして規制強化に対する巻き返しを図っています。江戸の出版文化はその後も盛んになり、東洲斎写楽や葛飾北斎を生むことになるのです。
ただ定信本人は戯作を嫌ってはおらず、未刊行ながら自ら黄表紙風の戯作を著述してすらいます。老中退任後は浮世絵の収集を趣味とし、大田南畝・朋誠堂喜三二・山東京伝らに依頼して浮世絵集の前書きを書かせています。また山東京伝・北尾政美に依頼して『吉原十二時絵巻』を製作させ、京都大火で御所が焼失した際には『集古十種』という古宝物の図録集(文化財保護のためのアーカイブ)を製作させてもいます。
尊号一件
庶民の反発は定信政権を揺るがせることはありませんでしたが、最終的に定信が失脚したのは朱子学が一因でした。大義名分論に照らせば征夷大将軍よりも権威が上である、天皇に関わる事件「尊号一件」です。
当時の天皇は安永9年(1780年)に践祚した光格天皇でしたが、彼は先代の後桃園天皇が崩御した際、傍流の閑院宮家から招かれて即位したため、父も祖父も天皇ではありません(曽祖父は東山天皇)。彼の父・閑院宮典仁親王は存命でしたが、幕府が定めた禁中並公家諸法度では親王の序列は摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下よりも目下とされることになります。そこで天皇は父に「太上天皇」の尊号を贈ろうと図りました。
天明8年、権大納言の中山愛親が勅使として江戸に下り、幕府にこの件について通達します。松平定信は「皇位につかない者に太上天皇の尊号を贈るのは先例がない」と反対しますが、朝廷は「後堀河天皇の実父・守貞親王や後花園天皇の実父・貞成親王に太上天皇の尊号が奉られた先例がある」と反論します。定信は「前者は承久の乱、後者は南北朝の乱という非常事態における特例であって、太平の世に挙げる先例ではない」と反論し、この尊号一件は数年に及ぶ幕府と朝廷の間での論争に発展しました。典仁親王の弟・鷹司輔平の仲裁で最終的に尊号宣下は取り下げられ、典仁親王への処遇改善を行うことで落着しますが、定信は尊号賛成派の公家や勤王家に対して処罰を行い、朝廷から恨みを買うことになります。
またこの案件は、幕府自体も揺るがします。将軍・家斉は実父である一橋治済に「大御所」の尊号を奉ろうとしていましたが、典仁親王への尊号を定信が拒んでいる以上、治済に奉るわけにもいきません。また定信にとって治済は後ろ盾であるとはいえ、自分を田安家から白河藩へ養子に出させて実家断絶の危機を招いた政敵でもありました。このことは家斉・治済の定信への心証を悪化させ、彼の失脚を招くことになります。
寛政5年(1793年)7月、定信は突如老中を解任され、陸奥白河藩へ帰国させられます。寛政の改革は6年で終わりましたが、彼の部下である松平信明が新たに老中首座に就任し、家斉・治済を牽制しつつ定信時代の政治を継承・発展させていくこととなります。信明が享和3年(1803年)に辞任した後も定信によって登用された老中たち「寛政の遺老」が文化14年(1817年)まで政権を担いました。定信は白河藩の藩政に専念し、文政12年(1829年)に72歳で病没するまで藩政の実権を握り続けました。
寛政の改革と天保の改革(1841年)の間、徳川家斉が将軍(1837年からは大御所)であった時代を歴史上は「大御所時代」といい、文化・文政年間(1804-30年)を中心とするこの時代の文化は「化政文化」と呼ばれます。蔦屋重三郎は寛政9年(1797年)に世を去りますが、彼が蒔いた種はこの時代に大きく花開き、江戸の町人文化は最盛期を迎えるのです。
◆べら◆
◆ぼう◆
【続く】
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