イメージ戦略が「事実」として歓迎された話。『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』吉田守男
京都や奈良が文化都市だったから、空襲がほとんどなかったという話は、たまに聞きます。昔ほどじゃなくなってホッとしていたら、youtubeで古代史とか文学専門の偉い先生がエピソードとして話している動画に出会って、「!?!」となったり。
京都を空襲しないように進言したとされるのは、日本学者のウォーナー博士。彼の功績をたたえる記念碑が、法隆寺をはじめ、日本にはたくさん建立されているとのこと。
ウォーナーはアメリカ・ケンブリッジの名門の家に生まれ、戦前には2度来日して、岡倉天心の下で日本美術を学んだそうです。ハーバード大学で教鞭もとった後、大学付属のフォッグ美術館東洋部長を勤めました。でも、中国では、敦煌の壁画をはがして持ち帰った「泥棒」として有名です。
この本の著者。吉田先生は歴史の専門家。アメリカの外交文書を調べるうち、アメリカの対外文化保護政策の関するロバーツ委員会の報告書に行き当たりました。これは、もともとヨーロッパの美術品保護と、ドイツ・イタリアによる略奪品返還を目的としたものでしたが、戦線の拡大にともなってアジアも含まれるようになったそうです。
ロバーツ委員会は、戦災に見舞われた各国40種類のリストをつくっていて、ウォーナーはこの委員会のために日本、中国、朝鮮、タイの美術品リストをつくりました。なので、日本の文化財保護を目的としたのではありません。なのに、日本人のある人々が、日本の文化財の保護リストと思いこんでしまいました。
そして、戦後の日本を占領していたGHQ(連合国総司令部)は、そんな日本人の思い込みと、ウォーナーの知名度を利用して、彼を「文化財の恩人」にしました。日本人はその美談を歓迎し、現在に至っているそうです。
でも、百万人都市の京都がほとんど空襲にあわなかったのは、常に「原爆の目標としてアメリカ軍の候補にあがっていた」から。世界で始めて原爆の威力を試すには、できるだけ無傷の目標物がなければなりませんでした。そのために「温存」されていただけ。
アメリカの当初の原爆の候補地は、広島、小倉、新潟、長崎。新潟の知人から教えてもらったのですが、当時の新潟では原爆に対してかなりシビアに調査していたし、今での学校では新潟が候補地だったことをしっかり習うそうです。
もちろん、アメリカも最初から市街地を目標(=虐殺を目的)にしていたわけではありません。最初は原爆も、兵器廠みたいな軍事拠点を狙うはずでしたが、戦況や国際情勢の変化、政策担当者たちの権力闘争の結果、「攻撃の一環だった原爆投下」は、次第に「威力を測定するための原爆投下」へと目的の変化を遂げていったそうです。その過程は、本書を読んでいて胸が悪くなってくるほど醜悪です。
もともとのタイトルは、『京都に原爆を投下せよ』。私はこちらのハードカバーで読みました。文庫版はタイトルが変わって、『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』になっています。