推定地今や50超 邪馬台国ブームに火をつけた男の情熱
朝日新聞デジタル 2020年5月14日 9時00分
今や推定地は50カ所以上。プロ、アマの研究者が激しい議論を繰り広げる邪馬台国所在地論争は、今なお衰える気配がない。日本人を古代史のロマンに駆り立てるブームを巻き起こした背景には、一人の男の熱い人生があった。
日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国。3世紀に編纂(へんさん)された中国の歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」に登場し、当時の日本列島の国々の盟主的存在だった同国の女王・卑弥呼は、239年に魏へ使者を送り、金印や銅鏡を下賜(かし)されたと伝えられる。だが、その国のあった場所は、いまだにわかっていない。
失明から一念発起、各地を調査して歩く
それを探し求め、多くの人々が挑んだのが「邪馬台国の所在地論争」だ。江戸時代以来、学者の間で続けられてきたこの論争を一気に身近にしたのが宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』だった。
宮崎は1917年、長崎県島原市生まれ。早稲田大学卒業後、脚本家となったが、家業の建設業を継ぎ、島原鉄道常務取締役に就任する。しかし、過労がたたり失明。一念発起して各地を調査して歩き、妻の口述筆記で65年から雑誌「九州文学」に連載したものをまとめたのが本書だ。
宮崎は邪馬台国研究を志した理由を、聖徳太子の実在を批判するなどして戦前に早稲田大学を辞職させられた古代史研究者・津田左右吉(つだそうきち)の汚名をすすぎ、「いまこそねじ曲げられた邪馬台国への道と、一部の学者によってもみくちゃにされた歴史のページを庶民の手に取りもど(中略)そう」と考えたからだと書く。
「戦後の日本では、神話を歴史としてきた皇国史観が崩れ去り、新たな歴史が形づくられようとしていた」と大塚初重・明治大学名誉教授(93)は語る。47年に始まった登呂遺跡(静岡市)の発掘もそんな試みの一つで、古代史にもメスが入りつつあった。48年には、騎馬民族が日本列島を席巻したとする江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」が発表され、こうした大胆な仮説が社会に受け入れられた。『まぼろしの邪馬台国』もそんな時代の一冊だった。
その方法論は緻密(ちみつ)で執拗(しつよう)だ。地名の音に注目し、倭人伝に登場する三十余国がどんな国だったかを一つずつ解き明かしていく。そして邪馬台国は「長い渚(なぎさ)や入り江(邪)と海浜の耕地(馬)と岬や丘の畑(台)の国」という意で島原が最有力候補地とした。
本書は高く評価され、出版年に「第1回吉川英治文化賞」を受賞した。注目すべきは、宮崎が古代史などの専門的な訓練を受けていない、いわゆる「アマチュア」だったことだろう。そんな宮崎の受賞は、専門研究者との垣根を取り払い、彼らが独占してきた邪馬台国の所在地論争などに、在野の研究者が本格的に参入するきっかけとなった。
72年には奈良県の高松塚古墳で「飛鳥美人」の壁画が発見され、古代史ブームが起きる。79年には雑誌「季刊邪馬台国」が創刊。83年には安本美典・元産業能率大学教授が主宰する邪馬台国の会が結成され、在野の邪馬台国研究も全国区となった。
邪馬台国の会の内野勝弘会長は「会員は1700人。日本や海外の文献に考古学的に裏付けられた事実を重ねることで、総合的・科学的に古代史を解明することを目指しています」と語る。
80年代に入ると発掘調査が急増し、佐賀県の吉野ケ里遺跡など、邪馬台国と同時代と思われる遺跡が次々見つかる。在野を含めた多くの研究者が自説を発表し続けた結果、今や邪馬台国の推定地は50カ所を超えた。
九州説、畿内説、東遷説の有力3説
古代史が専門の鈴木靖民・国学院大学名誉教授(78)はこのような現状を「熱心なのはいいが、アマチュア研究者が中国の文献である魏志倭人伝をきちんと史料批判するのはなかなか難しい」と話す。
一方、歴史書の編集制作を手がける三猿舎代表の安田清人さん(52)は「宮崎さんは、プロの研究者の権威的研究を疑う一方で、自らが足で稼いだ知見を重視し、史料解読を自由に行う点が際立っており、この姿勢はそのまま在野研究者に引き継がれているように思える」と評する。
邪馬台国の所在地を巡っては現在も九州説、畿内説、九州から畿内に移ったという東遷説の有力3説が並び立つ。プロ、アマ交え、激しい議論が続いている。(編集委員・宮代栄一)
第一線の学者たちを相手に熱弁
《吉野ケ里遺跡などに詳しい考古学者、佐賀女子短期大学名誉教授・高島忠平さん(80)》
宮崎康平さんには『まぼろしの邪馬台国』刊行の少し前くらいにお目にかかったことがあります。私が縄文晩期の遺跡の調査で先輩の研究者と島原市に滞在中、奥さんと一緒に宿まで訪ねて来られ、岡崎敬さん、鏡山猛さん、乙益重隆さんといった当時の第一線の考古学者を相手に熱弁を振るわれた。私はその頃はまだ学生だったのですが、「大変な人だなあ」と思ったのを覚えています。
邪馬台国がどこにあったかという古代史上の謎を巡っては長らく論争が続いてきたのですが、現在、考古学者の多くは畿内説を支持しています。それは、小林行雄・京都大名誉教授(故人)が示した仮説の影響が大きい。古墳時代の三角縁神獣鏡が権力のシンボルとして、畿内から列島各地に配られたとする説ですが、私は鏡は祖先神をまつる祭祀(さいし)の象徴ではあっても、分与による政治権力のための威信財ではないと考えます。小林説は再検討が必要でしょう。
邪馬台国を考える上で重要なのは、魏志倭人伝が記す当時の王権がどんなものかという視点を持ち、遺物だけでなく遺跡全体を見渡して考古学的事象を読み解くことです。時代的制約もあって『まぼろしの邪馬台国』の内容は支持できるものばかりではありませんが、前方後円墳の畿内誕生説や、遺物のみに基づく議論などについて、疑問を提示していることなどは卓見だったと考えています。
まぼろしの邪馬台国
中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された、女王・卑弥呼が治めるという国、邪馬台国はどこにあるのか。1967年刊行の本書で、著者は地名などの音に注目。倭人伝に出てくる三十余国の検討などを通して、その地は長崎県の島原半島だったと結論づける。