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力が出ること
読書会に向けて、西村佳哲著「自分をいかして生きる」を再読している。付箋を貼った箇所を引用して、感じたことを書いてみる。
焦りや疼きや動揺が生じた時、目に映ったいったい「なに」に自分は反応しているのか。小さな変化の足元を掘り下げてゆくと、そこにそれぞれの仕事の鉱脈があるんじゃないかと思う。
ある映画を観て、楽しいな、面白いな、で終わる人と、あのカットはよかった、でもあの映し方はよくない。もっと光の加減を調整した方が良い。などと言う人が居る。後者の人のなかには、その人なりのざわざわする感じがあり、そのざわざわ感が言語化されているのだと思う。このざわざわ感が、お客さんでいられないということにつながるのか。ある事象に対して人よりもレイヤーが細かくなり、ひっかかってしまうこと。まあいいでしょ、とならずに、もっとこうした方がいい、ここがダメなのだと気付いてしまうこと。そのことの奥にあるざわざわ感に、その人が発揮したい力の源、鉱脈があるのかもしれない。なぜか感じ取ってしまうような、お客さんでいられないことは、働きを創り出すための、自分の鉱脈につながっている感じはある。
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【インタビュー】ロサンジェルスの小さな宿でパッツィーさんの話をきく p078
パッツィーさんの写真(p080)が、頭のなかにずっと残ってる。ちょっと眩しそうな表情、柵を持って立っている感じ。陽の光が入る感じ。影の感じとか。創造もあるけど。
『その時、その時、自分が正しいと思ってやってきたことが、何かこういう結果につながっているとしか言えない。』(p083)と語るパッツィーさんは、目標よりプロセスを重要視するスタイルなのだと。そして何かに向かっている最中に起こるいろいろなことはコントロールできないのだと言う。
パッツィーさんが経営するイン(宿)の拡張のために(お金ないのに)「きっと移るのよ(笑)」という、まだ売りにも出されていない隣の家の話。パッツィーさんのなかにあることをパッツィーさん自身が感じ取ってしまうと、もうそうせざるを得ないし、そのようにすすむし、そのようになってしまう。そうならざるを得ないから。その突き動かすようなエネルギーは一体なんなんだろう。
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考えてもわからないことは、いくら考えたところでわからない。さらに言えば、考えて・わかったところで、力が出ないことははじめられないし、つづかないんじゃないかということを思う。
あぁ、これもほんとうにそうで、いくら頭で考えて、アイデア出ししても、力が出ないことはできない。つづかない。逆に言えば、その人のなかにある<自分自身>がほんとうに感じたことは、始めざるを得ないし、止めることができないはずで。その感じを味わうためには、体験を自分にさせてあげることなんだとぼくは思う。
西村さんがパッツィーさんから受け取った『はじめればはじまる』というメッセージ、それを受けて、西村さんが書いた『はじめないかぎり、何もはじまらない』というもの。その二つの言葉は、思わず力が出てしまうこと、なぜか止まることができないこと、生きる(働く)力の源に出会うために、「生きる感じ」がする方へ動いていくことだよと、後押ししてくれているような気がした。