何かを書く人 何かを描く人

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マガジン

  • 自分を生きる入り口

    令和6年(2024年)5月26日(日)、ほんの入り口さんで「自分を生きる入り口」という読書会を開催しました。その読書会に向けて書いた文章です。課題本は、西村佳哲著「自分をいかして生きる」ちくま文庫。

  • OUTLET

    過去に「OUTLET」というタイトルで書いた、複数の文章です。校正して少しずつ投稿します。

  • 文章筋トレ等 作品集

    文章筋トレ等のイベントに参加して書いた文章です。

  • 朝に書く何か

    毎朝、家を出る前に、少しだけ書く文章。(※切ったり貼ったりして校正済)

  • 詩のようなもの

最近の記事

  • 固定された記事

想う言葉に触れる旅

 明かすこと。ずっと閉ざしてきたこと。話すことで、なにかが溶けてゆく。そこにいのちがあった。いのちが表現された表情があった。あるがままは、美しかった。笑わなくてよかった。泣いてもよかった。あることを、あることとして、表現して、受け取り合った。  明かすことは、時として、困難を伴う。あることがあると、認めることに、抵抗する。ずっと抵抗して生きてきたのだから、その抵抗は当たり前のことだった。抵抗もあるよね。そうやってあることを一つひとつ、感じながら、旅は続いてゆく。あることがあ

    • 何かを描く人 Chapter 2 (1,030字ほど)

      書くこともそうだし、描くこともそうだ。もう制限したくない。我慢したくない。誰も我慢しろとは言ってない。自分で我慢しているんだ。だから、もう表出していく。だって、そこにあるのだから。ないことにはできないのだから。隠さなくてもいい。そのままに。あるがままに。 ・・・ ・・・ ヘッダーの写真は、古い一眼デジカメで撮った写真。グラスに入った水出しコーヒーと、お皿に載った洋梨のタルト。美味しかった、ということばが残っている。味はどんなだったか。なんとなく、洋梨の感じを思い出してみ

      • 何かを描く人 Chapter 1 (880字ほど)

        最近、文章を書いていない。こんなはずじゃなかった。何かを書く人なのに、何も書けないでいる。だけど、何かを描く人として、何かを描きはじめた。何を描くのか。何かを描くのか。よくわからないでいるけど、ひとまずnoteに記しておく。 ・・・ ヘッダーの写真は、墓参りの帰りに、ふらっと寄った雑貨屋で買ったヒスイ。石も出会いだと思う。白と暗色の混じり具合が、今のぼくみたいだと思った。ポケットに入れて、旅に出ようと思う。

        • 文章編集カフェ(1,900字ほど)

           3ヶ月に一度のカウンセリングが終わり、駅前広場にあるカフェでコーヒーを飲んでいた。出入口の自動ドアが正面に見える二人掛け席の奥の方に座っていた。スマートフォンが震えて画面を見るとLINEメッセージが来ていた。メッセージのやりとりをした友人に対して、少し踏み込んだ言葉を送ったような気がした。メッセージのやりとりを終えた。  駅前広場のカフェは、落ち着いて何かを書く感じではなかった。席に座ってタイピングを始めればよかったが、他の用事を優先して書くことを後回しにした。何かを書き

        • 固定された記事

        想う言葉に触れる旅

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        • 自分を生きる入り口
          8本
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          23本
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          20本
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          5本

        記事

          ただ何かを書く衝動(1,800字ほど)

           行政書士事務所で亡母関係の手続きを終えてから、最寄りのショッピングモール内にあるスターバックスに寄ってコーヒーを飲んでいた。スマートフォンの画面で時間を確認すると11時になったばかりで、予約した近くの歯医者の診療時間まで、1時間半ほど時間があった。微妙な時間だったので、一駅電車に乗って家に帰るか、このままショッピングモール内に滞在するか迷った。歯医者の前に昼ごはんを食べようとは思わなかったので、服とか、本とか、文房具とか、ショッピングモール内でみてまわってもよかった。そんな

          ただ何かを書く衝動(1,800字ほど)

          思うこと徒然(1,700字ほど)

          とある有料読書スペースに来ている。見学には来たことがあるけど、はじめての利用だった。座った席の後ろの方に観光客がいるのか、イタリア語のような発音の声がきこえる。男性だ。フーッと溜息をついている。話し声をよく聴いてみると日本語だった。イタリア人風の日本人の話し声。うるさい感じがする。読書スペースなんだから静かにしようよ。ちょっと後を向いて確認すると、独り言を話しているおじさんだった。世の中にはいろんな人がいる。 母が亡くなってから、書くことをしなくなった。Facebookでは

          思うこと徒然(1,700字ほど)

          書くことがない

          書くことがない、と書けば、書いたことになる。よくそう言っていたから、今はそんな状態なのか。 立ち止まって、よく観ると、書くことがない、わけではないと気づく。書くことはたくさんある。だけど書けない。いや、書かない。 いのちを追いかけることで精一杯なんだ。 毎日いろんなことが起きる。起こしている。意志もある。いのちに運ばれている。働いていて、なんだかなぁ、もある。ないことはないし、あることがある。 書くことがない、と書いたら、何かが書けた。少しずつだけど、また何かを書きた

          書くことがない

          触れる温もり

          焼き場で母の骨を拾って骨壺に収めて、骨壺を抱いてマイクロバスに乗って葬儀場に戻る途中、骨壺を持ったぼくの手のひら、指先がすごく温かくて、それは焼かれた母の骨が持つ熱、温かさなんだけど、ぼくは、その時、今まで欲しかった温もりに、やっと触れたような気がした。気がしたんじゃなくて、確実に触れた。 ぼくはずっと、温もりがほしい、温もりがほしいんだ、って思って生きてきた。それは母の温もりが欲しかったんだと思う。思うじゃなくて、欲しかったんだ。 だけど、母を抱きしめることをしなかった

          触れる温もり

          いのちの時間

          ぼくの誕生日だった。療養中の母が旅立った。ぼくの誕生日に旅立つの?という寂しさがあった。“あなたを産んだのは私だよ”、という母の想いを感じた。ぼくのなかに母が刻み込まれた。 ぼくのなかには母との間のいろんな体験から創り出した世界があった。その世界で満たされない体験を今まで何度も繰り返してきた。だけど、ここ数年間で、分かち合える仲間と出会い、たくさん受け取ってもらい、ぼくのいのちが満たしたい世界をぼく自身で創り出せることに気づいた。 最後の方の母は、目を開くことも少なく、ぼ

          いのちの時間

          体験する言葉と生きる

           続けて記事を投稿していると、何かを書かないと、という小さな恐れが湧いてくる。そこに何があるのか自分に問うてみると、人とのつながりを大事にしたい、があった。大丈夫、書かなくなっても、つながりは、なくならないから。  出会った人に、話をしようと伝えた。やってみたいことを表明するという感じで。何かを得ようとかではなくて、味わいたいことを創り出す感じで。会って、いのちがあること、愛があることを感じたかった。循環することを感じたかった。  在り方が逃避的だった私にとって、体験する

          体験する言葉と生きる

          自分を生きる入り口

           今日、読書会が開催される。どんな時間になるのだろうか。西村佳哲著「自分をいかして生きる」に関する一連の記事投稿は今回で終了する。  西村さんの本を読むと、伝えたい思いが湧いてくる。だけど言語化するのが難しく、いつも諦めてしまう。今回はメモ書きした内容を元に記事化してみたが、本をなぞるようにしか書くことができず、不本意な気持ちが残った。これも〈自分自身〉に問うてみることなのだろう。「書いてみて、どんな感じだった?」と。〈自分自身〉はなんと答えるのだろうか。ぼく〈自分〉は耳を

          自分を生きる入り口

          生きる感じ

           ある場所の待合室。西村佳哲著「自分をいかして生きる」を読みながらiPhoneでこの記事を書いている。満席の待合室を見渡して、あと何時間かかるのだろうと思う。  座っているソファーが固くて、お尻が痛くなってきた。今もぼくはたくさんのことを感じている。窓の外にみえる青い空の下で過ごしたいな、とか。 ・・・  耐え難さを味わうのが嫌で、「ない」ことにして、何かを続ける。「そうじゃないと、乗り切れないじゃないか!」という、正当化。「みんなそうやってるんじゃないの?」とか。

          生きる感じ

          沈黙のなかにも

           今朝も半地下珈琲店で珈琲を飲んでいる。読書会に向けて、西村佳哲著「自分をいかして生きる」を再読していた。タイピングした文章をnoteの記事にしようと試みる。本の中にある図をiPhoneで撮って記事に貼り付ける。記事を読み直したぼくは、「こんな感じでどうかな?」と〈自分自身〉に語りかける。 ・・・  〈自分自身〉と〈自分〉と〈他者〉の関係性。〈自分〉と〈自分自身〉の応答(コミュニケーション)。ぼくがずっと追いかけてきたことがこの図に表現されていた。  とてもシンプルな図

          沈黙のなかにも

          変わらずにいられない

           今日も読書メモのように書いてみる。いつもの半地下カフェで、珈琲飲みながらタイピングしてる。何も変わらないのだけれど、文体は変わるような気がする。変わらないか。 ・・・ 西村佳哲著「自分をいかして生きる」ちくま文庫  自分の声に耳を傾けている人。  上記の引用文章は、過去のぼく(おそらく2011年のぼく)がこの本を読んだ際に、弱々しい筆致で線を引いていた唯一の箇所だった。過去のぼくがこの文章に何かしらを感じ取ったのだろう。この文章を2024年のぼくが改めて読み返すと、

          変わらずにいられない

          力が出ること

          読書会に向けて、西村佳哲著「自分をいかして生きる」を再読している。付箋を貼った箇所を引用して、感じたことを書いてみる。  ある映画を観て、楽しいな、面白いな、で終わる人と、あのカットはよかった、でもあの映し方はよくない。もっと光の加減を調整した方が良い。などと言う人が居る。後者の人のなかには、その人なりのざわざわする感じがあり、そのざわざわ感が言語化されているのだと思う。このざわざわ感が、お客さんでいられないということにつながるのか。ある事象に対して人よりもレイヤーが細かく

          力が出ること

          どう在りたいか

          西村佳哲著「自分をいかして生きる」を読んでいる。読んだ箇所を引用して感じたことを少し書いてみる。  私たちの周りにはたくさんの職業カテゴリが用意されていて、ある一つのカテゴリに向かって努力する風潮があるように感じる。小さい頃ぼくは野球選手になりたかった。野球選手になることを夢見るだけで、どんな野球選手になりたいのか、なんて考えてもいなかった。そこにロールモデルのような選手たちはいたが、「どんな〇〇〇になりたいの?」、とは自分自身に問いかけなかった。大学を卒業して今の職業に就

          どう在りたいか