ルッキズム論点まとめ
〜12月12日 07:00
はじめに
『現代思想2021年11月号 特集 ルッキズムを考える』においては、各々の差別問題の専門家がルッキズムを語るというタイプの論稿が多数掲載されました。以下では、まずこの内容をまとめさせていただいて、そのうえで新しい観点からの考察を行います。
ルッキズムだけで食える学者が出てくるようになるためには、ルッキズムを一領野として確立させる必要がある。(かつては「フェミニズム」も、それ単体で一学者の生涯の研究対象領域となるとは思われていませんでした。) そしてそのためには、ルッキズムに固有の問題系を、そして固有であるがゆえに普遍的な問題系を取り出してす必要があります。本稿はささやかにではあれ、その一助になることを願ってのものです。もちろん、だからといって筆者は本稿が語ろうとするルッキズムの諸問題が、アクチュアリティを欠いた言葉遊びであるなどとは思ってはいません。
1. ルッキズム問題の位置と輪郭
1-1. ルッキズム問題の端緒
ルッキズム(lookism)の語は1978年ワシントンポストの記事『Fat Pride』に初めて登場し(Cook, 1978)、2000年代以後からは学術論文にも散見されるようになった(Saiki et al, 2017)語だといいます(奥野, 2021)。主にはアメリカで、顔にあざのある人が接客業に割り当てられなかったり、職場でコーンロウなど特定の髪型を禁止することが争われる状況が認知されるようになってから知られるようになった言葉です。ルッキズムはまず学術的には、「雇用機会や成績評価の場面で、外見が魅力的でないとされた人が受ける不利益の問題」として定義されるようなものだったということです。現在アメリカでは肥満は身体の障害に含まれており、そうした心身の障害、レイシズム、エイジズム、セクシズムに基づいた雇用差別はそれぞれの対象領域が該当する州法で禁じられている場合が多いのですが、肥満以外に純粋な容姿によって差別が起きたことは、その判断基準の設定に困難があるため、ごく一部の州でしか禁止されていないということです(奥野, 2021)。
ルッキズムの問題はその後、射程を大きくしていき、現代日本の「ルッキズム批判ブーム」につながります。
技術職など、外見が能力に影響しない場合であるにも関わらず、外見の良し悪しで人事評価が行われることは「イレラヴァント論(外見の良し悪しが無関係な場面で外見を持ち出すことへの批判)」の立場から批判できます。しかし営業職や接客業では顧客に対する外見の印象は、業績と直接的な関係を持っていると考えられます。また、化粧品の販売員や日本のCAなど、従業員として企業イメージを身体化して引き受けるレベルで企業に隷属する労働(品格労働・美的労働)もあるとされています。ルックスが商品の価値に含みこまれているのです。これらを人権の侵害として批判することが可能なのでしょうか?
ルックスが直接的に商品の価値に含まれない場合であったとしても、個人のルックスが組織に利する可能性は無視できないものがあります。経験などのリソースはルックスの良い人のもとに集まるものです。また、ルックスの良さは「周囲の人間を気持ちよく働かせる能力」であるとも言えます。
1-2. イレラヴァント論の限界「顔採用には経済的合理性がある」
多くの人が誤解しているようなのですが、雇用、選抜、評価の場にルックスを持ち出すことを批判すること(イレラヴァント論)には、以上のような限界—すなわち、「ルックス」と「能力」が分けられない場合には効き目がないという限界—があるのです。そのような誤解を抱いている人は、「ルックス」と「能力」を二項対立的にとらえ、両者は区別可能なものだと考えています。そのうえで「ルックス」は遺伝の結果であり変えがたいものであるのに対して、「努力」は努力の結果であり、変えることのできるものだと考えていがちです。しかし実際はそうではありません。
あらゆる種類の競争で争われるステータス値のようなもの(学力、ルックス、身体能力、仕事の能力、対人関係能力、収入など)は、基本的に全て「先天的なもの+変えがたい後天的なもの+変えやすい後天的なもの」(シンプルに言えば「遺伝+環境+努力」)の結果です。能力の種類によって、それら3つの要因が個人のステータス値に影響する重みの配分は異なるかもしれませんが。
たとえば仕事の能力や学力には、変えがたい部分について生まれながらの覆りがたい格差があるにも関わらず、個人の努力の問題に帰されがちです。ルックスについては逆に生まれながらのものであるという感覚が前景的です。そのためルックスには「自然」であることへの信仰があり、整形や手の込んだメイクなどはチート行為とみなされがちです。遺伝子操作や人体改造が普及した未来社会では、「ルックス」に対して、変えやすい部分が拡張することになるため、現在とは異なったステータス観が構築されていくことでしょう。
しかし近年の日本では、「ルックス」が努力の産物であるという見方に基づいて人を判断する言説が増えています。もしくは、「ルックス」が生まれながらのものであったとしてもそれを積極的に評価したり利用したりすることへの開き直りも前景化しています。たとえ、それが覆りがたい暴力的な力を持っているとしても「チート能力すげぇ」という精神で、それらを持て囃しさえします。それらの傾向はいずれも、ますます先天的な格差への注意を失わせる力を持っています。
また、のちに詳述するのですが、現在の「日本のルッキズム批判ブーム」において特徴的なのは、雇用や選抜、評価の場でルックスを持ち出すことへの批判を超えて、広く日常場面においてルックスを持ち出すことへの批判/反感に貫かれています。その意味でも、「否応なくルックスを前提に人と関わってしまう人間」を正面から扱う必要があるのです。
1-3. 差別問題をメリトクラシーで置き換えて事足れりとして良いのか
1-2で取り上げたような、「ルックス」を遺伝の産物とし、それとは区別可能な「能力」を努力の産物としたうえで、後者を評価することが公正であると主張する言説には、当然落とし穴があります。1-2では、そもそも「ルックス」を遺伝の産物ととらえ、「能力」をそれとは区別可能であり、「努力」の産物と捉える発想が間違っていることを指摘しました。しかしながら、たとえその部分が正しいとしても、「努力によって獲得された力を全面的に評価すべきである」という主張に問題があるのです。
女性問題などを含む多くの差別問題では、「属性」に対して「能力」を対置させ、後者を評価することを要求する言説が前景化しがちです。そのため、差別問題をメリトクラシーで置き換えることが、差別問題への対処のひとつのゴールとなります。しかし、純然たる努力の結果のみを評価することがもし仮に可能だとしても、そうすべきかどうかには疑問が残ります。
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11月12日 07:00 〜 12月12日 07:00
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