ルッキズム論の前線

はじめに

『現代思想2021年11月号 特集 ルッキズムを考える』においては、各々の差別問題の専門家がルッキズムを語るというタイプの論稿が多数掲載されました。この内容のまとめも適宜行いつつ、新しい観点からの考察を行います。

ルッキズムだけで食える学者が出てくるようになるためには、ルッキズムを一領野として確立させる必要がある。(かつては「フェミニズム」も、それ単体で一学者の生涯の研究対象領域となるとは思われていませんでした。) そしてそのためには、ルッキズムに固有の問題系を、そして固有であるがゆえに普遍的な問題系を取り出してす必要があります。本稿はささやかにではあれ、その一助になることを願ってのものです。もちろん、だからといって筆者は本稿が語ろうとするルッキズムの諸問題が、アクチュアリティを欠いた言葉遊びであるなどとは思ってはいません。

 


1. ルッキズム問題の位置と輪郭

 

1-1. ルッキズム問題の端緒

ルッキズム(lookism)の語は1978年ワシントンポストの記事『Fat Pride』に初めて登場し(Cook, 1978)、2000年代以後からは学術論文にも散見されるようになった(Saiki et al, 2017)語だといいます(奥野, 2021)。主にはアメリカで、顔にあざのある人が接客業に割り当てられなかったり、職場でコーンロウなど特定の髪型を禁止することが争われる状況が認知されるようになってから知られるようになった言葉です。ルッキズムはまず学術的には、「雇用機会や成績評価の場面で、外見が魅力的でないとされた人が受ける不利益の問題」として定義されるようなものだったということです。現在アメリカでは肥満は身体の障害に含まれており、そうした心身の障害、レイシズム、エイジズム、セクシズムに基づいた雇用差別はそれぞれの対象領域が該当する州法で禁じられている場合が多いのですが、肥満以外に純粋な容姿によって差別が起きたことは、その判断基準の設定に困難があるため、ごく一部の州でしか禁止されていないということです(奥野, 2021)。

ルッキズムの問題はその後、射程を大きくしていき、現代日本の「ルッキズム批判ブーム」につながります。

技術職など、外見が能力に影響しない場合であるにも関わらず、外見の良し悪しで人事評価が行われることは「イレラヴァント論(外見の良し悪しが無関係な場面で外見を持ち出すことへの批判)」の立場から批判できます。しかし営業職や接客業では顧客に対する外見の印象は、業績と直接的な関係を持っていると考えられます。また、化粧品の販売員や日本のCAなど、従業員として企業イメージを身体化して引き受けるレベルで企業に隷属する労働(品格労働・美的労働)もあるとされています。ルックスが商品の価値に含みこまれているのです。これらを人権の侵害として批判することが可能なのでしょうか?

ルックスが直接的に商品の価値に含まれない場合であったとしても、個人のルックスが組織に利する可能性は無視できないものがあります。経験などのリソースはルックスの良い人のもとに集まるものです。また、ルックスの良さは「周囲の人間を気持ちよく働かせる能力」であるとも言えます。


1-2. イレラヴァント論の限界「顔採用には経済的合理性がある」

多くの人が誤解しているようなのですが、雇用、選抜、評価の場にルックスを持ち出すことを批判すること(イレラヴァント論)には、以上のような限界—すなわち、「ルックス」と「能力」が分けられない場合には効き目がないという限界—があるのです。そのような誤解を抱いている人は、「ルックス」と「能力」を二項対立的にとらえ、両者は区別可能なものだと考えています。そのうえで「ルックス」は遺伝の結果であり変えがたいものであるのに対して、「努力」は努力の結果であり、変えることのできるものだと考えていがちです。しかし実際はそうではありません。

あらゆる種類の競争で争われるステータス値のようなもの(学力、ルックス、身体能力、仕事の能力、対人関係能力、収入など)は、基本的に全て「先天的なもの+変えがたい後天的なもの+変えやすい後天的なもの」(シンプルに言えば「遺伝+環境+努力」)の結果です。能力の種類によって、それら3つの要因が個人のステータス値に影響する重みの配分は異なるかもしれませんが。

たとえば仕事の能力や学力には、変えがたい部分について生まれながらの覆りがたい格差があるにも関わらず、個人の努力の問題に帰されがちです。ルックスについては逆に生まれながらのものであるという感覚が前景的です。そのためルックスには「自然」であることへの信仰があり、整形や手の込んだメイクなどはチート行為とみなされがちです。遺伝子操作や人体改造が普及した未来社会では、「ルックス」に対して、変えやすい部分が拡張することになるため、現在とは異なったステータス観が構築されていくことでしょう。

しかし近年の日本では、「ルックス」が努力の産物であるという見方に基づいて人を判断する言説が増えています。もしくは、「ルックス」が生まれながらのものであったとしてもそれを積極的に評価したり利用したりすることへの開き直りも前景化しています。たとえ、それが覆りがたい暴力的な力を持っているとしても「チート能力すげぇ」という精神で、それらを持て囃しさえします。それらの傾向はいずれも、ますます先天的な格差への注意を失わせる力を持っています。

また、のちに詳述するのですが、現在の「日本のルッキズム批判ブーム」において特徴的なのは、雇用や選抜、評価の場でルックスを持ち出すことへの批判を超えて、広く日常場面においてルックスを持ち出すことへの批判/反感に貫かれています。その意味でも、「否応なくルックスを前提に人と関わってしまう人間」を正面から扱う必要があるのです。

1-3. 差別問題をメリトクラシーで置き換えて事足れりとして良いのか

1-2で取り上げたような、「ルックス」を遺伝の産物とし、それとは区別可能な「能力」を努力の産物としたうえで、後者を評価することが公正であると主張する言説には、当然落とし穴があります。1-2では、そもそも「ルックス」を遺伝の産物ととらえ、「能力」をそれとは区別可能であり、「努力」の産物と捉える発想が間違っていることを指摘しました。しかしながら、たとえその部分が正しいとしても、「努力によって獲得された力を全面的に評価すべきである」という主張に問題があるのです。

女性問題などを含む多くの差別問題では、「属性」に対して「能力」を対置させ、後者を評価することを要求する言説が前景化しがちです。そのため、差別問題をメリトクラシーで置き換えることが、差別問題への対処のひとつのゴールとなります。しかし、純然たる努力の結果のみを評価することがもし仮に可能だとしても、そうすべきかどうかには疑問が残ります。


1-4. 日本国内

ときは大顔面時代。このキーワードが日本のTwitter界隈で頻繁に目撃されるようになったのは2020年前後を境にしてのことです。その後「ルッキズム」という言葉は、2022年の流行語大賞にノミネートされました。日本語の学術論文でルッキズムを題材にするものは、テン年代後半から急激に増加しています。

1-5. 日本における外見に関わる規範の文法

職場での身だしなみの規則については、随所で問題になりながらも、法的な争いや社会運動に発展した動きに(ごく最近の、性的マイノリティへの配慮から就活市場における女性の規範的服装の自由化を求めるものなどを除いて)目立ったものは無く、「黒髪営業カット」や「スーツ着用」の規範自体を問題化するような動きは見られないようです。「顔採用」問題は存在感を強めてきており、1998年には、テンプスタッフという人材派遣会社が、容姿をA, B, Cの3段階にランクをつけて女性派遣労働者の履歴書データを大規模に販売した事件があったそうです。当時は女性蔑視というより個人情報の流出の方が問題だとされた節があり、現在ルッキズムが問題化されるにあたって本件がふたたび取り上げられているようです。現在でも容姿のランク付けは一部の派遣会社で行われ続けているとの口コミもあります。

学校現場の方では「熊本丸刈り強制訴訟」や「清風カット」事件など、学校問題時代の名残をとどめる一部の行き過ぎた規則が問題になった一方で、いまだ多くの学校は髪色、髪型や服装に緩やかな制限を残したままです。

 

1-6. ルッキズムは四次元ポケット

そもそもセクシズムやレイシズムといった多くの差別は基本的に、人を区別する視覚的マーカーに対して起きるため、多くの差別問題はルッキズムの問題に含まれる可能性があるのであり、ルッキズムは差別問題全体のなかに解消されえると考えることも一面では可能である(堀田, 2021)とまずは考えられます。例えば女性が外見による不遇を受けた際、それはルッキズムの問題というより、「男性よりも女性の方が承認や社会的地位をえる上で外見の重要性を置かれてしまうというセクシズム的な状況」をなすひとつのピースであると考えられます。前節の派遣会社の例も同様です。

多くの差別問題がルッキズムと言えてしまう以上、まずはその判断を留保すること——この場合、ルッキズムとして取り出すことでセクシズム的な構造が見えなくなる事態をさけること——が求められます。このようなことを確認してはじめて、他方でそこからルッキズムとして取り出すことが有効な固有の問題系を取り出すことが必要である(西倉, 2021)訳です。

1-7. ルッキズムと現象学


ルッキズムは他者の「あらわれ」がどのように主観的に経験されるかを記述する現象学に結び付けられることもあります。それ自体は有効な試みですが、ルッキズムを社会的諸制度と切り離して個人的経験の問題へと矮小化すべきではない(鈴木, 2021)とも指摘されるため——これはあらゆる社会問題に言えることですが——自身の採る手法がどういう社会的影響をもたらすことになるかを常に気を付けていなければなりません。

ともあれ、現象学的な「あらわれ」や「類型」というものを通じてしか関わり合うことのできない他者、そしてその固有性の尊重と包摂の間の葛藤的な状況にどのようにアプローチするかという倫理的な問いは、後ほど取り挙げることにします。

1-8. ルッキズムがなぜ今更問題にならないといけないのか

ルッキズムを広くとらえて「外見で人の価値を測ること(による差別)」と定義するなら、そんなものは遥か大昔から存在するものに違いありません。ルッキズムの厄介な点は、そうした人の外見と価値を結びつけてしまうことへの、ある意味において本能的なレベルでの抗い難さにあるともいえるでしょう。ともかくも、ルッキズムを論じるにあたっては、ルッキズムの普遍的な側面と同時に、現代に特異な社会現象としての「ルッキズム批判ブーム」を考える必要があります。

これまで述べてきたように、フォーマルには雇用機会などの実利的な問題にフォーカスして語られてきた歴史が長いわけですが、偶然なのかコロナ禍に前後して日本のマスまで浸透した所謂「ルッキズム批判ブーム」を考えたときには、もっと広く日常の場面で外見を——肯定的にであれ、否定的にであれ——評価されることの不当性を多くの人が言挙しようとしているよう(西倉, 2021)に見えます。前節で述べた通り、この語の安易な使用は、その分析力と批判能力を希釈させてしまう危険がありますが、多くの人がこの語を受容することでどんな困難に輪郭を与えようとしているのかを分析する価値はあることでしょう。そしてそれはルッキズムという言葉自体が世界のアカデミズムで一般化した時代から10~30年が経過した現在に日本で流行している以上は、それ以前とは異なる性質を含んだ何かを言い表そうとしているのだとも推測できます。

 

2. 現代日本における「ルッキズム批判ブーム」とは何か


逆説的にも「ルッキズムに固有な問題を取り出すこと」を行う前には、ルッキズムの問題として言及されている諸問題が、「本当にルッキズムの問題と言えるか」を考えてみる必要があります。先述のように、ルッキズムという言葉が別の問題を隠蔽するために使われていたりする可能性があるからです。

以下では、「経済構造の軋みがモラルへの置き換えを被ったものがルッキズム批判として現れている」ことを論証します。

2-1. モラルの問題としてのルッキズム批判の訴え

ルッキズムという言葉で現代日本の人々が言挙しようとしているものとは何なのか、それを言挙しようとしているということはどういうことなのか?について考えるヒントを得るためにまず以下を引用したいと思います。

英語圏の文献においてここ二〇年ほど論じられてきたのは、その多くが、容姿の良し悪しに応じて雇用や昇進や収入面での待遇が異なるといった状況、つまり職場という文脈での容姿による差別的待遇の是非であり、それをいかに(法的に)規制しうるかという問題であった。しかし、日本国内でごく最近になって関心が寄せられている「ルッキズム」的な問題とは、職場での差別待遇という意味でのそれ異なるように見受けられる。殊に今年に入って日本で話題となり批判された多くの事象は、容姿をめぐる発言の是非に関するものである(東京オリンピックの開会式企画をめぐる容姿発言騒動然り、お笑いにおいて容姿に言及するネタを披露して良いか否かをめぐる論議然り)。ここでは、その発言が職場等での差別的待遇につながったか否かに関係なく、当の発言そのものが「容姿侮辱的」であり不適切なものとみなされ、道徳的非難の対象となるような事態が考えられている(奥野, 2021)。

 ところで、この状況の描写を、より悲観的に眺めてみたいのです。誤解を恐れず言えば、筆者は現代日本のミドル階級をなす人は自身を取り巻く人権問題や経済・労働問題を”お気持ち”の問題にすり替えて捉える傾向があるのではないかと感じています。低収入であることを恐れる現代日本のミドル(という言い方は変ですが、つまりは収入を一定以上にしようとある程度は努力をする、大衆のうち大多数をなすであろう人)は、物質的に貧しい生活を恐れているのか、それとも低収入であることへの社会的な風当たりを恐れているのか分からない言い方をすることが多々あります。それは極貧状態に対するアクチュアリティが希薄な分、むしろ対人ストレスが雇用や労働の問題のプライオリティになっているからだと推測されます。日常に政治を持ち込むことが積極的に考えられていないことはもちろん、個人的な問題を社会現象のなかに位置づけて考える視点が希薄であることもその要因をなしているといえるでしょう。何が言いたかったかというと、引用文の末尾近くにあるような道徳的批難の挙動は実際には、政治性の隠蔽の挙動である側面を多分に持っている可能性を疑うべきではないかということです。ちなみに引用元の奥野(2021)の視点に立てば、引用部は自身が展開するメタ倫理学的考察、つまりは法経済的問題ではなく純粋に倫理的・理論的問題としてルッキズムを考察する方針にアクチュアリティを付与するための前置きという様相を持ったものです。奥野としては「日本人は法経済的な問題としてではなく、日常場面での倫理的な問題としてルッキズムを言挙しているんだ」ということを示すために引用部を書いたつもりであり、そのこと自体は間違っていないと思います。

2-2. 経済構造の軋みがルッキズムを顕在化させる

実のところ近年日本のマスにまで浸透して頻繁に用いられるようになったルッキズムの語によって彼らが言挙しようとしているものの内実の大きな部分をなしているものとは、経済的不平等(感)に他ならないという気がするからです。

ルッキズムが問題化される背景にある経済的・消費主義的な事情には例えば:

①SNS広告ビジネスの普及
②外見と収入の相関の可視化
③ダイエット・美容産業の広告表現の露骨化
④「顔採用」、「デブ・スクリーニング」の問題化
⑤シス-ヘテロ女性以外をターゲットとしたアパレル・美容市場の拡大

といった兆候があります。

 

とりわけ③についての証言を引用しておきます。

YouTube を立ち上げれば、外見の特徴を欠点としてあげつらい、コンプレックスを刺激して商品を購入させようとする動画広告を強制的に見せられる。「その二重アゴ、デップリたるんだ腹、気持ち悪い」「ブツブツだらけのお前がどうやったら彼女できんだよ」「年取ってババアになった奥さんと違って、お前は若くてかわいいな」 ── 容姿や体形を卑下したり、体毛を醜いものとして嫌悪したりするなど、今日の広告は特定の容姿や特定の体形以外を恥ずかしいものとして貶め、身体と美をめぐる脅迫と恫喝によってボディワークへと私たちを駆り立てる(田中, 2021)。

 ルッキズムの論理というのは、誰もが「外見で人を判断するのは良くない」と表立っては言わざるを得ない裏面で、外見に課金しまくり、ジムに通うというところにそのエッセンスとなる構造があると言えます。

子に美容整形を受けさせようとする親は子に次にように言うかもしれません。「自分は人を外見で判断するわけではない。しかし多くの人は実際に外見によって人の待遇を変えてしまう。友人関係ごときであれば構わないが、それはお前の収入にまで直結するのだ。お前が外見のことで苦労するのは忍びない。」と。

他にも、企業の人事担当者は次のように考えるかもしれません。「自分は人を外見で判断するわけではない。のみならず上司の誰一人だって——彼らは小汚いおやじばかりで——外見で人の価値が決まるなどとは思ってはいないだろう。しかし顧客や取引先というのは美しい外見のスタッフを贔屓にするものだ。我々の会社は外見の美しいスタッフを使って、外見の美しさを武器として利用するだけだ。」と。

ルッキズムの語によって輪郭を与えられる困難のひとつは、外見の印象がビジネスや対人関係上有利に働くということをしたたかに利用せざるを得ない構造、そうした時代の経済的余裕のなさでしょう。コミュニケーションが定性評価として人事評価の重要な部分を占めるようになり、雇用の流動化は、新天地で人間関係を素早く構築・協働する能力の重要性を高めて、それに拍車をかけます。年功序列制が解体されていくにつれ、能力主義が強化されているようで実のところブラックボックス化した「定性評価」が人事評価・決定に大きな影響を与えるようになっています。もっとも、同僚や上司を気持ちよく働かせることが能力の一部とも考えられる以上、ある意味での能力主義は徹底されているとも言えるでしょう。「コミュニケーションは不得意だけど黙々と働いて成果を出す」という在り方が評価に結びつく可能性が薄れていき、その都度のチームメンバーの合意で決まる、ある仕事に対する良し悪しの基準を正確に捉えて、「人を巻き込み、巻き込まれる」ことで数字に結びつくプロジェクトにアサインされることが、より重視されます。そうした出世コースからあぶれた場合、年功序列制のように決まった年限で必ず昇進できる訳ではありません。人に気に入られることが人事評価に結びつくことは昔からあったことですが、問題はそのことによって生じる不平等が、状況の変遷によって無視できないものに変わってきたということです。

このように言うと、好景気になればルッキズムの問題が雲散霧消するだろうと言って経済的成長をもってその解決策とするという考えの人が現れるかもしれません。筆者としてはそうした「金持ち喧嘩せず」のような論理には、違和感を抱くことを禁じ得ないところであり、経済的問題としてのルッキズムについては労働問題として、その領域の専門的な対応が検討されることを望みます。

また、このようにある時代には問題にされなかった構造でも、それをとりまく状況が推移することで、無視できないものになっていくといったことは差別問題に限らず一般的なことです。あるものの限界や欠点が顧みられずに全面化され、非対称な関係の特定のものだけが支配的になるのです。逆に健全な状況というのは、複数ある対立が全て水平的なものとして平定され、何らかの形で見出された均衡のポイント=対称性に静止していることによって実現されるものではなく、非対称な関係性が複数化され、優劣の交代が目まぐるしく起きているときであると言えます。一般に、健全な対人関係を築いて社会に生きることとは、依存先を複数つくることです。何にも依存しないでいたり、依存先が単一かつ長期間続いたりすれば病気として扱うことが適切な状態になります。川をせき止めると水が溜まって腐敗するのと同じように、不健全な状態とは非対称な関係の交代とその変奏としての歴史が流れてゆかないときなのです。こうした区別はいつ差別になるかという問いは分析哲学から幾つかの説明が提出されています(不利益説、心理状態説、社会的意味説、自由侵害説etc…)。英語ではどちらもdiscriminationと表現されるので、言い換えれば「discriminationはいつ悪質になるのか」ということです。ここではひとつの解答として「非対称性が一定以上大きな範囲に渡っており、容易に転覆できないとき」であるとしてみたいと思います。

3. ここまでのまとめ


まとめてみましょう。ルッキズムは純粋なモラルの領域の問題として言及されがちですが、その背景には、人間の本能に根差し、大昔から存在するはずのルッキズム的なものが現代日本において無視できない不平等(感)を喚起するものに伸張したという事実があります。そうした不平等(感)の伸張は、雇用や消費を含む経済構造の余裕が失われてきたことに起因するのではないでしょうか。


4. ルッキズム/ルッキズム批判の矛盾を生きる現代日本人


4-1. ルッキズム/ルッキズム批判の矛盾を生きる



今の人見てると「ルッキズムよくない」という考えと「水準以上の美と身だしなみがないと死ぬし殺されても仕方なし」という感覚を両立させていて怖い(倉数茂, 2024)。

この証言には実感がある人も多いのではないでしょうか。現代日本には、ルッキズム批判の意識と、その底部に根深く横たわっている強固なルッキズムの意識が併存しています。この不思議な構造について分析してみましょう。

前節では、ルッキズムの経済的不平等感の問題としての側面を、2つの例を使って考えてみましたが、その例に含まれていたそのほかの要素:ルッキズムが「自分は信じていないがその他多くの他人が信じているからという理由で抗いきれない社会的な風潮を作り出すこと」; そうした「自分は気にしてないけど他人はそうではない」という誰もがそれによって免罪されるような態度、についてより高解像度に描写してみたいと思います。それは、一方には①『自分は外見で人を評価しない』という本音に対して、『他人は実際に外見で人への待遇を変えてしまうから本当はいけないけど外見を利用する』という建前があり(本音=自分=反ルッキズム⇔建前=他者=ルッキズム)、他方で②『他人は気にしないかもしれないけど自分は自分の外見が気になる』という本音に対して『他人の前では外見で人を判断することはあってはならないと断らなくてはならない』という建前がある(本音=自分=ルッキズム⇔建前=他人=反ルッキズム)、という捻じれた構造を持った問題です。いずれの場合も「自分だけは例外」なんです。もっと言えば、自分の子どもなど、その人の処遇に対して多かれ少なかれ自分が何らかの責任を持とうとしているという意味で親密な他人も例外だし、もっといえば対面的な他人はみんな「ここだけの話ができる例外者」です。「他人が云々」というときの「他人」とは得てして主体的な個々の他者のことではなく、匿名的な他人の集合が作り出した、誰一人として変えることのできない、誰一人としてそのもたらすところに責任を持たない、「空気感」なのでしょう。

この捻じれの構造から生まれるのは次のような泥沼的状況です。外見差別を受けたことに傷つき、声を上げようとしている人に対して、次のように言う人がいるかもしれません。「外見差別を気にしているあなたこそ最もルッキズムに陥っていると言えるのではないか。外見であなたの価値は決まらないんだろう?なら、堂々としていればいいではないか。外見のことは気にするべきではない。」と。先ほど描写した捻じれを使えば、外見で人を評価すべきではないという建前をいわば反転させることで被抑圧者を批難できてしまうのです。もちろん、これは多くの差別問題にパラレルにあてはめて文章を作ることが出来ます。例えば「労働運動家こそ資本家の消費的自由を妬む拝物主義者だ。物質的充足を求める態度を本当に捨て去っているなら、野山で自給自足の生活でも送ればいい」というようにです。この言明はあくまで例であり、非常に頓珍漢なものです。労働運動家は全員がそうとは限りませんが、物質的充足を求める態度そのものから退却することなど謳っていないでしょう。

 

4-2. 反権威的概念としての「美」とその右派的簒奪の関係——我々はおしゃれをやめるべきか

ルッキズムに対しても同様の構造を使って考えても良いのでしょうか?つまり、「ルッキズム批判は美しさからの退却を謳うものではない」と表明することは許されることであり、効果的なことでしょうか?

「太った人でも美しくなれる」ことを謳うようなボディポジティブの流れ(日本の方は渡辺直美さんを思い浮かべると良いでしょう。)は、規範的な美しさとは「別の仕方で」美を実現するものであり、その点では反権威的な動向と言えますが、いわば、それによって新たに美の基準が樹立され、排除・抑圧を生み出す危険もあります。そして資本主義の力学的構造は、本人たちがどんなに大真面目であっても、カウンターカルチャーをファッション化、消費主義の内側に絡めとり、仮初めのトレンドとして軽薄に消費してしまいます(藤嶋, 2020)。こうしたことを考慮する限り、「何らかの形で美を追求しようとする態度そのものから、退却することが必要である」という格率が得られる気がします。そうした消費的欲望の創出という観点を徹底すれば、「『美しくありたい』という欲望は、商業的な力学的構造が魅せるまやかしによってつくられた偽の欲望であって、美の基準はそうした構造に利用されているイデオロギーである。」とまで考える人がいてもおかしくないでしょう。

他方で「人は美しくなろうとすべきではない」、「我々はおしゃれから退却すべきである」という考えに異議が提出されてもおかしくありません。マイノリティにとって、あらゆる肯定的な自己表現、セルフプレゼンテーションの可能性もが否定されることは好ましくないと考えられるからです。

 

4-3. ルッキズム批判のあまりの簡潔さに異議を申し立てる

被抑圧者への非難の問題などについて、もう少し考察してみましょう。これまでのことを踏まえると、ルッキズムにおいては先述のような両義性を持つ構造があるにもかかわらず、それへの批判はたった一言——外見で人を判断するのは良くない——だけで事足りるかのように思われている側面があるということが問題なのでした。ルッキズムにおいては、民族アイデンティティやジェンダーアイデンティティとは違って、被差別者のカテゴリーに含まれることを誰もが基本的には嫌がることが予想できます。垢抜けようと努力している人に対して、「あんたは元来ブスなんだ。美しくなろうとすることでルッキズムを受容して、外見至上主義の競争に自ら身を投じることはない。あんたはブスとして戦え。」と言っても拒絶されるに違いありません。「ブスとして開き直り連帯する」ことは、それ自体が惨めさと痛々しさを感じさせる立ち居振る舞いになります。もちろん正論を言えば、そうした恥辱を感じさせる価値観こそがまさしくルッキズムが批判すべき対象であって、そうした感情をも振り切ることが求められるのかもしれません。しかし少なくとも「恥辱を引き受けて、きっぱりと振り切れ!」と言うだけでは、それは可能にならないということだけは言えると思います。

ゲイカルチャーのルッキズムについて一家言ある千葉雅也氏は自身の小説「マジックミラー」に寄せられた反応に応答して以下のように呟いています。マジックミラーの主人公は40歳のゲイです。彼は20代の頃、ハッテン場の入り口のマジックミラーに移る自分を見つめて、とある誓いをしました。「いつかは誰にも相手にされなくなる日が来る。覚えておく。この姿を覚えておく。この紫色の姿を見て、覚えておくと思ったことを覚えておく。これはいつか必ず失われる姿なのだ。覚えておく。僕は僕のこの体を。」

 

“僕の「マジックミラー」について、ハッテン場のルッキズムがリアルに残酷に描かれてるみたいな感想があったが、ルッキズムなんていう「チャラい」概念じゃないんだよね。”

 

“エイジズムやルッキズムから解放された「より正しいLGBTQ」を(仮想的に)描くことより、ゲイがいかにそれと苦闘し続けているかを描く方がはるかに重要だし、まだそれを深く書いたものは少ないし、それが少ないうちに段階をすっ飛ばして「解放」を書くのは端的に言って不誠実だと思っている。”

 

“ゲイというのは、ルッキズムだとかいう今風概念を使うまでもなく若いときの苛烈な「売れる、売れない」の世界がすぐに過ぎ、30代になったら「いったんはもう終わり」なので、そういう若さの特権化批判うんたらとか部外者のノンケが図々しくも言ったりするが現実は理念じゃないのでね、それでゲイは30代に「まだまだ20代に見える」閾値を超えると早くに達観に入り、妙に悟ってスピリチュアルに人生を語る占い師みたいになったりする、というのが僕もまあそうで、僕の語りのトーンというのも要するにそういうことだという面がそれなりにある。”

 

「チャラい」という表現は、アメリカのセレブによるポピュラーフェミニズムとか、自分らしさを肯定して生きる模範的マイノリティを持て囃す風潮に棹差す状況を形容するものです。千葉の態度は肉体のぶつかり合いを言葉からの退却として肯定しているようにも見えます。マイノリティ側から画一化された反差別言説への反対が提出される状況については、後に詳述します。

4-4. 4章のまとめ


4章の内容をまとめてみます。「Aの批判者はAの最大の受容者である」という構文は、特定の価値の対立の輪郭を明らかにしようとするときに、差別的な対立からの退却ではなく、むしろ対立への積極的参入・対立の強化をしているように見えるという点において、あらゆる利害対立において重要な論点になるのでした。そしてことさらルッキズムにおいては、外見至上主義が持つ強い向心力が対立の輪郭を明らかにする過程で葛藤的に働くことが確認できました。ところで、差別問題においては差別感情を抱くこと自体を批判すべきなのではなく、差別感情の表出やその実質的な効力への対処が問題であるという意見もあります。しかしながら、現代的な差別問題においては、差別的な衝動の表出を規制することには意味がないように見えます。(vii)で述べたようなルッキズムにおける捻じれを抱えた構造では、差別的な衝動の表出は、誰でも言える建前としての「外見で人を判断してはいけない」という格率に先回りされて既に禁止されているからです。そして人は黙ってこっそりと美容クリニックに通って、口には出さず黙って人への待遇を変えます。そうした誰もが例外者であり、当事者である状況にどのように対処すべきでしょうか?その点について深めるために、以下もっと解像度をアップさせていきます。

 5. 視覚文化論・メディア論からルッキズムを考える


5-1. 視覚文化論・メディア論が取り上げるルッキズム

視覚文化を論じる立場からは、コロナの流行による日常のオンライン化、延いてはコロナ以前から連続してるメディア一般の発達と普及の影響によって、我々の身体や顔の存在論的な位置づけやルックスの現れ方、ルックスに対する自意識にもたらされた変化がルッキズム(批判)ブームに関わっているのではないかという視座を手に入れることができます。

2020年初頭、新型コロナウイルス感染症の流行の影響で、「オンライン」の場が人間が対人的な交流をするところとして欠かせないものになりました。いわばそのことにかこつけて、視覚情報がメインとなるメディア(特にネットを介したソーシャルメディア)の発達と普及の影響で、顔/表面(face)やヴァーチャルなものが現実にとって代わっていく状況を論じる語り口は数多く見受けられるようになり、一般にも知られるようになりました。ところで、「メディアが発達した→直接性・現実感が薄れた」というのは当たり前のことで、今にはじまったことでもありません。もし仮にですが、「今まで=現実」であり、「これから=非現実・ヴァーチャル」だと素朴に考えている人がいるとすれば、それは大変な近視眼ということになります。今までの現実も、それ以前の技術的なターニングポイントの際につくられた「現実味」の産物だからです。「コロナ」というターニングポイントを強調する立場をとるならば、そこを時代の区切りとすることの根拠となる、その時代に特異な現象を描写して見せなければいけません。このようなことを踏まえておかないと、視覚文化論的な論調は、コロナにかこつけたビジネストレンドの域を出ないものになってしまいます。本稿では、ルッキズムの流行にとってコロナを大きなターニングポイントとして重視する立場と、特段コロナに限らずそれ以前からのメディアの発達と普及がルッキズムの流行に関わっているという立場の両方がありえるものだとします。

 

5-2. ルッキズムと「ポストモダンの動物的状況」

このあたりから筆者のオリジナルな切り口からの考察になるので注意してください。コンピュータ文化の世界においては、ユーザーインターフェイスに対して、そのメタレベルとしてのコードを受容している(=操作の背後の機構に統御主体が想定される)パラダイムから、グラフィカルユーザーインターフェイスやオブジェクト指向プログラミングなどの登場により、スクリーン上に映っているものが全てであるというパラダイムに変わってきたといいます。そうした例に限らず、「表面しかない」という状況は超越論的なものへの問いの失効=もはや父を必要としない社会(ミレール)=安全装置(フーコー)とパラレルなものと考えることが出来ます(詳細は「『現代思想入門』入門」の後半を参照してください)。

少々長いですが、該当部分を引用しておきます。

“1956年のスターリン批判では、共産主義がカリスマ的党首を頂点とするトップダウンの体制を擁する点で、これでは「潜在的なものが実体化・顕在化されたにすぎない」、つまりは「王制(現前する支配者がいる)という官僚的機構はそのままに、王の首が据え替えられるにすぎない」として批判され、日本国内では日本共産党を批判する新左翼と言われる人たちが台頭しました。つまり共産党のやり方は、スターリニズムと同じで、「脱構築」以前の「価値の転倒」を企図したは良いが、「脱構築」までは到達していないというわけです。更には1968年には前衛党の存在自体から自らを解放しようとするノンセクト活動家が中心を担ったとされています。そこで今度は新左翼でさえ、否定性の名の下の連帯を強要することで、生の多様性を無視するという点において批判されました。
 
(中略)こうした現代左派思想が辿った歴史を整理すると、「父を殺す→誰も父の座にはつかず、父殺しの過程で生じた集団のヨコの関係を規定するものが権威化され、社会関係を不活性化させる→そうした状況に対する打開策が検討されていく→それによるさらなる問題が現れ検討される」ということが、人類史に反復的に起きていることが指摘できるでしょう。松本卓也は、歴史的な視点からフーコーの権力論における権力の形態の変遷とミレールがラカン理論の変遷を区分した3段階を並行させて整理することができることを指摘しました。権力の変遷の議論はこのレジュメの前半で確認した通りです。実体的な=顔のある支配者がピラミッドの頂点をなす中世の「君主権」、中心は穴になり、主体が自ら反省することで不在の支配者の視点を擬制・内面化することで成り立つ近代の「規律権力」、そして統計的多数からはみ出すものに環境的な介入で排除を行う現代の「安全装置」です。一方ミレールによるラカンの理論的変遷における区分は50年代ラカン=「現前する父」、60年代ラカン=「不在の父」、70年代ラカン=「もはや父が必要とされない」、というものです。ラカンは、鏡像段階論を提唱し、欠如を穿たれることが主体の成立要件であることを指摘し、否定神学的構造が幼児の発達の辿る過程に普遍的であることを定式化しました。フロイトは松原がこのレジュメで「王制を打倒し、共和制を開く」と表現するプロセスが、実は原始的な共同体から現在に至るまで、あらゆる構築に共通の構造であると考え、個人の発達史におけるラカン的な主体の否定神学的構造は人類全体の歴史に対してもパラレルに適用できると考える視点を与えました。その構造を比喩的に表すのがフロイトの『トーテムとタブー』で登場する原父殺害の物語です。その昔、強大な力を持つ「原父」という存在が、あらゆる女を支配しており、反感を覚えた息子たちは団結して原父を殺害しました。しかしその後、息子たちは自分も父のように強大な力を手に入れたのちに滅びる運命に置かれることを恐れ(この箇所は、父を殺した罪悪感を強調する言い方もあります。)誰も玉座につこうとはしませんでした。そして誰も玉座にはつかないということを相互承認することで、ヨコの秩序が誕生したのでした。息子たちは運命の縁にあって、突如として強大な力を手に入れる瞬間を遅延させ、「突然力を得ては、また突然滅びる」ことを回避する選択をしましたが、そのことによってまた別の困難を生きることになりました。いえ、息子たちは運命の縁に立ったこともありませんでした。息子たちにとってこのプロセスは起きたときには既に過ぎ去っている、「不可能な出来事」として経験されたのです(デリダのフロイト読解)。不在の父=穴となった絶対者の存在/不在をめぐってその穴を埋めるように秩序が形成された訳です。これは否定神学の構造そのものではないでしょうか。50年代のラカンは父の名に象徴界を統御されている存在を平常と地続きの神経症者とし、父の名が排除されている者を精神病者としました。ここでは父の名は素朴に最終的な審級と考えられます。これは現前する絶対者があらゆる秩序の最終根拠として君臨する「君主権」による世界に対応します。60年代になると「他者の他者はいない」として、特権的参照対象を根拠づけるさらなる原因の存在を否定して、否定神学への扉を開き、神経症者を不在であるはずの父の存在を信じる者であるとし、むしろ不在であるがゆえに力を持つ父を考えました(「お父さんに叱ってもらいますからね」から「亡くなった父さんなら、なんと言うかしらね」へ)。これは超越的絶対者の位置が空虚になった、超越論≒否定神学による秩序に対応します。そして最終的に70年代には、神経症と精神病の鑑別を相対化する構想がなされ、個人に特異的な享楽にかかわるララング(S1)への到達、また主体化に際して特異に形成される症状「サントーム」の概念による分析理論を展開しました。そうした場合、個人は自分の関心に引っかかるものだけを消費して、外部を想定することに必要や魅力を感じなくなります。大衆を篭絡するのは外在的な(または外在的に見える)支配者ではなく大衆自身のなかの統計的多数性です。”

 

また別の機会に筆者が同じことを説明した個所を引用します。

“フーコーは神や王などの超越的な例外者によって可視的な支配が行われる「アルカイック」の時代の権力装置を「君主権」と呼んだ。この時代は被支配者の生殺与奪を握る例外者が目に見えて暴力的な支配を行う反面、取り締まりは属人的かつアドホックなものだった。「モダン」の時代の権力装置はパノプティコンで有名な「規律権力」である。近代革命が起きると、民主主義が根本原理とされ、誰も玉座にはつかなくなり、終わりなき利害対立、真に善なる政策立案を巡って不断の議論が必要とされる。つまり、最終的な判断者はおらず常に反証・転覆の可能性に晒され続けながらも、目的なき目的としての善や利害調停に向かって半永久的な努力が続けられる。パノプティコンではその中心=玉座は不可視であり、不可視であるにも関わらず/むしろ不可視であることによりアドホックさが失われた不断のまなざしを囚人に向けて送り続ける。それにより、不在の支配者の視点を内面化した主体=規律化された主体が望まれるようになる。勿論ここで規律の内実をなすのは、知的または権力的な例外者がはっきりと「こうである」と定めたものではなく、その都度の世間がそうするべきと要請する何かであり、その妥当性は常に顧みられながらも個人の力だけで自在に取捨できるわけではないものである。ここでの「不在の支配者」はアルカイックの超越的例外者に対比させて述べれば、超越「論」的支配者であり、素朴に超越的な位置が存在することが不可能とされたのちに、それでも法の内部からその外部の基礎をなす把捉不能の領域にアクセスしようとする不断の営みによって常に参照され、不在であるがゆえに強力な(「ああ、亡くなったお父さんならなんていうかしら、、、」と言われると反抗しにくくなる)ものである。モダンの時代における権力は、それを司る玉座が空白であり、その空白の座を取り巻く関係の中に権力のまなざしが想定されることによって機能しているのである。「死を与える決断を下すのではなく、恒常的に生を管理する」ことによる「生政治」の概念もこの時代に関係するものである。「コンテンポラリー」の時代の権力はモダンの時代の権力が持っていた監視・訓練・労働などの要素は保持されながらもそこに次のような点が加わったものとして考えられる。個人の自発性に任されてきたものに加えて、統計的・環境的な介入が行われるようになったのである。こうした時代にあって、異常や逸脱を排除する基準となるのは知や力ではなく、大衆を構成する個々人の挙動の統計的結果が無意識のうちにつくり出す平均値である。権力は消え去ったかに見えて、いわば完全に大衆に埋め込まれているのである。支配は支配として認知されず、暴力にさらされるのも恩恵を受けるのも人間の理性による意識的な決定によるところではなくなる。勿論これらの装置は単純に単線的に進展するのではなく、その都度何が主調となるかが問題となり、また循環・回帰を起こすものである。”

 

父なき時代=安全装置の時代に前景的な権力のことを、マリー=エレーヌ=ブルースというラカン派の精神分析家は「統計的超自我」という言葉で表現します。社会というのは、時代を下るにつれ、個人が規範を逸脱すると損をするように設計されるようになる度合いが高くなっていきます。規律権的な内面的規範をベースとしてはいますが、人はそうした状況が進展していくにつれ、悪い意味で「己の欲するところに従う」という状態になっていきます。管理者の視点に立てば、そうした状況においては、平均からあぶれる逸脱者に対して環境的介入を行って、内面的規範を技術的・環境的な条件に置き換えていくことになります。

ところで、ルックスの良し悪しは顔面の平均に依存しているという研究や、ルックスの良し悪しと健康の度合いに相関を指摘する研究の結果があることが知られています。自然界において、種のなかで中心的な(というのは平均値だけが中心的代表値だとは言えないので)身体的特徴を持っているということは、少なくとも当該の時代の環境に適合するにはその特徴が最適であることを示しています。もちろん弾力性を考慮すると、現在は不適合な特徴でも、環境の変化によって有利なものになる可能性があります。このことから、非常に雑把ではありますが、ルックスが良い=平均的=健康的のような等式が自然的なものとして前提されているようにも考えられます。そして、当然ながら一時的に弾力性を下げてでも、平均的なものに人々が駆り立てられなければならなくなる危機的環境が訪れたこと、それがルッキズムが問題として浮上することの背景にあるという風に考えることができそうです。

社会的現実がもはや自然環境のようにして人間の生を規定するようになることは様々に議論の対象になっています。そして後述するように、そのことは権力論と関係があると筆者は考えています。落合洋一はとあるインタビュー番組で「例えば信号機なんか、今は人工物だって誰でも分かるけど、ああいったものが森に生えている木と変わらなくなっていく」という旨の発言をしていました。人間の社会的能力や社会機構自体を「第二の自然」と呼ぶ議論は伝統的なものにも見られますが、今度は第二の自然と第一の自然との区別が出来なくなって、それらが合わさって自然環境を構成するようになるというわけです。人新世という言葉にも、こうした「『自然の中の社会』から『自然としての社会』へ」というパラダイム転換を代表する言葉といえる側面もあるかもしれません。 

東浩紀は「ポストモダンの動物的状況」という言葉で、人間がメディアの世界を動物のようにサバイブしているという世界観を表現します。「動物化」の議論と権力論の並行関係を、東は明らかに念頭に置いています。ちなみに「動物化」の概念自体はコジェーヴのものです。東の議論をハイライトしながら、このことを定式化してみます。本来、循環的・回帰的なものであることを前提に歴史的概念を時系列とは異なる順番で用いて高度に一般化するので注意してください(筆者は精神現象学の時系列的な不整合性の正当性はこの点にあると考えています)。

ある本質主義的理想が潰える(王の死)、もしくはさらにそうした本質主義的価値に別の本質主義的価値基準で対抗することへの希望が潰える(歴史の終焉)と、人々は水平性(平等権)と垂直性(自由権)を同時に盛り込んだ規範によって共和制(『現代思想入門)入門における独特の用語)を開き、規律権的にそうした本質・中心を擬制する態度を持つようになります。さらに局面が進展すると、そうした態度さえ失われ、もはや社会は中心や本質を要請しなくなります。それとパラレルと考えて良いものとして、大澤真幸が45~70年を「理想の時代」70~95を「虚構の時代」としたことを受け継いで、東は95年以降を「動物の時代」と呼ぶことを提案しています。そして、虚構の時代から動物の時代への変遷に並行してサブカル作品の消費のあり方も変わってきたのだと論じるのです。虚構の時代のモデルに該当する大塚英志の物語消費論においては、サブカル作品の消費において、商品そのものが消費されるのではなく、商品を通じて設定や世界観が消費されるのだとされます。そうして人々は失われた大きな物語を作品の背後に捏造しようとしたのだそうです。そうした子ども騙しであることを承知で本気で感動するような、無意味な内容から形式的な価値を擬制するという「スノビズム」から打って変わり、動物の時代ではデータベース的消費という形態が現れるのだといいます。それは「大きな物語⇔小さな作品』という構図から「データベース⇔シミュラークル」という構図への変遷です。そうなると、萌え要素や都合よい展開の組み合わせによってできた、オリジナルとの区別を問うことが意味を持たない二次創作=シミュラークルが氾濫するようになります。例えばマルチエンディングが前提されたノベルゲームなど、物語ははじめから複数で良いのです。オタクたちは、特定の個人的な萌え的趣向に基づく感情的な満足をもたらすものへの限局的な関心によってデータベースをサーフィンします。これまで社交性によって生きる意味を充足させていた人間は、もはや「あなたへのおすすめ」に浮上したコンテンツだけをタップし、非人称的な環境のなかで快を満たすための特定の条件に反応して行動するだけでよいのです。

ここまで議論してようやく、視覚文化論と権力論(ないし歴史哲学)と「動物化」現象が繋がりました。動物化によって人間は、これまでにも増して本能的な衝動——東の言葉で言えば「萌え」——に逆らえなくなっていくのではないでしょうか?橘玲(たちばなあきら)という日本のライターは『もっと言ってはいけない』において、「社会的・二次的な理由での不平等が解消され、機会均等が実現していくにつれ個人の境遇の要因に占める遺伝的影響の割合が高まる」ことを指摘し、「リベラルな社会ほど、遺伝率が上がる」と言っています。つまり、生まれてからの社会的な格差による差が解消されていけば相対的に遺伝や生物学的特性によって個人の境遇が影響を受けることがより鮮明になってくると言うのです。橘自身は「人種によって知能が異なる」と論じるレイシストですが、この所見は興味深いものです。

 

5-3. 自然な素顔という虚構

フロイトの含意を紐解くと、大澤の「虚構の時代」=「空虚な中心に牽引される構造」というのが実は人間社会のデフォルトなのではないかと言うことができます(これについても詳しくは「『現代思想入門』入門」のレジュメの該当部分を参照してください)。そしてその知見を敷衍するならば、欠如が埋められているように見えるごく偏った時期が「理想の時代」=「王制」であり、中心が必要とされなくなったように見えるごく偏った時期が「動物の時代」だということになります。人々は「動物の時代」に差し掛かったときこそ、むしろ欠如を補填するカリスマ的指導者を待望し、「王制」を望む傾向があることが知られています(こうした考察の元はマルクスの『ルイボナパルトのブリュメール18日』に遡るとされています)。そうした傾向には健全なレベルから、不健全なレベルまであります。

米澤(2021)は、素顔=顔自体への信仰は常に生まれ続けているのだといいます。その証左として、2019年、宝島社と朝日新聞社のキャンペーン「Aging Gracefully ——私らしく輝く——」によってこれまでの中高年女性における美魔女推奨的な在り方が覆され、加齢による特徴を肯定するトレンドが売り出されていることが挙げられます。現象学とファッション論において確固たる地位にある人物である鷲田清一の『顔の現象学』において、「何の加工も施されていない顔というのは存在しない。顔の自然さとはひとつの虚構であり、それは常に既に侵されている。」という一節がありますが、我々はところが「本当の私」といったスローガンを受け入れては、「顔自体」なるものを想定して生きようとしてしまう側面もあるわけです。

先ほど、「理想の時代」、「虚構の時代」、「動物の時代」といった特定の時代に前景的な社会の構造は単純に単線的に進展するものではなく、その都度何が主調となるかが問題となり、また循環・回帰を起こすものであると説明しましたが、今の世の中というのは「虚構の時代」と「動物の時代」のハイブリッドで回っているのです。

 

5-4. 自然的なものと差別

 このように差別に自然的な根拠を求めるやり方は、ハイトの『社会はなぜ右と左にわかれるのか』における道徳基盤説やバナージ&グリーンワルドの『心の中のブラインドスポット』における認知バイアスの議論などのヴァリアントがあります。そうしたなかには「無意識的な差別にどう対処するか」というような自然的なものに理性的にどう対処するかというスタンスのものもあれば、差別をエビデンス主義のもとで合理化する危険を持つものも存在しています。

 スティーブンピンカーは『人間の本性を考える——心は「空白の石板」か』において、男女の能力差は進化の過程で獲得されたもので、そうした生得的な違いを無視して職業上のジェンダーバイアスの是正を目指す試みはコストが高くつくとして批判します。

 木澤佐登志の『欧米を揺るがす「インテレクチュアル・ダークウェブ」のヤバい存在感——「反リベラル」の言論人ネットワーク』で紹介される、インテレクチュアル・ダークウェブ(I.D.W.)とは、データに基づいてジェンダーと人種の差異に関わる科学的/統計的エビデンスを明らかにし、リベラルにとって不都合な真実を暴露しようとする専門家のネットワークです。このような言動はランドやティールといったオルタナ右翼にとってレイシズムを正当化する根拠としてしばしば利用されているといいます。このような場合、合理的根拠に基づく差異を主張することは差別ではなく区別であると開き直る態度が見られるのです。

 このように科学的根拠を持つ差異に基づいてたり、本能的な抗いがたさを持つ構造が、差別を全面肯定するために利用されてはいけませんが、他方でそれらを無視することはできません。こうした状況に対して我々はどのように対処することができるでしょうか?

差別問題に関しては、合理性の土俵で戦うと(被差別者をそれ以外から区分けするやり方には合理的根拠が無いと言って差別に対抗すること)、区分けの仕方に合理性や自然的根拠を見い出す事実が出たときに負けてしまいます。たとえ、合理性や自然的環境があっても、それにいかに対処するかを考えること。それが「根本的にルッキズムに抗うことのできない人間」を前提とした社会の設計につながると言えます。

引用文献

※整理中

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