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村上春樹/鼠三部作②~1973年のピンボール(1980)


処女作「風の歌を聴け」に続く、村上春樹による「鼠三部作」の2作目。1973年の秋を背景に「僕」と「鼠」の物語がパラレル的に進められてゆく―。


面白いのは前作とは異なり、2人がビールを飲みながら会話を交わすことも、互いのことを考えることもない (ごく僅かな部分を除いて) ということだ―彼らが意外な仕方で出会うのは次作「羊をめぐる冒険」で、となる。ドストエフスキーの小説では登場人物の人生がポリフォニーの如く同時進行的な書き方がなされているが、それらを思わせる書法だ―「海辺のカフカ」や「1Q84」もそうだが、これらには2つの線が交わる瞬間が用意されている。どちらも独特のメロディを奏でている―「僕」のメロディは前作より雄弁で、ウイットとやや捻じれたユーモアに富む。対して「鼠」のそれは、終始虚脱感と諦念に満たされている。読み手は決して交わることの無いこれらのメロディを交互に味わうことになるが、僕には2人は同一人物で、二重性というか、ドッペルゲンガーのような気がしてしてならない (これは「三部作」全体を通じて感じていることである) 。もちろんそんなはずはないのだが、小説の中の世界では何でもあり得る―物理法則を超えて。


全体は序章となっている「1969-1973」「ピンボールの誕生」を経て、全25章から成っている。必ずしも「僕」と「鼠」の話が各章で交互に現れるわけではないし、時系列も直線的ではない。

最初の「1969-1973」では、話を聞くのが上手い「僕」のことが綴られ、「ノルウェイの森」でも登場する「直子」(同一人物?) や定番の「井戸」も登場し、気づいたら隣に寝ていた (全く区別がつかない)「双子の女の子」も紹介される。僕が面白いと思ったのは、その彼女たちの名前をめぐって出てきた「入り口と出口」の話だ。

入口があって出口がある。
大抵のものはそんな風にできている。
もちろんそうでないものもある。
例えば鼠取り。

そして「僕」は鼠取りに捕まって死んでいた鼠のエピソードを淡々と語り、1つの教訓を引き出す―。

物事には必ず入口と出口がなくてはならない。

あまりにも直接的な言及では?と思ってしまうほどの内容だ (三部作の最後を知る者としては) 。「鼠」は「出口」を見つけるため、立ちはだかる現実にもがいていたのではないか―そしてようやく「眠りにつける」場所を見つけたのでないだろうか…。

ヴィヴァルディ/「調和の霊感」~第10番ロ短調。
4人の学生たちが多少ぎこちなさを感じさせつつも端正にソロを弾き込んでいる。

ハイドン/ピアノ・ソナタ第32番ト短調。ソコロフのライヴ演奏で―。


ちなみに、「ピンボールの誕生」で出てくるマシーンの発案者レイモンド・モロニ―は (前作の作家とは異なり) 実在の人物である。村上氏は当初、リアリズム小説を予定していたらしい―その余韻は「鼠」パートに残されている。

愛知県犬山市にある日本ピンボール博物館 (現・日本ゲーム博物館) 。2つ目の動画には1830年製のブロードウッド・ピアノも登場。


第1章は「僕」のエピソードで始まる―友人とタッグを組んで翻訳の仕事を行う。家に帰ると双子の女の子の相手をする…といった具合だ (シャツにプリントされた番号で双子を区別する「僕」)。「僕」はカント/「純粋理性批判」を読んでるようで、僕もこの小説に影響されて読んだが、「難解」とはこういうものかとつくづく思ったものだ。

「配電盤」が登場する3章以降は僕がとりわけ気に入っていて、そこが楽しみで読んでるようなものである。交換しに来た電話局の工事人の様子が微笑ましい(双子の女の子に挟まれてベットにいる「僕」を見て約15秒間言葉を失う。しまいに女の子になかなか見つからないはずの配電盤の場所を言い当てられてしまうのだ)。作業後なぜか一緒に食事をし、色々「参った」せいか、古い配電盤を忘れていってしまう。交換し終わった配電盤のボードを眺めながら、「僕」は学生時代住んでたアパートの隣人のことを思い出す―よく彼女に電話がかかってきて、「僕」が取り次いでいたからだった…。

何処まで行けば僕は僕自身の場所をみつけることができるのか?

それ以降、「僕」の心の片隅に配電盤の存在が暫く居座ることになる。


配電盤のことは9章で再び思い出され(「僕」がどうしても気になる) 、11章では貯水池にて「配電盤のお葬式」が執り行われる。双子の女の子に薦められて「僕」は祈りの文句を唱える。それはカントからの引用だった―。

哲学の義務は、誤解によって生じた幻想を除去することにある。……配電盤よ貯水池の底で安らかに眠れ。

多分僕たちは、人生の中で幾度となくこんな「儀式」を繰り返しているのだろう…。「形式」を踏まない限り、乗り越えることが出来ない「何か」が存在しているのかもしれない―。

残された (古い) 配電盤は、その役目を終え「死にかけていた」。本来は業者によって処分されるものであったことに注目して頂きたい―それをいわば「僕」が担ってしまったのだ。「僕」は「死なせたくない」と言うが、「あなたには荷が重すぎたのよ」と女の子に言われてしまう。しかし(それでも)実は「僕」のために残されたのかもしれない。

その後も (「僕」に気のある)事務所の女の子と食事をするが、エビを食べながら「僕」は「貯水池の底の配電盤を想って」いるのである。

この間、僕のアパートにも電気屋さんが来た。配電盤ではないかもしれないが、5分ほど電気が使えなかった。現在はこのように建物の外に設置されているが、昔のアパートは室内にあったようだ。ブレーカーとも違うのかな?

スタン・ゲッツのアルバムから。ゲッツは春樹氏のお気に入りのようで、よく他の作品でも登場する。

ヘンデル/リコーダー・ソナタ集より。ガールフレンドがプレゼントしてくれたもの。「ハンス=マルティン・リンデによるヘ長調の曲」と詳細を書いてるところも村上氏らしい。

双子の女の子が貯金して買ったビートルズ/「ラバー・ソウル」。その1曲目はご存じ「ドライブ・マイ・カー」。

もうご覧になっただろうか―僕はまだ。小説の方は読んでいたが。



途中だがここでポイントを「鼠」パートに移そう―。

第2章から彼の物語が描かれている。時期は同じ1973年の秋だ。前作でも登場した「ジェイズ・バー」に入り浸る「鼠」。彼が抱える虚無感はいつからのものなのだろう―少なくとも3年前「大学をやめた春」あたりからのようだ (やめた理由の説明にうんざりし、「中庭の芝生の刈り方が気に入らなかった」といって躱していたらしい。後の短編「午後の最後の芝生」を思い出してしまった) 。

僕も心当たりのあるこんなフレーズがある…。

時折、幾つかの小さな感情の波が思い出したように彼の心に打ち寄せた。そんな時には鼠は目を閉じ、心をしっかりと閉ざし、波の去るのをじっと待った。夕暮の前の僅かな薄い闇のひとときだ。波が去った後には、まるで何ひとつ起こらなかったかのように、再びいつものささやかな平穏が彼を訪れた。

「無人灯台」―少年の頃「鼠」がよく通った場所。突堤の近くにある女の家。6章では彼女との出会いが回想される。8章では2人でよく行った「霊園」のことが描かれる―「鼠」のパートには常に死の匂いが感じられる―。

週末会う関係―その繰り返し。日にちの感覚が失われ、真ん中の「水曜日」だけが宙に浮く。その水曜日の深夜、「鼠」はジェイズ・バーを訪れる。そこでマスター (ジェイ) が飼ってるビッコの猫の話になる。誰かの悪戯で片手を失ったらしい。

次のジェイの言葉は、村上氏の小説に時折登場する(純粋な)悪の存在を彷彿とさせる―。

そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれているって言ったっていいかもしれないね。

執筆してて思いをよぎった曲。シューマン/「暁の歌」~第1曲。

彼女は日曜日にモーツァルトを弾いたという。小説には曲名が載ってないが「幻想曲ニ短調K.397」を―。
内田光子は未完のコーダを冒頭のリフレインで仕上げている。

「オールド・ブラック・ジョー」のオルゴール版。「霊園」で1日に3度流れていたという。午後6時に流れる時は結構いいらしい。



センターの第13章になってようやく「ピンボール」が登場する。嬉しいことに、1970年の回想として、「僕」と「鼠」がジェイズ・バーにあった3フリッパーの「スペースシップ」モデルに唖然としたいきさつが書かれている (この小説で唯一2人の接点が書かれている箇所だった) 。「鼠」は直ぐに関心を失ったが、「僕」のほうは後日再燃することとなる―以降「スペースシップ」は擬人化され「彼女」と記されるのだ。「彼女」の呼び声を追うかのように「僕」はあらゆる場所を探しまくる。

そして「ピンボール・マニア」の大学講師と出会う。

大学でスペイン語を教えています。
砂漠に水を撒くような仕事です。
    僕は感心して肯いた。

彼のおかげで、とうとう「僕」は (日本に3台しかない)念願の「スペースシップ」に出会うこととなるが、そこはまるで「異界」である―巨大な倉庫のようだが、そこに規則正しくピンボールマシンが78台置かれているのだ。養鶏場の跡らしく、特有の匂いがするなか「彼女」と出会う。

圧倒的な沈黙とひどい寒さは、まさに「墓場」のよう―この小説で唯一「別世界」を描いたページだと思う。さすがに「壁をすり抜けたり」はしないが―。

僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその熱い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。

もう行った方がいいわ、と彼女が言った。



最後の第25章は「僕」のパートで閉じられる―。

静かに風の音を聴こう」という言葉は意味深だ。

貯水池の底なり養鶏場の冷凍倉庫なり、どこでもいい、僕の辿るべき道を辿ろう。

やがて双子の女の子は「もとのところ」に帰って行く―まるで何かの役目を終えたかのように。



第13章以降「展開のある」ストーリーからある意味外れてしまってるのは「鼠」のパートである。「ツキからすっかり見放された」彼は「引退」を考える。街をさまよい、彼女の部屋を思い浮かべるが、うまくいかない。ついに19章で「鼠」はジェイに街を出ることを告げる。

音楽は?とジェイが訊ねる。
いや、今日は静かにやろう。と鼠は言った。
何かの葬式みたいだ。鼠は笑った。


第23,24章が「鼠」の最後のパートだ。

彼女に連絡を取るのをやめ、ジェイズ・バーで最後のビールを1本飲む。

眠りたかった。眠りが何もかもをさっぱりと消し去ってくれそうな気がした。眠りさえすれば……。
目を閉じた時、耳の奥に波の音が聞こえた。防波堤を打ち、コンクリートの護岸ブロックのあいだを縫うように引いていく冬の波だった。これでもう誰にも説明しなくていいんだ、と鼠は思う。そして海の底はどんな町よりも暖かく、そして安らぎと静けさに満ちているだろうと思う。いや、もう何も考えたくない。
もう何も……。


「僕」と「鼠」のパートが好対照であるからこそ、この小説は深みを獲得しているのかもしれない―どちらも「死」に接近しているが、スタンスの違いは明らかである。

僕たちはその時々で「僕」になったり「鼠」になったりするのだ。

シューベルトの名作歌曲集。歌詞付き。ご覧になると何故僕がこれらを選んだかがお分かりになると思う。


これは僕の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。その秋、僕たちは700キロも離れた街に住んでいた。1973年9月、この小説はそこから始まる。
それが入口だ。出口があればいいと思う。
もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。


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