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ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論【読書感想】

ルネサンス(文芸復興)の三大巨匠と言えば「ラファエロ」「ミケランジェロ」「レオナルド・ダヴィンチ」。ルネサンスの芸術面に焦点を当てる時も、彼らを中心に語るのが自然かもしれない。

しかし、本書はテルマエ・ロマエのヤマザキマリ氏が”偏愛”的にルネサンスの画家を語る。

17歳で単身イタリアに渡り国立美術学校で美術史と油絵を学んだ彼女の解説によって、偉大な巨匠たちも親しみやすいキャラクター変身。歴史と美術の双方に通じているヤマザキ氏が、ルネサンス期の”変わった”作家たちについて語る。

フィリッポ・リッピ ルネサンスの幕を開けた女好き

噂によると、このフィリッポは大変な女好きで、自分の気に入った女を見かけると、その女をモノにできるなら自分の持ち物はすべてくれてやるような男だった

芸術家列伝1  ジョルジョ ヴァザーリ (著), 平川 祐弘 (翻訳), 小谷 年司 (翻訳)

ヤマザキさんが早速、ルネサンスの幕開けを飾る画家として”変化球”を投げ込んできた!

フィリッポは聖母マリア(マドンナ)を描かせるととてつもなく上手だったという。ただし、そのモデルは自分の愛する女性で、それ以外の人を書かせると正直に言って下手糞。つまり、「自分の愛する人」しかまともに描けない変人だった。


フィリッポ・リッピ「聖母子と聖母子と二人の天使」ピッティ美術館
残念ながら”下手糞”なマリアの絵は見当たらなかった

ヤマザキ氏が評価する理由の一つは、当時の主流だったイコン画(聖像画)における常識を覆したから。イコン画における聖母子像は、聖母マリアと赤児のキリストを描いた宗教画であり、誰が描いても基本的にモチーフや構図は決まっている。赤ん坊もキリストを意味する記号であったことから、特に可愛く描く必要はない。

しかし、フィリッポの赤ん坊はとても”乳臭い”。今にも動き出しそうだ。実は、この絵のマリアとキリストは、フィリッポの妻と子をモチーフにしている。それなのに聖母子像と言い張って世に出してしまったのだ。イコンの制約から解き放たれた自由な画家だったのである。


フィリッポ・リッピの自画像
結婚は一目ぼれした30歳年下の修道女と駆け落ち。後に還俗までする。

このような人間臭さを発揮してしまうところに、ヤマザキ氏はルネサンスの「人間復興」の兆しを見出す。修道士でありながら、女の人のことをすぐ好きになってしまい、浮気もたくさんする。惚れた女には自分の財産をすぐ上げてしまう。そんな振る舞い自体が、人間至上主義であるルネサンスの現れなのだ。

アンドレア・マンテーニャ ひたすら構図に拘りぬく

ルネッサンス期、特に「構図」に拘りぬいた画家がいる。それがマンテーニャである。有名なのはこちらの天井画だ。

アンドレア・マンテーニャ『カーメラ・デッリ・スポージ』1463-1474年 天井画 ドゥカーレ宮殿

この絵は天井から大勢の天使や人物がこちらをのぞき込んでいるという、それまで誰もやらなかった独特の大胆な構図で描かれている。よく見ると、右上の天使はお尻をこちらに向けている。きっと遊び心のある人だったのだろう。

マンテーニャはカメラワークや構図に拘り、ありとあらゆる角度で人を描いた画家だった。

ルネサンスの時代は誰もが自由な精神を発揮した、いわば「なんでもあり」の時代です。でもこんな絵は、彼のほかには誰一人として描いてません。

ヤマザキマリ

貧しい家に生まれたマンテーニャは宮廷画家になり、最後には騎士として叙せられるほど出世した。しかし、宮廷画家になっても騙し絵など面白い構図を描き、最後まで遊び心を失わなかったのだそうだ。

アンドレア・マンテーニャ《死せるキリスト》1483年 53歳の時に描いた絵
足の裏を見せることによって、釘が貫通してできた傷があらわになり、イエスが受けた磔刑のむごさが強調されています。 立っている人や横になっている人を、頭部や足元から見ると、実際よりも身体が短く見えます。 その短縮した形を、平面にそのまま描く、「短縮法」という新しい画法を用いてこの作品を描きました。出典:アートをめぐるおもち

三巨匠と結婚するならラファエロ? 気遣いしすぎた変人

ラファエロ、ミケランジェロ、レオナルド この3人から伴侶を選ぶとしたら──?

ヤマザキ氏は迷わず「ラファエロ」と答える。人としても画家としても長くリスペクト出来る人で、理想の男性のタイプなのだそうだ。

これは私の持論なのですが、その画家がどんな女性を描いたかをみれば、その画家の人格を推し量れる気がします。ラファエロは「女性の美」を三大巨匠で一番重視した画家でした。

ヤマザキマリ

例えば、ラファエロの作品に「無口な女」というものがある。

この「無口の女」のモデルは決して美人ではない。当時の美意識に照らしても、美人ではないのだそうだ。しかし、「ラファエロはこの女性の凛とした表情を、過度に美化しすぎるのではなく、かといって貶めるのでもなく、そこに彼女の精神性を見出しつつ描いている」とヤマザキ氏は感じるのだという。

こうした絵から伝わるのは、ラファエロの細かな気遣いと、謙虚さだ。

ラファエロの有名作品に「アテナイの学堂」がある。

これはプラトンやアリストテレスと言った師弟をはじめ、有名な古代ギリシアの哲学者たちを描いた絵だが、必ずしも考古学的に忠実に当時の哲学者を描いたわけではないようだ。

この絵はレオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」から影響を受けたといわれる。それを裏付けるように、中央にいるプラトンはレオナルドダヴィンチを模している。また、中央下の会談にいるヘラクレイトスはミケランジェロと言われている。

それに対して、ラファエロ自身は画面の右端のアベレスである。なんとも遠慮がちな自己主張であるが、しないわけではない。先輩に対して気を遣いながらも、どこか如才のなさ持ち合わせているラファエロは実際、かなりモテモテだった。

本書の所感ー肩の力を抜いて読める、ルネサンス論

歴史オタクでもある一方で、本業は漫画家であるヤマザキさんの視点で紡がれたユニークな偉人論。

本書は極めて”主観的”に描かれている。定説を紹介しつつも、「でも私は画家としてこう感じたんだ!」という風に紹介される偉人たちは、まるで漫画のキャラクターのように親しみやすい。

軽やかな文体で、ルネッサンス期の生き生きとした雰囲気が伝わってくる。そして最後の文化論は短いながらも圧巻的であった。

知性や教養、芸術的な精神性といったものが、自由な精神に対する抑圧のもとで否定された時代は中世ヨーロッパだけでない。フィレンツェでルネサンスが花開いた15世紀でさえ、サヴァナローラによる神権政治が精神の自由を圧殺した。

20世紀から21世紀も他人ごとではない。カンボジアのポル・ポトによる虐殺、イスラム国による古代遺跡の破壊など、知性や芸術に対する野蛮な嗅覚は人類の中でいつでも復活しうる。

でも、一度でも何かを綺麗だと感じたりものごとから知的な刺激を受けて、知識や芸術に対する感受性が花開いてしまえば、人はそれなしでは生きていけなくなる。そうであると嬉しい。







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