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中島みゆき『世情』 変わらない夢

どうも選挙が近いそうで世情も騒がしくなりそうである。こういう時に思い出す曲がある。中島みゆきの『世情』である。


金八先生

 中島みゆきの『世情』を私が初めて聴いたのは、1981年3月20日に放送された『3年B組金八先生』の第2シリーズ第24話『卒業式前の暴力(2)』での挿入歌としてであった。

当時、校内暴力が問題視されていた世相で金八先生でも一つのテーマとして取り上げられた。

この回のあらすじは確か次のような内容だったと記憶している。

加藤優(直江喜一)は転校前の中学の仲間達からの要請で教師たちとの話し合いのためにその中学へ乗り込む。松浦悟(沖田浩之)は加藤との友情から見届人として加藤と行動を共にする。二人は校内の放送室に教師を監禁し立てこもり、教師からの謝罪を引き出す事に成功。放送室から出た二人は周りの歓声に包まれるが、そこに警官隊が突入。

このあたりから『世情』がBGMで流れる。

逃げ惑う生徒達。追い詰める警察官。生徒達を守ろうとする金八先生と先生達。次々に逮捕される生徒達。加藤と松浦達は護送車に乗せられる。その様子を撮影するマスコミのカメラを遮ろうとする先生達。走り出す護送車。その後を追う加藤の母。加藤の背後の車窓から母の姿が見えるが気付かない加藤。それらのシーンがスローモーションで映され『世情』が流れる。涙なしには観られない名場面だった。このシーンのBGMに『世情』を選んだ方のセンスには脱帽するばかりである。

学生運動

歌詞に繰り返し出てくる「シュプレヒコール」から私は学生運動を連想するが、実は、この『世情』が収録されたアルバム『愛していると云ってくれ』は1978年4月にリリースされており学生運動も終焉を迎えていた時代である。学生運動の終焉の象徴とも言うべき『あさま山荘事件』は72年であった。

中島みゆきが大学に入学したのは確か70年であるから北海道大学の紛争の余韻が残っていただろうし、学生デモなどを直接見聞きしていたかもしれない。

しかし、私はこの『世情』が学生運動をテーマにしたものだとは思わない。『世情』を学生運動をテーマにしたものと解釈すると、この『世情』の世界観が矮小化されてしまう気がする。

変わらない夢

この『世情』に出てくる言葉に「変わらない夢」がある。

歌詞を見てみる。

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

例えば、60年安保などのように時代を限定せずに歴史を見れば、時代は変化し続けている。当然、変化を望む者、変化を望まない者が存在し、自分の思いを貫き通す者が悲しい思いをする。

分かりやすい時代を言えば、江戸幕末から明治維新の変動期であろう。徳川幕府を倒そうとする者、徳川幕府を守ろうとする者。

革新と保守と大別できるが単純ではなかった。革新派の薩摩藩や長州藩も最初は尊王攘夷(天皇親政で鎖国)だったのが、いつの間にか開国(外国と貿易)する事に変化して尊王攘夷の頑固者は時代から排除されていった。保守派の中でも幕府を守ろうとした新選組などがいたが当の将軍は早々に武装解除し江戸城を明け渡した。頑固者の新選組などは追い詰められるだけだったのだ。

これは幕末期に限らず、どの時代でも革新と保守があり、そのどちらにも頑固者が存在し頑固者は時代から排除される。

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

明治になってもチョンマゲを結い刀をさした武士は「不平士族」と呼ばれ粛清されていった。「不平士族」は時代の変化に応じて変わった器用な者たちの理由付けにされたのだ。これもどの時代にも見られたことだ。

この『世情』は、単純に保守と革新に分けるだけではなく、保守には保守の頑固者がいて革新には革新の頑固者がいる事を僅か4行で言い表している。

シュプレヒコールの波 
通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて

ここでの「変わらない夢」は、時代を変えたいという革新派の夢であろう。

時の流れを止めて 
変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

ここでの「変わらない夢」とは、既得権益をそのまま享受し続けたいという保守派の夢である。

そして、歴史はその戦いの積み重ねである。どちらが正でどちらが誤とかどちらが善でどちらが悪とか断定は出来ない。そういう事実があるだけである。

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている
包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

為政者たちは真実を言わない。真実の中に嘘を混ぜる。学者や評論家はその嘘の部分を指摘するが、包帯の中に隠された大きな傷には触れない。

 シュプレヒコールの波 
通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 
変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

これが3回繰り返される。3回とは、過去・現在・未来を表しているのだろうか?これからも繰り返される戦いなのだろう。

再び金八先生

あの名場面には、様々な「正義」が描かれている。学校の管理教育に疑問を持ち、教師に問いかける加藤や松浦やその一派。管理教育を貫こうとする教師達。生徒達を守ろうとする金八先生達。秩序を守ろうとする警察官達。

それぞれの「正義」を貫こうとしてぶつかったのがあのシーンなのである。つまり、それぞれの「変わらない夢」を追求した結果なのだ。

そして、それぞれの「正義」を凌駕する存在が最後に描かれる。それは加藤が乗った護送車を追いかける加藤の母である。この大いなる母性愛も永遠の存在なのであろう。

学生運動でデモをしたりゲバ棒を振るったり火炎瓶を投げたりする学生達、学生を制する機動隊員達。それぞれにも母はいる。加藤の護送車を追いかけた母がそれぞれいたのである。

再び学生運動

学生運動で「変わらぬ夢」を求めた学生達。しかし、その学生運動も詳細に見れば違う風景が見える。それは男子学生と女子学生の差である。当時、女子学生自体の数が少なく運動に身を投じる女子学生は更に少ない。当然、女性蔑視があったのだ。

中島みゆき本人も高校3年の文化祭のステージで女子というだけでヤジやトイレットペーパーが投げつけられたそうだ。

学生運動という大きな波に隠されているが、女性はさらにジェンダーフリーの戦いが待っていたのである。

再び「変わらない夢」

この『世情』は、保守と革新の単純な二元論に終わらず、視点を変えれば様々な「変わらぬ夢」のための戦いがあるという真理を謳っているのである。小さな声が集まり、やがてシュプレヒコールとなり新しい時代を引き摺り出すのだろう。

変化を求め続けるという「変わらない夢」も、いつしか変化を求めないという「変わらない夢」に変わるかもしれない。今、現在の自分が描く夢は果たしてどちらなのだろう。たまには自分に問いかけてみるのも必要かもしれない。


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