SEのセラピーではよくあることなのですが、トラウマ的な体験を話しているときに、その話が“佳境に入ってきた”というようなところで、突然、「はい、ちょっと話すのをやめて、今あなたの身体はどうなっていますか?」とセラピストから問いかけられます。話を止めるタイミングやその頻度は、セラピストによって異なりますが、これは通常のカウンセリングではあり得ないことなので、最初は驚いたし、正直、戸惑いました。
セラピーを受ける日の状態によって、私はどうしても話したい、という時もあったし、それほど話さなくてもいいかな、という時もあって、また話したい気持ちが強い時期と、そうでない時期というのもありました。その時どきにあったセラピストを選ぶのは、難しく感じることもありますが、自分がどの程度話したいか、ということは、セラピストに伝えるようにしていました。(それを伝えると、一人だけ、逆切れするセラピストがいましたが、その方は心理職の経験のないセラピストでした)
あるセラピスト&カウンセラーから、「あなたの場合は、言葉がリソースになっている」と言われました。確かに、私自身、子供の頃から、本を読んだり、日記を書いてきたので、言葉にすることが私自身のリソース(安心・安全を感じられること)だと思います。ですので、トラウマ的な体験を「言葉にするかしないか」「話すか話さないか」「どこまで話して、どこから話さないか」というのは、人によって異なるし、とても微妙な判断が必要だと感じます。
15年ほど前にお世話になったカウンセリングは、当時ソマティックの考え方や手法が、ほとんど日本に広まっていなかったのもあったのでしょうが、「とにかく吐き出すように」とカウンセラーに指示されるまま、長い時間とお金をかけてカウンセリングに通い続けて、トラウマ的な体験を話し続けた、あの時間とお金が無駄だった、と今でも感じることがあって、皆さんに同じ轍を踏んでほしくなくて、このブログを書いている気持ちもあります。ですので私も、延々にトラウマ的な出来事を話し続けるだけでは、トラウマ的な症状は解決しない、と身をもって感じています。
ただ思うのは、人間の歴史は、無数の小さな犠牲があって発展してきたのだろうし、誰かが何かに苦労したり苦しんだりして、「もっとこうであればいいな」という無数の思いから、人間の社会の様々な進歩が生まれたのだと思います。だから、私以外にも多くの人が、話すだけのカウンセリングを受けてきて、結局、最大の問題(トラウマ症状)は未解決のまま生きてきた、という人がいて(もちろん米国にもいて)ソマティックのような画期的な治療法ができて、それが日本にも入ってきたのでしょう。人間の進化の歴史は、無数の小さな犠牲によって生まれるのだ、と思うのです。それはもう仕方のないことだし、少しでもその進化に貢献できたらと思って、自分を慰めています。
ジェニーナ・フィッシャーのHPより
It's never too late to be who you were meant to be. (George Eliot)
本来の自分自身になるのに、遅すぎるということはない。(ジョージ・エリオット)