仏教の本質
現代の科学や心理学から研究していけば、仏教の本質もわかってくるんじゃないかと思っているんだが
そうゆう研究者いないんだよね。
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海馬の再生を心がけることが重要です。 海馬は、ストレス・不安・うつ状態・肥満・糖尿病・不活発な生活で容易に萎縮します。 一方、ストレスのない楽しい生活・瞑想・新しい事への挑戦・旅行などの新しい経験や、地中海食、DHAやEPAを含んだ食べ物の摂取で海馬の神経細胞は再生します。
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私は、二十代のとき、テニスにはまってかなり練習やトレーニングをしました。
あるとき、テニスの練習をしているとき、えもいわれぬ楽しさ感を感じました。
密教や修験道などは、実践からこうゆう状態になるのがわかったんだなと理解しました。
こうゆう状態にならないと、自分を観察研究していないと気づきませんよね。
今は、ランナーズハイが科学的に説明されてますよ。
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ランナーズハイとは、マラソンなどの長距離を走った後に得られる、短時間の幸福感や爽快感、陶酔感などの状態です。
ランナーズハイの原因としては、次のような説が考えられています。
脳内でβ-エンドルフィンという脳内神経伝達物質が分泌されることで、幸福感や気分の高揚、鎮痛効果などが得られる。β-エンドルフィンは内因性のオピオイド(モルヒネ様物質)で、「脳内麻薬」とも呼ばれる。
走っている間に体内で内因性カンナビノイドという化学物質が生成され、ハイな状態が引き起こされる。内因性カンナビノイドは、大麻の成分THCと同じ脳内受容体に結合する。
ランナーズハイを感じるには、自身の限界を超える必要があります。日々のランニングやトレーニングでできるだけ長い距離を走ることで、限界を把握し、突破することができます。
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その前の説明もできますよ
パチンコ依存性とかありますね。
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ただ祈っているだけなら、心理学では逃避。
現実世界の状態は何にも変わりません。
逃避
防衛機制
私たちは、葛藤や脅威などの体験により、恥、劣等感、不安、罪悪感など様々な心理的苦痛や不快な衝動、感情の体験をします。そしてそれらの感情体験を無意識のうちに弱めたり、避けたりすることにより精神的な安定を保って生きています。
このために用いられる心理的メカニズムのことを、防衛機制(defence mechanism)と言います。
欲求が何かの妨害のために満たされなく耐え難い時や、心に負った傷をなかったことにしたいなどの欲望に対してもこの防衛機制は発動します。
防衛機制は、私たちが外からの課題や内的欲求に対処しながら生きていくうえで大切な役割を果たしており、適応機制とも呼ばれています。
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インドは古代から、論議や宗論の国で教義を磨きあげてきましたよ。
釈迦もたくさんやってきましたよ。
そうゆうのは、駄目だと言っている日本仏教は古代の教義をありがたがっているだけで、進歩がない古代の教義になっているようにしか見えませんわ。
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釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は釈迦の神通力を目の当たりにして改宗した。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いていたため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。
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インド哲学(インドてつがく、darśana、ダルシャナ)は、哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。しかし、伝統的に宗教的な人々は哲学的な議論をしてその宗教性を磨いている伝統がある。
古来の伝統と思われる宗教会議が現在も各地で頻繁に行われている様子で、会議では時には宗派を別にする著名な人々が宗教的な議論を行う。これは数万人の観衆を前にして行われることもあり、白熱した議論が数日にかけて、勝敗が明らかになるまで行われることもある。この場合、判定をする人物がいるわけではなく、議論をする当人が議論の成行きをみて、自らの負けを認める形を取るようである。
インドの宗教、哲学はこのような伝統の中で磨かれたものと思われる。ジャイナ教、仏教、ヨーガ学派、シヴァ派、ヴェーダーンタ学派といった学派は現在まで生き残ったが、アジャナ派、順世派、アージーヴィカ教などの学派は生き残らなかった。
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無所有処(むしょうしょ, ākiñcañña-āyatanaṃ)は、無色界の(下から数えて)第3天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。九次第定のひとつ。
空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。何も存在しないと観察し達観する事。
聖求経では、釈迦が師匠のアーラーラ・カーラーマより無所有処の教えを聞いたと記されている。
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シッダールタは王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家した。ラーフラが産まれて間もない頃、深夜にシッダールタは王城を抜け出した。当時の大国であったマガダ国のラージャグリハを訪れ、ビンビサーラ王に出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った。また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。シッダールタは、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。この三人の師はシッダールタの優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、シッダールタはこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った。
Wikipedia参照
釈迦の悟りは、ヨーガの悟りを越えた違う悟りになりました。
教えてあげないよ(笑)
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若い頃、チベット仏教の本を読んでいたら
瞑想していると、頭から甘露が湧き出てきて全身に流れて極楽に行った状態になるとか書いてあり、脳内麻薬だなと思いました。
仏教や密教は、ただの観想や妄想だけではなく、実際におこる現象だなとわかりましたよ。