インド仏教とウパニシャッド哲学
日本仏教は、インド仏教やインド哲学を知らないようにみえます。
釈迦は苦悩の原因は無明の無知だと言っています。
智慧も言っています。
気付くには、知識や体験が必要になるのではないでしょうか?
それがないと問題の悩みがいつまでも解決しないでずっと悩みどうしではありませんか?
解決したら悩みが無くなり楽になりませんか?
問題の悩みが解決しない、関係ない雑念や煩悩を無くせや捨てよの修行ではないのではないでしょうか?
釈迦もこんなに説法
比丘たちよ、色(Rūpa)は無我である。もし色が我であるならば、色は病気にかかることはなく、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることができるはずである。
しかし比丘たちよ、色は我ではないため、色は病気にかかり、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることはできない。…
(受、想、サンカーラ、識について同様に説く…)
釈迦の時代は、ヴェーダ神話バラモン教から、ウパニシャッド哲学が出てきて哲学学者がたくさんでてきました。
釈迦も哲学者
アーユルベーダ医学にもウパニシャッド哲学が入っています。
インド哲学や宗教の目的は、輪廻の解脱と現世の苦を無くすこと
釈迦の哲学は、釈迦が考えたことではありません。
ウパニシャッド哲学を説明しているだけ
釈迦として、アートマンは不変だとのウパニシャッド哲学を、釈迦は不変ではないと説きました。
釈迦は
修行して、天界にいってもその幸せは、何千年かしたら幸せもつきて一切皆苦の現世に輪廻してくる。
釈迦は、輪廻しない涅槃の修行法を考えました。
輪廻するのは、意識の自我
釈迦の教えを読んでいくと、執着や欲や煩悩の自我が輪廻するのだと思いました。
それを無くすのは、仕事をしたり、家族をもったりの社会生活していたら、大変難しい
釈迦仏教は、出家しないとできない教えです。
釈迦の仏教だと言っている、タイなどの僧侶は、大乗仏教のような大衆との繋がりを持ちませんよね。
釈迦が滅したあと、釈迦の修行の上座部と、改革派の大衆部に別れ
また、大乗仏教もできました。
大乗仏教は、般若の智慧と大衆の慈悲が目的です。
日本の大乗仏教は、宗祖が考えた、目的や解釈で教学や修行法が違ってきたようです。
僧侶用の教学や修行と大衆用の教学や修行も作りましたね。
仏教を一つだなんて考えていたら、理解できないのではないのでしょうか?
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私は、調べてコメントしていますから
調べればちゃんと書いてあります。
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なぜ修行には出家が必要だったのか
ところで釈迦は、なぜ、わざわざ家族や地位を捨てて出家する必要があったのでしょうか。それは、一般的な生活を続けていては、自分の都合から逃れることはできないと考えたからです。
仕事を続けながら修行をしようとすると、どうしても社会の競争原理に巻き込まれて、ときには他者を出し抜いたり、噓をつかなければならない場面が出てきます。また家族がいると、家族を守るために暴力を使う可能性もあり、家族のための収入や財産が必要となり、おのずと自分の都合が増強することとなるわけです。それらを避けるために、出家というライフスタイルを選択するのです。
釈迦は
バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。
このような仏教の出家者と在家仏教者との相違に対して、やがて「出家者も在家者も、共に同じ仏道を歩む」という仏教思想が発達し始めます。また、「出家者は社会性や他者性が乏しい」「仏教は本来、智慧と慈悲の道であり、もっと慈悲の実践に取り組むべきである」などといった立場も展開します。その中から生まれたのが大乗仏教と呼ばれるムーブメントです。