【第二回】オーストリアとの戦い「イタリア戦役」 [歴史発想源/大望の凱歌・英雄戴冠篇]
現在『ビジネス発想源 Special』の「歴史発想源」では、18世紀のヨーロッパを舞台とする「不屈の翼成・中欧聖戦篇」を連載中です。
そこで、この「トップリーダーズ」では、その次の世代の話となる「大望の凱歌・英雄戴冠篇 〜ナポレオンの章〜」の前半部分を期間限定で掲載いたします。
「中欧聖戦篇」を理解する上で、「英雄戴冠篇」を一緒に読めば、複雑な近世ヨーロッパ史がより分かりやすくなるでしょう。
現代の会社経営やマーケティング戦略のヒントが一つでも見つかると嬉しいです。それでは「英雄戴冠篇」、第2回をどうぞ!
【第二回】オーストリアとの戦い「イタリア戦役」
■首都パリの暴動をすぐに鎮めろ
フランス革命によってブルボン王朝が滅亡して革命政府による政治が始まったものの、フランス経済はさらに混迷を極めて市民は困窮し、王制を支持する王党派による反乱が起こりました。
「ヴァンデミエールのクーデター」です。
1795年10月5日、次に行われる選挙を阻止しようと、国民公会が開かれるテュイルリー宮殿を、王党派を中心とする25,000人の暴徒が襲撃したのです。
その時には軍隊のほとんどが各国からの防衛に回されており、テュイルリー宮殿の守備に充てることができるパリに置かれた政府軍はわずか5,000人で、突破されてしまうのは時間の問題です。
そのため、ポール・バラスという貴族出身の政治家が国内最高司令官に任命され鎮圧を任されますが、戦いについてはあまりよく分かっていないため、戦術について詳しい優秀な側近を必要としました。
そこで、南仏で「トゥーロンの英雄」の名を轟かせ、ちょうど現在失職中だったナポレオン・ボナパルトを副官として首都パリへと呼び寄せたのでした。
バラス総司令官や司令部の幹部たちは、
「今、25,000もの民衆が宮殿前を埋め尽くし、我々は騎兵を足しても5,000人足らずしかいない。彼らを鎮めるには騎兵をどのように集めてきて どのようにその騎兵で歩兵を倒すかにかかっている。砲術学が専攻のキミには専門外の戦いかもしれないが、どうかトゥーロンの英雄の知恵を貸してもらえないか」
と、26歳のナポレオンに進言を求めます。
ところがナポレオンは、瞬間的に反論しました。
「何をおっしゃっているのです!
この反乱鎮圧の第一義は、反乱軍の殲滅ではありません。同じフランス人同士が戦えば、双方が疲弊し、混乱に乗じて周辺諸国が攻め込んでくるのは必定。だから、短時間で収束することに意味があるのはありませんか。
市街地だから大砲は使えず騎兵の数で勝負が決まる、と思い込んでいるあなた方の戦術の考え方は古い。このナポレオンに全権をお任せいただければ、今日中に鎮圧してみせましょう」
従来の戦争は騎兵戦術が最も上位に思われていて、歩兵戦術を押さえるには騎兵戦術だと考えられ、大砲は広い場所での会戦で騎兵戦術をサポートする備品、というぐらいにしか認識されていませんでした。
そのため、中央軍では騎兵の数ばかりが注目されていて、大砲を建物が密集する市街地で使うという発想がなく、パリには1台も大砲が用意されていませんでした。
そこでナポレオンは、すぐにパリ郊外の各部隊から大砲を40台確保してパリに引っ張ってくるように、騎兵部隊の士官たちに命じました。
しかし、軍の中では最高の軍隊である騎兵部隊がどうしてわざわざそんな輸送屋みたいな下っ端の仕事をやらなくてはいけないのか、歩兵部隊にやらせろよ、と士官たちはプライドが許さず動こうとしません。
そんな中、ナポレオンの戦略の意図を読み取って40台の大砲をそろえる任務に進み出たのが、28歳でナポレオンとさほど年齢が変わらない若手騎兵指揮官、ジョアシャン・ミュラでした。
今目指しているのは一刻も早い動乱の収束であり、それに最も必要なものは騎兵ではなく大砲だというなら、スピード力のある騎兵が今一番必要とされる力は、最も早く大砲を集めてくるスピードにある、とミュラはすぐに理解したのです。
ミュラは暴徒に囲まれた市街地を騎兵で駆け抜け、あっという間に方々から40台の大砲を集めてきました。
ミュラの機転を大絶賛したナポレオンはすぐに、その40台の大砲を理に沿って市街地の各地に配備します。
数に任せてテュイルリー宮殿に押し寄せた暴徒は、市内のあちこちに現れた大砲に驚きます。
まさか街中で大砲を撃つことはないだろうと思い込み、なんのためにそこまで大砲が集められたのかがよく分かっておらず、気味が悪いと怯えるのです。
そして民衆たちが怯んでいる時に、40門の大砲は一気に火を放ちました。
パリの市街地の中で立て続けに砲撃が遂行され、爆音がけたたましく鳴り響きます。
その時にナポレオンが用いた砲弾はぶどう弾、つまり散弾でした。
散弾銃は発射するとあちこちに飛び散るために大量の殺傷能力があるとして後の世界大戦ではかなり使われましたが、当時としては「どこに散るか分からないので的を絞りにくい」「射程距離が短い」などの理由で 敬遠されている武器でした。
しかし、ナポレオンがそれを投入することで、1発撃つだけで広範囲にわたっていろんな箇所が爆発したので、聞こえる大砲の音の数よりも明らかに多い爆発を見た民衆たちは震え上がります。
「政府軍はこちらの数に全くひるんでないぞ!」
「政府軍は本気で大砲を至近距離から撃ってくるぞ!」
と恐れた民衆は、あっという間にワラワラと散っていき、反乱はわずか2時間で鎮圧されてしまいました。
ナポレオンは大砲を殺傷能力だけではなくて、威嚇の道具として使えることを熟知しており、40門の大砲をどこに配置すれば敵の誰の目にも見え、またどの大砲がどの位置を狙えば一番効果的に敵が怯んで逃げてくれるのか、ということも緻密に計算していました。
市街地戦に大砲は出てこないという常識を打ち破り、ナポレオンは効果的に大砲を活用したのです
このナポレオンのわずかな時間の砲撃戦術で、反乱軍はあっという間に黙ってしまったのでした。
このナポレオンの電光石火の反乱鎮圧によって、パリの街はひとまずの静寂を取り戻し、内紛を期待する周辺諸国に付け入る隙を与えませんでした。
10月20日に予定通りに国民公会で選挙が行われ、総裁政府という新たな政府が作られることになりました。
その際に国民公会は、素早い反乱鎮圧という多大なる功績によってナポレオンを国内軍の最高司令官に任命しました。
こうしてナポレオンは26歳にして、フランス国内の治安を担う最高責任者になったのです。
【教訓1】できる限り短時間で最大の効果を狙う。
■北イタリア戦線でその戦略を見せつける
26歳で警視総監になったようなものである栄達の青年ナポレオンは、反乱後の貴族社交界において女性たちにモテモテでした。
そんな中、ナポレオンは一人の女性に夢中になります。
それは、ジョゼフィーヌという32歳の未亡人で、夫の子爵をフランス革命で処刑された後に、一男一女の母として混乱期を生き抜いてきた、魔性の美貌を持つ「社交界の華」でした。
この時、ナポレオンの上官であったバラスの愛人となって二人の子を育てていた身だったのですが、ナポレオンは6歳年上のジョゼフィーヌにぞっこんで、バラスもナポレオンを手なづける意味で結婚を勧めました。
1796年、ナポレオンとジョゼフィーヌの二人は、パリで結婚式を挙げることになりました。
ところが、その結婚のわずか2日後…。
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