【第一回】枯れた大地に水路を「南一郎平」 [歴史発想源/富国の潤流・疏水殖産篇 〜南一郎平の章〜]
歴史上の偉業から経営やマーケティングのヒントを探る、ビジネスコンテンツ「読書発想源」。
今月よりamazonのkindleストアにて、「富国の潤流・疏水殖産篇 〜南一郎平の章〜」の電子書籍版の取り扱いが始まりました!
・kindle版『歴史発想源/富国の潤流・疏水殖産篇 〜南一郎平の章〜』
幕末まで全く水がなく農業ができなかった大分県宇佐市の駅館川右岸の台地に、情熱と執念で100年来の工事を完成させた庄屋、南一郎平。
その疏水モデルを買われて明治維新後の内務省に招聘され、安積疏水・琵琶湖疏水・那須疏水の日本三大疏水をはじめとする全国各地の水利事業に大きく関わり、殖産興業の隆盛に貢献しました。
内閣総理大臣・松方正義からも「隠れたる実業界の偉人」と評され、その偉業が見直されている現在では、地元でもNHK朝の連続テレビ小説の主人公として誘致する動きが官民で起こっているほどです。
その「歴史発想源/疏水殖産篇」のショートムービーもでき、YouTubeにアップされたので、ぜひご覧ください。感想などもいただけると嬉しいです。
今回、この「歴史発想源/疏水殖産篇」の電子書籍化を記念しまして、「疏水殖産篇」の序盤部分(全8話中1〜3話)を、期間限定で掲載いたします。
幕末から明治にかけての日本を、政治ではなく農業の点から見ると、またかなり違って見えるでしょう。
現代の会社経営やマーケティング戦略のヒントが1つでも見つかると嬉しいです。
それでは「疏水殖産篇」、第1回をどうぞ!
【第一回】 枯れた大地に水路を「南一郎平」
■水利のインフラが使えない地域の人々
「疏水」と書いて、「そすい」と読みます。
疏水とは田畑に水を流したり、船で荷物を運搬したり、水流を使って発電をしたりと、産業に用いるために土地を切り開いて人工的に通水させた水路や運河のことを指します。
疏水は日本の人々の生活には欠かせないものとなっており、日本国内だけでも疏水の総延長は40万kmを超えるそうです。
今回は、そんな全国各地の疏水の開発に挑み産業発展に大きく貢献した「水のスペシャリスト」が主人公です。
そして今回のお話の舞台は、その人物の生まれ故郷である九州の大分県から始まります。
現在の大分県の大部分は、かつては豊後国(ぶんごのくに)という国でした。
しかし、大分県北部にある宇佐市や中津市は豊後国ではなく、福岡県東部と同じ豊前国(ぶぜんのくに)です。
その豊前国の南東部にあたる大分県宇佐市は、江戸時代にはその統治区分が非常にややこしいことになっていました。
関ヶ原の戦いの直後の九州には、福岡の黒田藩、佐賀の鍋島藩、熊本の細川藩、鹿児島の島津藩と、外様の雄藩がひしめき合っていました。
そこで江戸幕府は、そんな江戸から遠い九州に睨みを利かせるために、西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)と呼ばれる代官を幕府から派遣していました。
その郡代が赴任する代官所は、九州のおへそのような位置にあり九州各地へすぐ手が回せる、豊後国日田(大分県日田市)の「日田陣屋」に置かれます。
この西国筋郡代が直接治める江戸幕府の直轄領、いわゆる天領(てんりょう)として、日田やその周辺の約16万石が割り当てられました。
そして現在の宇佐市の面積のうち、この天領にあたる地域が約4分の1を占めていました。
あとは4分の2が、お隣りの大分県中津市にあった中津藩の持つ所領。
そして残る4分の1は、なぜか長崎県の島原半島にあった島原藩の飛び地の所領です。
また、宇佐市には全国の八幡宮の総本社である宇佐神宮(うさじんぐう)があるのですが、1村だけはその宇佐神宮が独自に所領としていました。
そのように現在の宇佐市域は江戸時代、江戸幕府・中津藩・島原藩・宇佐神宮と、異なる支配者が複雑に入り組んでいる場所だったのです。
さて、宇佐市には駅館川(やっかんがわ)という名の川が流れています。
南の由布岳などの内陸に源を発し、北の周防灘に注ぐ川です。
この駅館川の河口付近に広がる宇佐平野は、大分県でも最大の穀倉地帯です。
麦の生産においては九州屈指の生産高を誇る平地であり、宇佐市の三和酒類の「いいちこ」や隣町の日出町の二階堂酒造の「むぎ焼酎二階堂」など、周囲地域で麦焼酎のブランドが数多く生まれていることからもよく分かります。
江戸時代後期には、西国筋郡代となっていた塩谷大四郎(しおのや だいしろう)が領民たちの暮らしをよく思いやる人徳者であり、天領の開墾事業を次々に進めました。
その天領の一部であった宇佐平野も例に漏れず、新田開発事業が進められて、穀類の生産量を増やしていったのです。
しかし、この肥沃な大地を作ってくれるこの駅館川の流域には、その水の恩恵を受けられない地域もありました。
それは、駅館川の上流の右岸にあたる地域です。
駅館川上流の流域は、左岸である西側は平野が広がり稲作も進んでいたのですが、右岸である東側には20m以上も高い斜面があり、その上の台地には全く水が通りませんでした。
雨が降っても水が低い駅館川に流れていってしまい、なんとかため池に溜め込んだ雨水だけが頼りで、ちょっとでも日照りが続くとそれもすぐに干上がってしまいます。
だから稲作などは絶対に無理で、大豆や穀物などの雑穀類を細々と作って暮らししかない、とても貧しい地域だったのです。
水は、農業にも生活にも欠かせないものです。
しかし、その水をほとんど得られなかったこの台地では、人々は一生のうちで一度も米を食べたことがないというほど、困窮した生き方を長年にわたり余儀なくされていたのです。
では、なぜ駅館川という良い川がすぐ下にあるのに水路などのインフラが作られてこなかったのか。
それは、複雑な地形で治水工事が難しかったから、というのも大きな理由ですが、それよりも一番の理由は、先述した複雑な支配系統にありました。
このエリアの多くは、島原藩の飛び地です。
島原藩の本庁は島原半島の島原城にありますが、「島原の乱」の経験から来る民衆の監視の強化、さらには近くにある長崎の出島がますます国際化を強めていくことによって、島原藩の意識は本国や出島に向いていました。
なので、遠い場所にある飛び地のことまで構っている余裕があまりなく、島原藩が人々のための水路をこの地に作ってくれることはありませんでした。
島原藩が「自分たちでなんとか頑張って」と相手にしてくれない上に、民衆たちがいざ力を合わせて水路を作ろうとしても、駅館川の水利の利権がとても複雑すぎました。
駅館川の流域には島原藩だけではなく、天領、中津藩、宇佐神宮など多くの支配地が絡むので、上流や下流へと水路を続けようとすると、その各藩への手続きがやたら難しいのです。
それに加えて、硬すぎる岩盤が多く難工事になるとあって、資金調達もかなり難しく、なかなか工事に着手することができなかったのです。
それでも、地元の人たちは力を合わせてなんとか水路の確保のための工事に取り組み、宇佐神宮のあるあたりまでは完成するも、そこから南の岩盤地帯を切り崩すことができません。
そこには百重岩(ひゃくじゅういわ)と呼ばれる、とてつもなく固い岩盤が待ち構えており、何度挑戦してもこの百重岩を水を通すことができないのです。
そのため泣く泣く途中で断念するしかなく、工事は何十年も放置されました。
こうして駅館川右岸の台地の人たちは、いつまでも生活の苦しみから抜け出すことができませんでした。
江戸時代後期になって、技術も革新して全国で開発ブームが起こります。
そんな頃に塩谷大四郎が西国筋郡代となったことで、窮乏するこの地域の水利も見直されることになり、再び灌漑工事のチャンスが巡ってきたのです。
【教訓1】複数の管理者がいると、管理が複雑になる。
■広瀬井手の完成を夢見た父・南宗保
文政11年(1828)年、西国筋郡代の塩谷大四郎は台地の窮状を見て、「これは幕府の援助がなくては無理な工事だ」と考え、自らこの工事のプロデュースに乗り出します。
まず塩谷大四郎は幕府に掛け合って、工事資金の公金援助を取り付けます。
そして、宇佐平野の開拓などを次々に成功させていた、日田の広瀬久兵衛(ひろせ きゅうべえ)という人物にその水路工事の総合監督を依頼するのです。
広瀬久兵衛は、天領日田の商人でした。
彼には兄が一人いたのですが、本来は店を継ぐべきその長男は無類の聡明さながら、幼少の頃から病弱であり、眼の病も患っていたため、次男である広瀬久兵衛が店を継ぎました。
病弱な兄は、得意の学問を生かして日田に私塾を開きます。
この兄は広瀬淡窓(ひろせ たんそう)という名で、その私塾は咸宜園(かんぎえん)として有名になり、蘭学医として有名な高野長英、倒幕に大きく貢献した大村益次郎、日本最初の写真家として知られる上野彦馬など、数多くの偉人を輩出していきました。
一方、次弟の広瀬久兵衛は、兄に代わって若くして商家である博多屋を継ぎ、掛屋、つまり今の銀行業としてその才覚を発揮していきます。
地元の日田代官所に出入りするだけでなく、九州諸藩にも御用達の道を切り開いていき、天領日田屈指の豪商へと成り上がっていきました。
その一方で世間への奉仕の心を持っていることを取引のあった西国筋郡代の塩谷大四郎に見出され、宇佐地域で様々な新田開発事業を成功させます。
広瀬久兵衛が和間海岸に作った広大な新田は、その業績を讃えて「久兵衛新田」と名付けられているほどです。
そして西国筋郡代の塩谷大四郎は広瀬久兵衛に、今度は駅館川右岸の台地の水路工事を任せたのです。
幕府からの資金援助があり、しかも周辺地域で数多くの土木工事を成功させている広瀬久兵衛が工事責任者となるとあって、これまで工事の失敗を幾度となく経験してきた台地の領民たちは、大いに奮い立ったのでした。
この地域の人たちは一丸となりますが、その中に、島原藩領の金屋村の庄屋、南宗保(みなみ むねやす)の姿もありました。
「我々も結束して、協力しよう!」
南宗保もついに訪れた水を引くチャンスを目の前にして、金屋村の農民たちを取りまとめて、広瀬久兵衛の難工事に全面協力をしました。
駅館川の右岸を下流から上流まで結ぶ、17kmにも及ぶ長い水路のプロジェクトですが、上流側の取水口が広瀬(宇佐市院内町)という場所になるので、これから開削する水路には「広瀬井手」という名前が付けられました。
この広瀬井手の開発のビッグプロジェクトは、開始から7年経った天保6年(1835年)までは、順調に進んでいました。
現在は国道10号線が通っている地獄谷という地までは比較的緩やかな台地だったので、とりあえずは水路の形を作ることができたのです。
ところが、実際に水を通してみたところ、予想以上に地盤がもろく、せっかく掘った間歩(トンネル)が崩壊してしまい、無残にも掘る前の状態に戻ってしまいました。
掘っても掘ってもうまくいかず、広瀬井手の計画は完全にストップしてしまいます。
最初にこの事業を興した塩谷大四郎も、そのうちに西国筋郡代の任期を終えてしまい、江戸幕府から江戸へと呼び戻されていたのです。
次こそは必ずと気を奮い立たせて協力していた領民たちは、この結果に意気消沈してしまいます。
そして、その怒りはすでにいなくなった塩谷大四郎に向けられ、恩ある塩谷大四郎のことを幕府に訴えたほどでした。
しかし、せっかく着手したこの広瀬井手を完成しなければ、この台地はいつまでたっても貧しいままです。
南宗保は「少しずつでも水路作りを進めておこうよ」と、なんとか領民たちを説得して協力してもらい、お金を必死で工面して工事を細々と続けていきました。
広瀬土手の間歩が崩落して計画が頓挫してしまった、その翌年の天保7年(1836年)。
南宗保に待望の嫡男が産まれました。
50歳になってようやく誕生した我が子は、工事がストップして暗いムードになっているこの村に明るい希望を差してくれる存在になるだろう、と南宗保は感じます。
南宗保をはじめ南家当主が代々名乗ってきた通り名である市郎兵衛(いちろべえ)にあやかって、その子の名は一郎平(いちろべえ)と名付けられました。
そして父・南宗保は難工事をなんとか続けながら、一郎平が人間として正しくたくましく成長してくれるよう、多くの古典書などを与えて勉強をさせました。
少年・南一郎平は『論語』や『大学』などを熟読し、人間にとって大事なことはなんなのかということを幼い頃からひたすら学び取っていったのです。
嘉永5年(1852年)、16歳になった南一郎平に婚姻話が舞い込みます。
金屋村と同じく島原藩領であった近隣の佐田村(大分県安心院町)の庄屋・賀来惟熊(かく これたけ)の長女である賀来静子(しずこ)と結婚をしました。
賀来惟熊は広瀬淡窓と並ぶ豊後国の賢人、日出藩(ひじ藩)の儒学者・帆足万里(ほあし ばんり)に学んだ多才な男であり、日本には海防の強化が緊急に必要だと考えていました。
そのため、島原藩から許可をもらって佐田神社の境内に反射炉を作って、日本の民間で初の砲台を鋳造した人物です。
賀来惟熊が反射炉を作ったのは、後に倒幕の旗手となる薩摩藩が反射炉を初めて完成させる2年も前のことですから、かなりの先見の明の持ち主だったと言えます。
賀来惟熊をはじめ佐田村の賀来氏には多才な人物が多く、従兄弟には島原藩の藩医となった賀来佐之(すけゆき)、本草学の大家となった賀来飛霞(ひか)などがおり、ちなみにその末裔には女優の賀来千賀子や俳優の賀来賢人などもいます。
地域のために働く一郎平の父・南宗保、同じく国のために全力を尽くしていた賀来惟熊は共に心を通じて親交を深めており、それが一郎平と静子の結婚へと結びついたのです。
南宗保は、広瀬井手の工事を執念で継続していましたが、何年経っても工事は失敗していきました。
そして安政3年(1858年)7月15日。
広瀬土手の完成の夢に生涯を賭けた南宗保は、その夢も果たせないまま臨終を迎えます。
南宗保は死の間際に、様々な学問を教え込んだ20歳になった長男・南一郎平を枕元に呼びます。
ここから先は
マーケティング発想源 〜経営と商売のヒント〜
日本一のメルマガを決める「まぐまぐ大賞」にて5年連続でビジネス部門第1位を獲得した経営者向けビジネスメディア『ビジネス発想源』シリーズに、…
noteマガジン『マーケティング発想源』では、皆さんのお仕事やご商売に活きる有用で有益な発想源を多数お届けしています。新事業や新企画のアイデアの発想源がいろんな視点から次々と。応援よろしくお願いいたします!