見出し画像

「等身大の自分」がよくわからん

「ありのままの自分でいよう」とか「等身大の自分で」とか言われることがあると思うんですけど、はっきりいって「よくわからん」のです。


何が一体「等身大の自分」なのか。


鏡に写った自分の姿が「等身大」の自分。まぁ物理的にはそうでしょうけど、この言葉のニュアンスで語られる「等身大」と言うのは、どうも鏡に写った自分のことを言っているのではなさそうです。


鏡に写っていない「何か」までもを表している。


言葉の裏にあるモノはどうも「それ」を指しているような気がして。でもわたしにはその「等身大」がよくわからない。


みんな「自分の等身大」がわかっているんだろうか?もしかしたら、わからないのは自分だけで、皆「等身大の自分がわかって生活しているんだろうか?


わからない自分に焦りを感じたり、感じなかったり。


実際どうなんでしょうね。


類似の言葉だと思うんですけど「ありのままで」って言うのが、こちらもよくわからない言葉です。


等身大。


ありのまま。


社会的に見せている「わたし」はひょっとしたら等身大じゃないのかもしれない。よく、「あなたは、こういうこと言う人じゃないと思ってた」とか「あなたがこんなことするはずないと思っていた」とか、聞くことはありませんか。


なんか、周りの人たちが、わたしのことを「買い被っている」んじゃなかろうかと思うのです。それは「等身大のわたし」とは違うし。


まぁ、等身大のわたしと違う「わたし」を長年やってきたからこそ、社会性があると見做されて、社会的な生活をおくれてきたのだとすると、「等身大ではないわたし」を見せずにここまできたのが、よかったのかもしれませんね。


だけどどうなんでしょう。


それでいいのか。


等身大で生きることが至上命題であるのなら、ある意味、わたしは社会的に抹殺されてしまうかもしれません(別に、何か犯罪を犯したとか、そういうのはないので悪しからず)。


そう考えると「わたし」というのは、わたしの意思に関係なく、社会の意思の中での「わたし」を演じ続けているってことなんですかね。


まぁ、それで豊かな暮らしができる、ストレスのない世の中で生きて行けるのなら、それでいいのかもしれませんが、どうなんでしょうね。それでいいのか。


これを書いている自分自身も等身大なのか、よくわかりません。

そうであるような気もするし、違う気もする。


あまり深く考えず、好きなことをやって、好きな料理に舌鼓を打ち、好きなお酒を嗜んで、さっさと寝たほうが、余計なこと考えなくて済むかもしれません。


そうだ、そうしよう。


それでは、また。


いいなと思ったら応援しよう!

よわむしめがね🔎
よろしければサポートをお願いします。次の記事の執筆の励みになります!

この記事が参加している募集