「手に触れるモノ」が「必要なモノ」
手に触れるモノが必要なモノである。
なんか哲学的な問いかけですけど、でもそんなモノです。
逆に「手に触れないモノ」って、必要なモノでしょうか?
大事なモノだから、触れない、触れたくない。
時々、そういう風に扱うモノもあります。
だけどこれって、それでいいんでしょうか。
モノというのは「使うためにある」と思います。
それに矛盾してませんか。
大事にしているからこそ、使いたい。
大事なコトに必要だから、使わざるを得ない。
本来なら、必要なモノは、そういうモノ。
つまり、手に触れるモノが必要なモノのはずです。
手に触れもしないモノ、果たして必要なモノでしょうか?
使いもしないモノ、結局在庫と化し、忘れてませんか?
俗にいう「お宝」と呼ばれるもの。
手に取るコトなく数年、数十年放置して来たモノです。
発掘することで脚光を浴びることもあるでしょう。
時には信じられない値がつくこともあります。
でもですね。
そんなものは、本当に一握り。
狙ってお宝になるものでもないですよね。
そもそも存在を忘れていたじゃないですか。
それが果たして「大事なモノ」と言えるでしょうか?
基本に立ち返ると「使ってなんぼ」のはずです。
そうしなかったモノが今更本当に必要なのですか?
モノ自体必要ではなくて、その価値が必要なだけじゃないでしょうか。
つまり「お金が欲しい」そういうことです。
「いつか価値が出るから」そう言ってキープしておく。
その日はいつか来るのでしょうか?
狙って所有してたものに限って、それほど価値が出ない場合が多いです。
実家には「価値が出るから」と言って買ったものがいくつもあります。
両親はそれらのモノ、きちんと管理したり処分したりしてるでしょうか。
どうも、そうではなさそうです。
つまり「買うときに、最もらしい理由をつけていただけ」の可能性があります。
本当に価値が出たかどうか、わからない。
まぁ、寝かせている時間が、まだ短いのかもしれませんけどね。
わたしはそういうモノには興味がありません。
だから、自分の信じる道を進むだけです。
置いておくよりは、積極的に使っていく方が好きです。
結局長く残っているのは「ずーっと使い続けているモノ」です。
使わないで長くとってあるものは、何もない。
でも、それでいいんです。
後世に残して何になるんでしょうか。
わたしがこの世にいなくなってからの世界に興味はありません。
残された人たちが「よろしく」やってくれればそれでいい。
だったら、使わないモノを増やしたくはない。
いつも使っているモノだけで十分だと思います。
それでは、また。