どれだけ過去へのこだわりを捨てられるかで決まる
モノを手放せるかどうかは、「どれだけ過去へのこだわりを捨てられるかで決まる」と言ったら、言い過ぎでしょうか。いや、そんなことはないと思います。結構、この言葉、あるあるだし、そして重要だと思うんですよね。
モノを手放せられない、捨てられないというのは往々にして、そのモノとわたし達とが築いてきた「過去」に縛られている場合が多いと考えます。
もっというと「こだわり」があるから、こだわりを捨てられないから、モノも捨てられないし、手放せないということです。
モノと歩んできた過去、愛着があるモノ。あのときの頑張りを象徴するモノ。趣味のモノ。誰かとの思い出のモノ。多かれ少なかれ、どれも「こだわり」があったから、手放すのには忍びなく、迷った挙句、やっぱり手元に残しておく選択をしがちです。
迷うことは悪くないんですけど、迷った挙句に「残しておく」のが大半だとしたら、モノは減りませんよね。
そうなんです。
わたし達は過去に起こった出来事をモノに転嫁して、それを大事にしすぎる気がするんですよね。モノを一つのリモコン、起動装置にして、過去の思い出や、よかった頃を思い出すのに使っている。
モノを媒介にして、記憶を呼び出すと言ったらいいでしょうか。
それがあれば、いつでも「あのころに戻れる」そんな気がして。それ自体は悪いことではないのですが、モノに頼って記憶を呼び覚ます行為ばかりだと、モノがないと何も思い出せない、そう陥りがちです。
アルバムは記憶を思い起こすための装置かもしれません。アルバムに関しては以前にも記事にしたことがあります。
ただ記憶を開くスイッチをたくさん持っていても仕方ないし、これからもまだまだ生きてゆかねばならないのだとしたら、スイッチをたくさん抱えて生きていくには少し荷が重いです。
どこかで取捨選択しないと、潰れてしまいますよね。
だから、過去、こだわり、全部手放して、捨てられたら、そこからまた新たな発見や体験が生まれる。
モノとしてスイッチを持たずとも、心の中に「スイッチ」を持てれば、それでいいじゃないか。と思うんです。
まぁでも、モノを持たずに記憶だけで、なんとかしようとするのは、なかなか難しいし、記憶は薄れてしまいがちなので、ここの折り合いをどうつけるかが、重要です。
一つの選択肢としては「デジタル化する」というのがあります。何でもかんでも電子データにできるものは、そうする。デジタル写真にして撮っておくというのもアリです。
本当は、心のメモリー(表現が古い?)に焼き付けておくのが、最も身軽で、最も手間がかからないんですけどね。
今手元にあるモノ、これも「こだわり」が生んだ一品かもしれませんよね。こだわって厳選するのも良いと思いますが、こだわりが多過ぎて、こだわりが大き過ぎて、家の中をこだわりが席巻していたら、モノが増え過ぎてしまうかも。
こだわることが悪いことではないですが、そのこだわり「過去」のものになっていないかを、今一度チェックしてみませんか。過去がモノを増やしているのだとしたら、そしてそれが「今」を脅かしているなら、考える必要がありそうです。
こだわるなら「今」に拘りたいですよね。
それでは、また。