言葉のはなしをしよう
「育てにくい子ども」?ー親も「しんどい」
「育てにくい子ども」という言葉を使う人がいる。
「ある性質を有する子どもを前にした時に、その性質を扱いにくいものとして親が感じてしまうこと」といったニュアンスであろうか。
「育てにくい子ども」という言葉の検討
私はこの言葉に批判的である、なぜか。
(今回は省略させていただくが、もちろんこの言葉には良い側面がある。
ぜひ何の思い入れもない方にこそ、良い側面に思いを馳せていただきたい。)
①私自身のトラウマの問題
私自身が被虐経験を持つことから、この言葉を前にした時に「私は育てにくい子どもだったのか。私のせいだ。」との考えが過り、言葉に対する感度が跳ね上がる。
②否定的なメッセージ性
「育てにくい」という言葉は、子どもに「お前には欠陥がある」というメッセージを送る。一見柔らかな言葉ではあるが、ヴェールに包まれた臓物のような、穏やかで美しいグロテスキズム(造語らしいが、字面が好きなので使っている)を感じる。
③親の立場への過剰な理解
「育てにくい」の主体は親である。「育てやすい、育てにくい」は絶対的な基準ではなく、親の状況に依存する、相対的な条件である。
この言葉は親の状況に依存する条件を、子どもに帰結させている。
④社会的な偏見、レッテル貼りに繋がる
言葉の本意がどうであれ、世の中を掛けめぐるのは「単語」である。
その言葉が導き出された「文脈」は読まれないことがまあ多い。
言葉が作り出された背景などに興味がない人はたくさんいる。
「この子は育てにくい子どもなんだ。」「お前、育てにくいやつなんだ。」とレッテルを貼られていく、子どもの気持ちはどうであろうか。
某書には困難を抱える親の状況として、以下の4条件が並べられている。
1:孤立
2:日々のストレス
3:親にとって育てにくい子ども
4:親の生育歴・自信のなさ
3:「育てにくさ」素因として、性別、体格や顔貌などの容姿、発達的特徴が挙げられている。序盤では、親の苦境、心理的葛藤、その境遇の悲惨さなど、一貫して親の状況に寄り添った論が展開されている。
さて、中盤で展開される子ども視点での論に目を向けよう。
エピソードを示しつつ、「子どもは親に愛されたくて、でも怖くてドキドキしたり、そばにいて欲しかったり、愛情を示して欲しいものだ」との解説がなされていた。ここには親を恨み、自立・独立を望んでいる子どもは登場せず、いたいけで、自分の気持ちを表現できない、発達過程にあるものとしての子どもが強調され、描かれていた。「親が突然私の頭を叩いた。何をするんだ、子供を叩いて良いわけがない!」という子どもは不在である。本書は2022年に記された。
本意が伝わりにくくなるので、強力な言葉に逃げないようにしているのだが、これは論文ではないし、私は20代の「若造」である。おまけに「当事者」というチートカードを持っている。この立場を利用しない手はない。さて、これらを踏まえると「育てにくい子ども」なんて言葉はクソ喰らえだ。この言葉は半径500mくらいの領域を破壊できそうなので、前後の文脈を読み取っていただけないのではないだろうか、と少し心配になる。
思ってしまうことが悪い?
でも、未来の私も、これを読むかもしれない育児中の保護者も、子どもに関わる全ての人も
「この子は手がかかるなあ、しんどいなあ」
「扱い方がわからないな」
「泣かなかったらいいのになあ、イライラする、この子のせいだ」
「思わず叩きたくなってしまう」
「私/俺だって辛いのに」
と思っていいのである。
湧いてくる感情を否定すればするほど、あなたは追い詰められてしまう。
私がしたり顔で「育てにくい子ども」の言葉狩りをしても、あなたの苦しみは無かったことにならない。
ともすれば、「毒親」という言葉も「育てにくい子ども」と変わりがないであろう。私は、自身の体験から「毒(である)親は居る」と思うが、私の論を適応すれば「毒親」なんて言葉もクソ喰らえ、と言うことになる。
私の経験は所詮n=1である。nを増やせば、「親もしんどくて、親側にもそうなってしまう事情・環境があり、結果的に「毒」になってしまう」ケースの方が一般的である可能性はある。
実際に、「毒親」概念の提唱者であるSusan Forward(1938-2020)が使ったのは「toxic parents」という言葉であり、それは日本語で「毒になる親」と表現された。なかなかにときめく訳だ。
「毒を持った親」「毒親」ではなく「毒になる親」と訳されたのである。
この3文字の意味するところは、『任意の変数が必ず同じ結果をもたらすわけではない。関数が異なれば、変数が同様でもその結果は異なる。』ということだ。つまり、生来的な毒を強調しないどころか、この3文字で「毒を持つ親」への安易なダイブを防ごうとしたのではないか、と感じる。
この言葉は、私が出会ってきた中で1番気高く理想主義で、ただ、現実をひたと見つめている人間の顔をしている。そもそも、Susan Forwardの主張に沿っているのだろうかとも思う。(きっと専門の方が精力を注がれて翻訳してくださったであろうと思うので、私のコレは傲慢な杞憂である。)
Susan自身の主張は齧った程度の門外漢なので、追究は差し控える。
毒になる親、はなんだか長くて言いにくい、省略しよう。若年層によく見られる傾向がこの言葉にも適応されただけのことだ。「毒になる」ことがある親=毒親、という視点を、もしあなたの税関を通過できれば輸入してみてはいかがだろうか。
ただ、申し上げにくいがこの視点は私の関税を通過できないようである。
税関職員が「それ」について詰問し声を荒げているので、「それ」は通過できない。お帰り願うか、通過するか、あるいは一生空港にいるかもしれない。どのような処遇になるかは不明である。
差し当たり、この議論は冷静で中立的なものではなく、私のトラウマティックな体験に沿ったものになっていることが窺える。
某GPTに、代替案を出してもらった。以下の通りである。
独自のペースで成長している子ども
感情が豊かで自己主張が強い子ども
適応に時間がかかる子ども
感受性が高い子ども
自分の考えを持っている子ども
適切なサポートが必要な子ども
これらの案の評価は、皆様にお任せしようと思う。
人に正論を言うのは気持ちがいい
糸の垂らし方
私は子どもを育てたことがない。育児で追い詰められる苦しみも、出産の壮絶さも外出に伴う苦労も、自分の子どもなのに全く理解できなくて悶える感情も、他の子どもと発達の具合が違う我が子を見て焦る気持ちも、夜中ろくに眠れない日々が続き苦痛に苛まれる気持ちも分からない。ネット記事やドキュメンタリーを見て、知った気になることしかできない。
ニュースで3児を殺めた母親がいる、と言うことを目にして、育児はそこまで人を追い詰めるのか、と分かった気にしかなれない。あの母親は外部に何度も助けを求めていた。けれど、「助からなかった」。誰も、「助けられなかった」。苦しさを解消できない社会を情けなく思う。私も、その社会の成員である。教育課程で養われたはずの『生きる力(笑)』も『生かす力』もないじゃないかと思う。
けれど、その苦しさをどうか別の形で表現してはもらえないだろうか。
親であるあなたの苦しみは、「育てにくい子ども」という言葉を使わなければ表現できないだろうか。支援者のあなたは、「育てにくい子ども」というワードを使わなければ、支援対象に寄り添うことができないだろうか。
仮に支援対象が心からそう思っていても、否定はしなくていい。とはいえ、その言葉を共に担ぐことを、本当にしなければならないだろうか。
ましてや、自分からその言葉を蜘蛛の糸として支援対象に垂らさなけばいけないだろうか。自分から糸を紡ぐ必要があるだろうか。
ともすれば、「育てにくい子ども」という糸を垂らしている「お釈迦様」として、愉悦に、全能感に、浸ってはいないだろうか。親は、その魅力的で誘引力のある糸に「ああ、この糸しかない!この神しかない!」と縋るであろう。あなたはその糸をずっと手繰れるのか。最後まで見届け、引き上げることができるのであれば私は何も言わない。
混沌が支配する世界に立っている方々に、「あなたが掴む糸の種類くらい、自分で見極めなさい」とは言えないだろう。流行りの自己責任論、である。
個人的には、支援者/権力者/年長者のメシア的要素が怖いと考えることがある。そして、自身がメシアを崇め奉るフォロワーとなってしまうことも怖い。「メシア」になる快感を、「フォロワー」を突き動かす衝動を、私はよく知っている。
大抵この「怖い」という価値観が刺さる方は、生得的なセンス・知識・その他私には想像できないものでもってメシア的性格を律しておられる。もしくは、メシア的性格が発現しにくい条件を揃えておられる。
ただ、メシア的性格は本来悪いものでは無いのである。「支援に喜びを見出す」「誰かを助けることのできる自分、という自己肯定のあり方」は悪いものではない。むしろ「自分の支援なんて🥲」と思いすぎては、支援者自身も、方々も困ることになる。
その点においては、支援者同士のカーストのようなものも面倒だなと思う。「正義」と「権威」の振るい合いである。
マグダラのマリアが居るように、メシアにも「マグダラのメシア」的な存在が見え隠れするのだと、私は思っている。そもそも、人間が「理性を持った人間ごっこ」を初めてからの歴史は浅い。
話を戻そう。
どの言葉も、届いてほしいゾーンには大抵届かないものだ。
私がトラウマを部屋で「すみっこぐらし」させ、自責的に自己啓発ビジネス・自己啓発系恋愛界隈をのぞいていたように・・・。
しかし、私はトラウマと向き合う文脈に辿り着けた。それは、あなたのインタビュー記事、あなたのXの発言のおかげかもしれない。あなたのYoutubeコンテンツ、生活での何気ないひとこと、あなたの仕事の様子、あなたの作品、あなたの犯した罪、あなたの生活の中での振る舞いのおかげかもしれない。
ありきたりだが「大抵」「普通」「一般的に」は100パーセントを意味しないのである。
綺麗?奇麗?キレイ?
私の主張が綺麗事なのは分かっている。
今この瞬間にも、「じゃあ毒親って言うなよ」と言われれば激昂するであろう。「あの頭が、身が裂けるような思いをしたことがないくせに、」と思う。こういう時の私は顔に「お黙り」という文字を描きがちである。そして、「毒」を受けてきた私を否定された気持ちになる。
私の問題は解決していない。
きっと、「毒親」という言葉に縋らなくても良くなった、問題が解決した時にしか、この言葉を手放せない。ー生手放せないかもしれない、ちょうど薬物のように。「毒」に居てもらわないと、生きていけないかもしれない。
と、言いつつ私は「毒」を早く飼い慣らしてやりたいものだ、と目を細める。と言うこと自体、まだ「トラウマティック」な私だなあと思うので、やけくそでおとなしく全員眠りについていただく。
話を戻すが、「育てにくい子ども」という言葉を使う人も「毒親」を使う人も同じなのだと思う。「育てにくい子ども」は育児で信じられないほど追い詰められた方々の、拠り所なのだと思う。
強烈な一言に縋り、支えにすることで解決に向かわれた方もおられるのだろう。自分が認められた気持ちになり、楽になった方もおられるであろう。
私が言っていることは、安全な世界から見下ろす特権階級の、綺麗事だ。
高尚で、洗練されていて、ビロードような顔をしている。テルマエに浸かりながら、ふうと息を吐いて悦に入っているのである。貴族の後ろには大抵、複数の奴隷が積み上がっている。
だからこそ、問題の渦中におられない方に考えて欲しいと思う。今、苦しみに引き裂かれている人にこのお願いはできない。この綺麗事は、その人を裂き切ってしまう。
「自分は問題の当事者ではない、あの人たちの苦しみに伴走できない」と、ある種別の苦しみを感じる人たちにできることは、こう言ったことのなのだと思う。私のようなトラウマティックな体験がないからこそ、もっと別のものが退路を見出せる場合がある。トラウマに「配慮」し「寄り添い」すぎた発言も、時にはつまらないだろう。「無知の知」は悪ではない。
ただ、ここまで綺麗事を綴ってみたものの、果たしてこれが善いのかは分からない。支援に中立性を求めても、助けに直結するかどうかは別の問題だ。
加害者ー被害者、虐待者ー被虐待者、強者ー弱者。二項対立に異を唱えたとて、それらは存在しつづける。分けなければ、裁判だって進まない、理解だって進まない、保護だってできない。
支援でも、中立で居られなく場面は来るし、そういった選択を取る人を否定したくない。だれかが、「子どもになんてことするの!」と偏りを見せることをしなければ乗り越えらないこともたくさんある。
偏り、は意思でもある。何かを選びとる、意思だ。結婚だって、付き合うことだって、何かを契約することだって、そこに危険は伴うが「選び取る」必要が出てくる。中立に行こうよ!というデーティングのあり方は、昨今の日本では見聞きできない(海外では曖昧さを持ったデーティング多いらしいのでそのあたり興味深いが)、、
なんだかもうよく分からなくなってきた。
終わりに
問題に触れるのは、怖い。私たちの世界は怖いだろう。
悲しみ、怒り、暴力、混乱、恐怖、あらゆる貧しさを纏い、まっくろくろすけになって身を寄せ合ってしまっている私たちは怖いだろう。
でも、わたしたちも怖い。
身を寄せ合っている中に切り込みを入れられるのは、怖い。
でも、ここから出して欲しい。切り込みを希求している一方で、切り込んできたまっしろしろすけのあなたに攻撃をするかもしれない。切り込みが入らなくなった時、それを「罰」なのだ、と思う。もう一生切り込みから光が差すことはないかもしれない。
切り込みを入れる側は、もっと怖い。どこまで切っていいのか、切り開いた先はどんな広さ・深さなのか、切り開くときにその刃がまっくろくろすけたちを傷つけてしまわないか、刃の角度をどうすればよいのか、そもそも切れ込みを入れていいのか。考え出すと、怖くて、押し黙ってその場所をじっっと眺めることしかできなくなる。 もしかしたら、まっくろくろすけに共感しすぎて、自分を壊してしまうかもしれない。切り込みを入れなければ、リスクはかなり抑えられる。
でも、あなたがたのような人が、どれだけ私たちを救うか分かって欲しい。
まっしろしろすけが助けられてもいい、まっくろくろすけが助けてもいい、混じり合って、お互いが健康ならまっしろでもまっくろでも無くなってもいい。
世界なんて、そんなものだ。