20210813 無思考+ハート
昨日にも増して
さらに静けさ みなさん帰省されているのだろうか 雨のせいもあってか、さらに人の気配も減っていて 散歩していても誰ともすれ違わないシチュエーション
#東京 #ディストピア
そんなお盆シーズンだからなのかなんなのか、
昨夜 寝入りで、そんな世界の気配 静けさ に耳を澄ませていると 「あー、これこれ」っていう感覚がやってきて、このかんじ、たぶん、きっともうなにかしらのネーミングはついている気がするけど、なんてネーミングだろ
無思考+ハート
というかんじ。
がんばって無思考であろうとしなくとも、
その状態に浸ってしまうと思考できなくなってしまう。
というのは「 相容れない 」というかんじに近くて「それがあるってことは、これはない」というところからの、、、
そんな無思考と同時に なんとも言えない 心地よさ 安堵感 おだやかさ で それに浸っていると「 思考という歓楽街 」に 引き寄せられようがない。
ちょっと表現どうかともおもうけど バカになってしまう 理性 “自分”であるよりも、その至福感に明け渡されてしまう ”自分”であるより、よっぽど気持ちがいいから 自然とそっちのほうへ 気持ちいいほうへ だから、そこに努力はまったく必要ない。
このかんじは 単なる無思考状態では起きない気がしていて この 心地よさ 至福感 というのは ハート?ハートチャクラ? が絡んでいるのではないかなあとおもったり。それについて アジャシャンティは マインドの目覚め ハートの目覚め ハラの目覚め と表現していたとおもう。
去年の今頃
このかんじが常にあって、それにずーっと浸っているようなかんじで、ある意味それは、わたしはドラックなどの使用経験はないのだけど(全身麻酔でふわあーとなってコクっと落ちた体験はありますが)たぶん、これってそれに近いのだろうなぁ って。そこにずーっと耽美していると そのほかのことが色褪せて、どーでもよくなってしまう という感覚は そういうドラックの使用感に近いのでは?と。
苫米地英人さんもなにかの著書で「 瞑想に入り込みすぎているそれってラリっている 麻薬中毒とおなじ」みたいなことが書かれていて そんなふうに言いたくなるのもわかる。それと同時に、それを味わっていると #通常意識 とのコントラスト として気づかれることが、
「 通常意識 自我 思考 自意識 マインド って、あれこれコントロールしようとしたり、把握しようとしすぎだよなあ もっと委ねる=リラックスしてもいいんじゃない? 」ってこと
ぜんぶ委ねてしまっても大丈夫感
という その感覚 安心感 が
そのままこの 至福感 安堵感 になっている。
卵が先か鶏が先か = そうだからそう
そうだから、そう。
そうだから、そのことに気づいているから、
気づきがそれそのものとして、
そのように感じられる=気づいている。
“自分”ってなにもやってない なにも関与してないじゃん?っていう 無力さ コントロールしようのなさ が 確認 確かめられると よりリラックスが深まる。
あのときの一瞥を振り返ってみる
上記で ハート?ハートチャクラ? というキーワードを出したけど 去年の長期的に持続していたそれが起きたとき いわゆる一瞥を振り返ってみると
・ 耳を澄ます ただ聴く という気づき
・ すべては 愛 という素材で出来ていることの気づき
どちらも 世界/外側に対して ウェルカム 友好的 開いている状態で それをハートチャクラが開いている ともいったりするけど、無思考+そういう状態に起きたことのようにも思える。
そうなると、世界/外側という境界線は消える。いわゆるワンネスと言われているような感覚、それに伴う至福感。
至福感というのは (ちょっと味気ない表現ではありますが)分泌されているホルモンの状態とすれば 一体感や親密さをかんじたときに出てくるオキシトシン すべては愛であるという視点 ワンネスという感覚 のときにも出てくるとおもうし、あとエンドルフィン的な作用による感覚なのかなあとおもったり、、、
そんな具合で 複数のホルモンの上手い具合のちゃんぽん状態がある条件下になると起きて、そういう感じ・体感がする。それが常に出っ放しであれば、よく脳内麻薬云々という話がありますが、そういうかんじにもなるのだろうと。
道に落としたパン屑という道標
それを外側から摂取するor内側から分泌されるかの違いでしかないので、それに「酔っ払っている」というのは言い得て妙。そして、それに中毒する=求めるのも「虫が電柱の光に集まる本能」と同じく、完璧なセッティングなのかもしれない。
そうしておけば「帰路」を忘れたりしないから。
#ヘンゼルとグレーテル の 道に落としたパン屑
ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp