哲学は「答えがない問いについて考えること」なのだろうか?
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哲学は「答えがない問いについて考えること」だとしばしば説明されます。けれども、このような説明の仕方に僕は違和感を抱いてしまいます。というのも、「問い」であるならば、なんらかの志向性が認められるはずだからです。ここでの志向性とは――専門的な意味ではなくて――問う際には、問いの対象(問いにおいて求められているもの)が目指されているだろうという意味です。
さらにこの事柄を考えるにあたって、いわゆる「哲学的問い」の言い回しである「そもそも〇〇とは何か」という型の問いを取り上げましょう。この問いにおいて、問う者は〇〇を求めていると言えるのではないでしょうか。
プラトンは、まさに〇〇のイデア(〇〇そのもの)を求める愛(エロース)が哲学(フィロソフィー)だと言ったわけです。
したがって、哲学が「答えがない問いを考えること」だという表現は素直に首肯することはできません。より厳密には、哲学とは、現時点では答えが問う者の手許にないけれども、〇〇そのものを把握しようと(「答え」を摑もうと)している思考の活動と言えるのではないでしょうか。
つまり、常識的な「答えがない問いを考えます😎」という表現に対して、「答えがない」となんで言い切れるの??ってツッコミたいのです。
「いま持ってないだけで、これから探しに行くぞ!見つけるぞ!」という心づもりなのではないでしょうか、哲学してる人は。
さらなる問い:そもそも、「そもそも」とは何か
「そもそも〇〇って何?🤔」と問うときの「そもそも」には、「本来は」、「元来は」などの語が連関しているでしょう。このことから、「いまはそうでないが、昔はそのものとしてピュアな状態であったよね」というようなニュアンスがあるように思われるのです。
「哲学とは、ほんらい郷愁である」(ノヴァーリス&ノヴァーリスを引用するハイデガー)。
単純に「昔はよかったナァ」という話ではなくて、むしろ「本当の初期は純度が高かったはずだ」というある種のユートピア――僕たちが決して行くことのできない場所――が想起されているのではないしょうか。
そもそも、本来、郷愁――と、哲学。
哲学は、「ユートピア」を求めている?
参考文献
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