分別心と「霊性」/中沢新一著『精神の考古学』を大拙とあわせて読む
鈴木大拙は『仏教の大意』の冒頭、次のように書いている。
私たちは感覚的経験的に、なんとなく、自分を含む自分の周囲の世界はいつも同じ、昨日と今日も一続きで、ずっとおなじ一つ世界であるような感じがしている。
しかし、実は気づいていないだけで、世界は二つである、と大拙は書いている。第一に「感性と知性の世界」、第二に「霊性の世界」。
感性と知性の世界とは、通常、素朴に実在する客観的な世界だと思われているもので、確かに固まって、誰にとっても同じ、どっしりと安定した重たいものだと思われている。しかしこの「感性と知性の世界」は、実は、私たち人間の「心」がそのように分別して組み立てたバーチャルなものである、と考えるのが仏教の叡智である。
霊性
一方「霊性」の世界は、通常は、空想好きな人の「頭の中だけにある」吹けば飛ぶようなものだと思われている。特にそれを素朴に実在する物として観測して記録することができないために、そもそもそのようなものは存在しない、非実在、問題にならない、という人も少なくない。
しかし、この霊性こそ、実は私たちの「心」というものの発生源であり、最初から最後まで「心」がそこに不可分に根を張っているところなのである。
そうなるとつまり、私たちの「心」の表層である「感性」と「知性」を分別してやまない心もまた、あくまでもこの「霊性」から生えているのであり、霊性と感性知性は別々に異なるものではない。
感性や知性と霊性は、ひとつのことの二つの姿である。
森の樹木をイメージしてみよう。
美しい葉脈の線を走らせた一枚の「葉」が、感性と知性、分別知である。
それに対して、微細な「根」が絡み込んだ岩と石と土と水がミックスされたところが、霊性である。
この二つの世界の関係を大拙は「消息」という言葉でもって記述する。
このあたり、分けながらもつなぐ、二即一一即二というようなことを言葉に託すことはいつも非常に難しいのであるが、「消息」という言葉は良いのではないかと思う。
日常の「差別」「分別」の世界をそのまま経験しながら、それをそのまま「霊性」の「消息」として直覚する。それは、知性と感性と霊性が同時に動いていることを自覚的に意識(観察)できる「覚」である。そこに仮に与えられる名がすなわち「超分別意識的直覚」である。
ちなみに「消息」といえば『春の消息』という本を思い出す。
千差万別、物事を差別、分別、分けて分けて止まない「感性と知性」は、「そのまま」霊性の世界の「消息」であるという。
「感性と知性」は分別すること、分別された二者関係、二項対立関係を区切り出す。
それに対して「霊性」は無分別である。霊性は無分別であり分別されていないので、分別された後の「あれ」とか「これ」とか「それ」とか「どれ」とか、他ではない何かとして同定することができるような項ではない。
この分別されていることと、分別されていないこととが、二つであるが一、一であるが二つ。
精神の深い地層へ
このような「心」のあり方に迫る一冊が、中沢新一氏の『精神の考古学』である。
心には、「深い地層」と、深くない層(表層といってもいいかもしれない)を区別することができる。これを大拙のいう「霊性」と「感性と知性」を同じようでありながら異なることへと言い換えたものとして読んでみよう。
心の深くない層は、言語的思考の世界、「言語のように構造化された」無意識の世界、つまり大拙のいう「感性」と「知性」による分別の世界である。
その表層へと上昇すれば上昇するほど、私たちの目の前、感覚、識には、あらかじめかっちりと分けられ済みの、固定的な名が決まった物事の世界、あれこれの事物があらかじめそれ自体として自性において独立単立して並んでいる世界が、すでにそのようにして「ある」ようにみえてくる。
*
ところが、その心の浅い層を少しづつ削って行くと、心の「深い地層」がみえてくる。それを仮に、「法界、法身、セムニー(心そのもの)」などと呼ぶ。さきほどの「霊性」の世界は、ここである。
ここの深い層が、「人類の心の普遍的構造」の真の土台になる。
表層というのは深層に対する表層である。
表層 / 深層
深層がなくて、表層だけが浮いている、ということは不可能である。
深い層に支えられてこそ、その上に表層が積み重なる。
言語の構造は象徴の秩序が、ある特定の形態に発生することを可能にしている、心の深い層の普遍的な”構造”と、その土台へ。
この土台は、固まって止まっている何かではなく、「流れ」である。
そこから私たちの分別心とそこにうつる事物たちの世界もまた、はじまる。
私たちが「ある」とか「ない」とか、「動く」とか「動かない」とか、「確か」とか「不確か」とか、そのようなことを分別して語ることができるあれこれのこと、いわゆる客観的に存在するというように記述される物質のようなこともまた、あくまでも心の”深層”法界の「音声化された」、つまり脈動するパターンの、反復された姿である。
無分別を分別する?
表層と深層、「感性と知性」と「霊性」は、一つのことでありながら、二つに分かれてみえてしまう。
なぜこのようなことになっているのか?
その答えは、何を隠そう、私たちの表層の言語的な「感性と知性」が、「感性と知性」と「霊性」とを”二つに分けてしまっている”からである。
言語的な分節体系を定めようとする「感性と知性」が「心」を記述すると、つまり分別された物事からなるシステムとして「心」が表現される。しかしそれはあくまでも表現された、分節された「心なるもの」の象徴であって、心”そのもの”ではない。
そうであるからして
1)分別が良くて、無分別はダメ。
とか、
2)分別がダメで、無分別が良い。
といったことは、どちらも言いようがない。
例えば、1)感覚的素朴実在に対する確信が強すぎると、分別済みの諸項こそが世界の実在で、無分別なんて取るに足らない思い込みだ、というようなことを言ったりする。逆に、人類の分別心の破壊的暴力性を前に、2)無分別が良くて分別はダメなんだ、といういうこともある。
しかし、この1)、2)どちらの立場にも苦しさがある。
どちらにせよ、
「感性と知性」 / 「霊性」
分別 / 無分別
?↓?
よい / わるい
わるい / よい
このように二つに対立する二項の分別を前提にして、どちらか片方を選ぼうとしているのである。
問題は「二項対立のどちらを選ぶか?」ではない。
ーどちらを選んでも大したちがいはない。
問題は「二項対立をどう区切るか?」ではない。
ーどう区切ったとして大したちがいはない。
一番問うべきは、その手前。
つまり上でいえば「/」と書かれた動き、「/」が動いたり動かなかったりしているということを知ることができるかどうかが問われている。
分けられ済みの二項のどちらを選ぼうか、という問いももちろん大問題になる場合があるが、そもそも、どう「/」が動いているのか、うごいていないのか、ということが問われなければならなない。
「無分別」は分節された項のことではなく
分別 / 無分別
/ /
良い / 悪い
a /非a
/ /
b/非b
このような四項関係を切り結ぶことがまさに分別するということである。
そして、「霊性」というのは、このaとか非aとか、bとか非bといった四項関係のうちのどこか一極の位置を占める項ではない。
「霊性」は、このような四項関係が分かれているでもなく分かれていないでもないこと、強いてこの図式で言えば「/」たちが動いているでもなく動いていないでもないことを言わんとしている。
* *
例えば仏教の経典に書かれたようなことを、言葉として、論理として読もうという場合、しばしば「無」とはなにか、とか、「空」はなにか、とか、「涅槃」とは何か、といった問いを立てて、その答えとして「〜とは、うんぬんである」式に別の言葉への言い換えを置いてみたくなるところであるが、この時、どう四項関係を立てるか、aとか非aとかbとか非bに何を並べるか、ということをやってしまうと、分別にとらわれ、ある項に執着することになる。
おそらく、空とか無とか、涅槃とかいうのは、”「/」たちが動いているでもなく動いていないでもないこと”を、無理を承知で強いて名付けてみた、という感じのことなのである。
* * *
感性と知性の世界と霊性の世界が二即一一即二であるというのは、まさにこの、あらゆる”ことば”を可能にしている「/」のうごめきを、そのまま、特定の語=名に固めることなく、動かし続けるということに他ならない。
この「/」の多様な蠢きを、「/」を最小構成で四つ組み合わせることで動いている言語という仕組みを使って、意識の表層に浮かび上がらせることができるというのが、人間の心のおもしろさである。
* * *
新石器革命
固まった表層だけの世界
しかし現代人である私たちは、これまで深層の「/」たちの脈動ことはスポンと忘れて(というか、考える術を取り上げられて?!)、表層ばかり、表層だけを、それ自体として端的にあるかのように思い込んで(思い込まされて)苦しい思いをしている。
象徴まみれ、記号まみれ。
象徴と記号でピッタリと覆い尽くされ埋め尽くされたところが「唯一の世界」だと教えられ、その上で、どの記号を選ぶか、どの象徴を選ぶか、どれを選ぶことが正しく、どれを選んでしまうことが間違いなのか、常に試されているような気分になって汲々とする。
この象徴と記号で埋め尽くされた表面から、深い層に潜り込んでいくこと。
これを中沢氏は「考古学」と呼ぶのである。
現代社会がそれにまみれた記号と象徴を剥がしていくためには、象徴と記号で覆い尽くされた世界のはじまりを理解することが必要になる。
その始まりとは「新石器革命」である。
中沢氏は次のように書いている。
新石器革命というのは、要するに、それまで季節に応じて植物や動物を追い求めて移動していた狩猟採集民であった人類が、一箇所に集まって定住し、農地や家畜たちの面倒をみながら暮らすようになった変化である。
移動から定住へ、狩猟採集から農耕牧畜へ、といった変化は、単に生業の形の変化ではなく、人間の「心」の組み方の形の変化も伴っていたらしい。
新石器革命は、「心」の革命、認知の革命でもあった。
現代人を迷わせて止まない「象徴」とは何かといえば、それは「いまだ実現されていない未来を先取りしようとする力」である。
未来の富の象徴
象徴は、二つのことを一つに繋ぐ。
いまここの目に見えるなにか、と、いまここにはまだない未来の何か。
この二つをひとつにつなぎ、前者を後者の象徴とする。
例えば、手のひらの中に一粒の穀物の種をみて、見渡すかぎり広がる秋の実りの光景を思い描く。
手のひらの中にある、一粒の穀物の種
↓象徴↓
見渡すかぎり広がる秋の実り
例えば籠いっぱいの草の種が手に入ったとして、すぐに煮込んで粥のようなものにして食べてしまってもよいものを、あえて我慢して、来年の収穫のために取っておく。そしてお腹が空いているのに耐えながら、その種を土に蒔いて、水をやったり、余計な雑草を引き抜いたり、畑を荒らそうとやってくる動物を追い払ったりしながら、何ヶ月も待つ。
目の前にはない、豊かに実った光景をありありとイメージ=想像できることと、いま目の前にある小さな種が、その実りに確実に変換されるのだという知識と確信(信念)に支えられてこそ、新石器革命は可能になる。
* *
目の前の小さなものに、それよりもはるかに大きくて豊か何かを幻視する。
一粒の種が、豊かな実りの「象徴」になると同時に、神像というものが作られ、操作されるようになる。
ものごとをあらしめたり、動かしたりする力の流れは、新石器革命以前には、大自然の動物たちや植物たちや季節の変化として感じ取られてきたことだろう。
それが新石器革命を経て、ものごとをあらしめたり、動かしたりする「力」それ自体を象徴する像のようなものが作られ、象徴の集合体のような儀式の中で操作されるようになる。ここでものごとをあらしめる力は、農耕牧畜の生産力へと特化される。生産力を増大するように、より意味のある形で象徴を操作することが、社会にとって何よりも重要なことだ、というように人々が考えるようになるわけである。
これは現代の資本主義の倫理、経済指標が増大するように、意味のある形で資本(何にでも置き換えられる万能の記号)を操作することが重要だ、という考え方とまったく同じである。
無限の増殖と不増不減の循環
現代では、ものを増やすこと、お金を増やすこと、蓄えを増やすことは「良いこと」であって、逆にものの増殖を妨げたり、お金をわざわざ減らしたり、溜めたものを放り出してしまったりすることは「悪いこと」だと教えられる。
しかし、新石器革命以前の人間の心は、むしろ減ることなく増え続けることや、必要以上に欲望し溜め込むことなどを、世界の円環的循環的調和を乱す「不吉」なこととして恐れた。
この新石器革命以前の「心」のあり方を知る手がかりになるのが、現代にまで伝わるアニミズムの思考である。
私たちの心は、その表層では、ものごとを分別して止まない。
新石器革命の以前も以後も、心は、分別をして止まないものであった。
これが新石器革命以降の「心」は、ものごとの分別、特に
俺のもの / 俺のものではないもの
増えること / 減ること
ある / ない
増殖を引き起こす象徴 / 破壊を引き起こす象徴
といった区別を揺るがないものとして大前提に置いた上で、「俺のものを増やし続ける」方だけを選び続けようとする。
象徴は、それ自体として「何か」を秘めた、個々各々「孤立」した「個体」である。
象徴たちだけで覆い尽くされた世界とは、互いに他と無関係に孤立した個体が、脅かしあい、奪い合う、とんでもないフィールドにみえる。
分けるけれども、分けきれない
これに対して新石器革命以前の心も、もちろん人間の心である以上、「俺のもの/俺のものではないもの」、「増えること/減ること」、「ある/ない」などを分けて止まないのであるが、しかし同時に、
とか
とか
などなどといったことを考えることこそが深い叡智として歓迎される。そうした叡智が社会関係に現れたものが「贈与」である。
増殖を起こさない贈与
自分の未来の豊かさの種をしっかりと貯め込んで、他人どもから守らないと未来なんてないぞ(そのために、自分よりも価値の低い人間の自由を奪うことは正当化される!)、なんてことを考えるのが現代の良識ある常識人であろうが、これはいわば
自 / 他
をあらかじめかっちりと分かれたものだと考えて、「自分以外は全て敵」と、自分だけを選ぼうと、自分に資するものだけを選ぼうとすることに他ならない。
+
それに対して「贈与」は、むやみに溜め込まず、与えることとお返しすることを繰り返しつつ、ぐるぐると差異が富がめぐる関係である。
ぐるぐると循環しているのがこの世界であって、こちらで増えれば、あちらで減っているのだから、適切に送り返してやらないと、こちらで必要なときに必要なものが得られなくなってしまう、などと考える。
ようやく最近になって、地球が丸ごと人類の欲望の炎で焼かれているようなことが多くの人に知られはじめ、ようやくようやく「まずいねえ」という声も増えてきたところである。
人間が片方だけを選び続けると、反対側に「選ばれなかったもの」が次々と溜まっていき、それが例えば空気中を漂う汚染物質や、海中にうねる汚染物質のようなものになって、ついには「こちら」を丸呑みするようになる。
このようなことを考える時、思考は、ある一つの言葉、あるひとつの「記号」、あるひとつの「象徴」を選び出したところで、すぐにそれはそれの反対物と異なりながらも異ならないものへと振動しながら減衰していく動きをする。
深層から表層へ
ここまでの話をまとめてみよう。
人間の心には、分節済みの記号と象徴で満たされた「表層」の下に、深い地層が蠢いている。
表層の心は新石器革命を経て、穀物でも貨幣でも、「次なる増殖」の原資となる項をそれ以外の項からはっきりと分節し、次なる増殖の原資となる項だけを守り、固め、増やし続けることに邁進しようとする。
ところが、その心の表層の下の方には、表層の分別をそもそも可能にしている「自由に流動する」「/」の共鳴体のようなものがしっかりと隠れ、動いている。
いま表層の記号と象徴で固まった世界が失調を来している時代にあって、この「/」の共鳴体から、いくつものありえる、より柔らかい世界を発生させることができるようにすることが大切である。
「/」たちが、いくつも走っては、最小構成で四つセットになるように共鳴したり、その四つセットに共振状態にもつれた「/」が、さらにまた共鳴したり、またまたバラバラになったり、といったことを繰り返す脈動。
心の深い地層で動く「/」の共鳴体のことを、中沢氏は次のように言い換えて行く。
「象徴化の体系に組み込まれてしまうことを逃れている別種の知性」
「唯物論的なセミオティック律動」
「象徴化を免れている唯物論的な力」
「天使」
「その知性自身によって宇宙全体を立ち上がらせていく」知性
『精神の考古学』で中沢氏は興味深いことを書かれている。私たち人類は、この心の深い地層でうごいていることを、しばしば恐れ、そして慄く。
底の底は、闇か、光か?
煩悩に流されるままの、自他を分けて、自分に資するものだけを求め、自分を害するように思われるものを追い払いつつ、自分に資するものが得られなくなったどうしようと悩み、自分を害するものが大勢で襲ってきたらどうしようと恐ろしくなる。これが「煩悩に流されるまま」の「妄想的な世界」である。
この煩悩に流された妄想的な世界を生きる分別心、表層の心からすると、自分の心の深い地層で蠢いていることは、自他の境界を脅かす、おそるべき「暗黙の力」「夜の闇」のように思われる。
しかし、表層の分別心は妄想であり、その妄想は、より深い知性が動いたあとの一つの影のようなものだと教える叡智が登場する。
ここで心の深層で蠢くものは「暗黒の力」ではなく「まばゆい光」であるということになる。
この「まばゆい光」は、
a /非a
/ /
b/非b
といった四項に分別された関係のうちのどれか一極ではない。「光」は、「/」たちが共鳴したり、もつれたり、といったことを繰り返す脈動に他ならない。
しかし、その光を光としてみることができず、何らかの四項関係のうちの一項だとみてしまうように、人間の心は「鈍い物質性の混じりこんだ」覆いのようなもので覆われてしまっている。それが阿頼耶識である。
*
妄想知、妄想分別の働きを止める。
阿頼耶識の上澄の固着した、象徴と記号の堆積物のような覆いを剥がす。
出来合いの
a /非a
/ /
b/非b
の四極を”何か”で埋めようとするのではなく、「/」たちの共鳴する脈動のことを思う。
そうすると深層を暗闇のように見せてきた暗雲はおのずからはれるはずである。空海の『秘密曼荼羅十住心論』の世界である。
肯定もなく、否定もなく、くつろぐ。
これが重要なことである。
肯定 / 否定
なすべきこと / なすべきではないこと
何かを考えようと言葉が走り出すと、すぐにこういう分別が「/」されて、どちらかを選ばないと気が済まないように、特に現代的生産、余剰の蓄積に寄与する方を選ばないと気が済まないように、私たちは駆り立てられる。
二項対立関係は「/」のあと
「感性」、「霊性」
「分別」、「無分別」
「よい」、「わるい」
「感性なるもの」
「霊性なるもの」
「よきもの」
・・・とはなにか・・・。
一旦、すべての「ことば」あるいは項を離れること。
いや、離れずともよいが、とりあえず、気にしないこと。
あるどれか一つのスペシャルな項を選んで、「とは何か」などと問わないこと。「とは何か」式に問い、答えることは、まさに感性と知性、分別識の暴走そのものである。あるΔ1とは何か、と問うこと、つまり
Δ1 = Δa
という等式を立てようとすること。
こんなことができるためには、
Δ1 / 非-Δ1
の分別があらかじめ区切られていないといけないわけであるし、
Δa / 非-Δa
の分別も、あらかじめ区切られていなければならない。
* *
改めて「無分別」という言葉に注目してみよう。
無分別が大事だ、となると、なにかすごいことを言われているような気がしてくるのが、人間の悲しくもいいところである。
ところで「無分別」は、”無分別ーではないこと”との対立関係において、初めて無分別なることとして分別される。
つまり、「無分別」というものが宇宙の始まり以前からどこかに転がっているわけではなくて、
無分別 / 非ー無分別
この二つを二つに分ける「/」で表現されることが動いている限りで、無分別と非ー無分別は分節される。つまり「無分別」が「非ー無分別ーではないもの」として、「非ー非ー無分別」として、区切り出されるのである。この区切りだしに先行してあらかじめ無分別とか分別とか、いうことがあることはない。
そしてこの「区切りだし」「分別」「/」に与えられた名前こそが、人間の「心」なのである。
* * *
といいつつ、ここに密かに、というかあからさまに、さも当然のような顔をして
である / でない
あと / さき
という「/」が暴走戦車のように柔らかいところを蹂躙していることに注意しよう。
と思われるかもしれないが、おしまいとかおしまいではないとか、言っていいとかいけないとか、できるとかできないとかいうのも「/」であることを思い出そう。
そしてなにより、感性知性と霊性、「Δ1」「非Δ1」と「/」は、異なるものではないのであった。
”分けるのがだめで、わけないのがいい”、そうであるが、そうでもない。
あらゆる「項」にかたまらず、執着することなく、「/」の自在なうごめきをおもしろそうに眺める叡智へ。
この「/」としての「心」は、薄っぺらいものでもなく、単純なものでもなく、均質に固まったものでもない。
「/」=「心」は多様に動きつつある流動体のようなものだと思ったほうがいい。今風に言えば、常に学習途上にあり変容しつつある多層パーセプトロンだ、というとわかりやすいかもしれない。
それは均質でもなく、止まってもおらず、単純でもない。