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刺繍針、アリ、イイズナ/境界面に穴を開ける -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(84_『神話論理3 食卓作法の起源』-35,M480a 赤い頭)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第84回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。

β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。


振幅を描く振動

『神話論理3 食卓作法の起源』から「M480aブラックフット 赤い頭」という神話を見てみよう。

むかし、家族もなく、あらゆるものから離れて母親ふたりだけで暮らしているがいた。

彼の髪は血のように赤かった

ある日、ひとりの娘が長いこと歩いて彼のところまでやって来た。

娘は創造されたばかりで、地中から出てきたばかりであった。
まだ、食べることも、飲むこともできず、なにもすることができなかった


赤い頭は彼女を追い払った。ひとりで住んでいる方がいいと思ったからだ。

途方に暮れた娘(女主人公)はアリ塚の近くに避難し、アリたちに助けを求めた。なにか赤い頭が自分を受け入れてくるような力を得たいと思ったのである。
アリたちは娘を哀れに思い、小屋の中からなめした革を二枚盗んで来て、それを自分たちのところに持ってくるようにと命じた。


娘がそれを取って来ると、翌日までよそに行っているように言った。
翌日娘がアリ塚に戻ると、 そこにはヤマアラシの針ですばらしい刺繍をほどこされた二枚の革があった。

これがこの工芸の起源である。
なぜなら、最初に刺繍をしたのはアリたちだからである。


アリたちはつぎに赤い頭の母親の服に刺繍をし、娘にむかって次のように言った。
これを小屋の中の老婆のすね当てと並べて置いて来るように。
そのすね当てにはあらかじめ刺繍をした革を縫いつけておくように。

それから、茂みの中に隠れてその後なにが起こるか見届けるようにと。



赤い頭と母親が帰ってきてこれらの見事な衣類を見て、目が眩んだ。
赤い頭は、きっとあの見知らぬ娘のしたことにちがいない、と考え、母親に、娘を探し出して来て、食べ物を与え、刺繍したモカシンを注文してくれるようにと懇願した。

母親は茂みに隠れている娘を見つけ出し、食料を与えて、刺繍を注文した。

娘はは仕事を引き受けたが、仕事中の自分の姿を見てはならないと言った。それもそのはず、娘はモカシンをアリに預けただけなのである。
翌日アリたちはモカシンに多くの刺繍をほどこしていた。
同じように、彼女はアリたちに頼んで、狩人のジャケットに飾りをつけてもらった。
前と後ろには円盤形の模様を刺繍し、肩と袖には飾り紐をつけたものだった。

円盤が表わしている太陽は、娘の持つさまざまな力の一部のみなもとなのである。

アリたちにつけてもらう模様を娘に教えたのは一匹のイイズナであった(イイズナの毛皮は飾りとしてはたいへんよいものとされている)。

ジャケットにつける紐イイズナの通る道を表わし、モカシンにつける紐はイイズナたちが踏む雪を表わした。

赤い頭は娘が持っていると思い込んだいろいろな才能に魅せられ、結婚を望んだけれどもイイズナは娘に結婚はしないようにと言った。それどころか、先のよくとがった骨を手に入れて、それで男を寝ているあいだに殺すようにとさえ忠告した。

娘はそのとおりにして、その後、インディアンたちのところへ逃げ、彼らに刺繍を教えた。

M480aブラックフット 赤い頭
レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.417-418

対立関係の対立関係の対立関係としての八項関係が付かず離れず正方形とそれに内接(外接)する円を組み合わせた調和の取れたマンダラを開いていくよう、二項の間が分離しすぎているところを適度に結合し、二項の間が過度に結合しすぎているところを適度に分離していく。

まず冒頭、「むかし、家族もなく、あらゆるものから離れて母親ふたりだけで暮らしているがいた」というくだりである。あらゆるものから離れるというのが、つまり経験的感覚的には付かず離れずになっているような事柄一般からの過度な分離である。

この「あらゆるもの」との対立軸上で過度な分離の相にある「赤い頭」男であるが、彼は孤立しているのではなく「母親」と二人だけで暮らしている。「赤い頭」とその母親とは、親/子、男/女といった軸上で対立している。この親/子、男/女の対立二極が、この二人だけの生活においては過度な結合の相にある。

第一の軸上では過度に分離し、第二の軸上では過度に結合する。

図2

仮に、第一の軸と第二の軸が直交する(90度で交わる)とすれば、ちょうど上の図のように潰れた菱形のようになるだろう(第一の軸と第二の軸は必ずしもいつも直交しているとは限らない。四項を関係付ける二軸が直交していない場合、四項の関係はさらにアンバランスになる)。

神話は、図2の菱形で言えば、上下方向(縦軸上の二項)をもうちょっと引き伸ばして(分離して)、左右方向(横軸上の二項)をもうちょっと近づける(適度に結合する)て、図3のような正方形を描くようなポジションで均衡するように諸項たちを動かしていく。

図3

母、一人息子、嫁(候補)

このような項たちの動きを引き起こすために、この神話では、三人目のの登場人物が出現する。「地中から出てきたばかり」の娘、「食べることも、飲むこともしない」娘が、遠くからわざわざ旅をして、つまり遠く離れたところから次第に接近してきて「赤い頭」たちの元へと辿り着く。

この娘は最初「赤い頭」に接近する(分離を結合に転じる)。

しかし「赤い頭」はやってきた娘を「追い払う」、分離しようとする(分離が結合に転じようとしたところを、また分離に転じる)。

「赤い頭」と「娘」との間の距離が伸び縮みしていることに注目しよう。

対立する二極が正弦波の最大値と最小値に区切り出されるとすれば、この最大値と最小値の間の幅(正弦波の振幅)が減衰していく様子をイメージしておこう。

ちなみに「母親、一人息子、嫁」とくれば、現代社会においても、もうそれだけで物語が始まりそうな気配が漲ってくる。

第四の登場人物「アリ」

「赤い頭」に追い払われた娘は、途方に暮れ、「蟻塚」のアリたちに助けを求める。このアリが第四の項であり、アリが正円に内接(外接)する正方形を描くように後の三者たち(1.「赤い頭」、2.「赤い頭」の母、3.地中から生まれた娘)の位置を調整し、三者間の距離を付かず離れずに結んでいく。

まずアリは、娘に対し、「赤い頭」とその母親の小屋から「革」を盗んでくるように命じる。娘はこれを実行する。盗んでくるというのは神話的には面白い動きで、娘は赤い頭とその母親の居場所に侵入する(過度に結合)しているにもかかわらず、赤い頭とその母親は侵入されたこと接近し結合していることに気がついてきない(理解としては分離したまま)。盗みに入るということは、分離しながら結合し、結合しながら分離する、ということでもある。

菱形を潰したような関係においては、分離しているところと結合しているところの分別(分離)がはっきりとしている。これを正方形を描くように伸び縮みさせていくために、そのスタート地点で、分離しながら結合し結合しながら分離するという、分離と結合の区別が曖昧になる(どちらでもあってどちらでもない)モードになる

二重化、複数化、無量

そして娘が盗み出した「革」は「2枚」である。1枚ではなく、2枚。
分離と結合が曖昧になっているところでは、ありとあらゆる項は二重化している必要がある。つまり、他ではないそれとして他とはっきりと区別される項というのが出てくるためには、分けること(分離すること)と分けないこと(分離しないこと)とをはっきりと分離できていないといけないわけであるが、今まさにこの分けることと分けないこととを分けるでも分けないでもないモードに入っているのである。そこには”他ではないそれ”として、一つ一つ切り分けてカウントできるような対象物はまだ区切られていない

とはいえ神話もまた言語で語らざるを得ない以上「革がありましてね・・」という具合に主語を立てて、述語を置いていく必要があり、そうすると「はあ、なるほど、革があるんですねえ」ということで、何やら「革なるもの」がそれ自体として、他ではないそれとして、存在するような感じになってしまう。日常の情報伝達においてはそれで良いのであるが、分節以前、対立関係の設立以前(潰れた菱形)での伸縮運動を言語でもって象徴的に表現しようという場合、何らかの分節すみの「他ではないそれ自体」を持ち込んでしまう言い方は避けたいところである。そこで二重化するのである。

一つ、二つ‥、数えることは分別すること

ちなみにこの神話の主人公「赤い頭」とその母親は、二人互いに過度に結合していることによって二重化しているし、娘もまた赤い頭の小屋に近づいたり遠ざかったりと二つの相を示しているし、第四の項の蟻塚のアリたちは、それこそ何匹いるか数えられないほど「たくさん」いる。ありは「一」ではない。「一」としてはっきりと数えられる程に分離、分節、分別が効いていますよ、とは言えないこと表現するために「アリ」はちょうど良い経験的で感覚的な存在者である。

地上世界と地下世界、あちらにもこちらにも

またこのアリは蟻塚を築くアリである。
蟻塚は、地中・地下世界が地上に突出して生えてきた(ように見える)ものであり、地上/地下、という人間にとっては経験的に非常に決定的に分別された(人間は地下に埋められると生きられないという意味で)対立二極の間を媒介する項である。ありは地下世界の存在でありながら、地上世界にも出てくる。あちらにも、こちらにも、と言うアリのあり方が人類の思考には経験的な分別(此場合は地上と地下)の両極を一つに結ぶものと見える。蟻塚のアリたちは両義的媒介項(図1におけるβ)として申し分ない存在である。

工芸の起源、自然/文化の分別の設立

さて、娘が盗んできた革に、アリたちが刺繍を施す。

野生の、というか「自然」の産物である「革」が、刺繍を施されることにより自然と対立する限りでの「文化」の側のものに変換される。そしてこの変換を引き起こすための道具が刺繍針としての「ヤマアラシの針」である。
ヤマアラシの針もまた自然由来、文化と自然の対立で言えば、自然の産物である(人間が、ヤマアラシの針を製造しているわけではない)。しかし、ヤマアラシの針は、完全なる自然の産物でありながら、そのまま刺繍という記号のパターン、完全に人間が作る人間の文化のシステムを作るための道具になる。

神話ではこの刺繍が「工芸の起源である」と語られる。

工芸とはまさに、自然の産物を材料として、人間が、人間ならではのやり方で、文化の内部において意味がある、価値がある、とされる産物を生み出すことである。

ここに

自然 / 文化

という、人類にとって極めて基本的な分別が区切り出される。

しかも自然と文化の対立は、分離されつつも過度に離れすぎてお互いの間に交渉がなくなってしまうようなことにならないよう、しっかりと結びつけられている。文化の人工物の素材や道具は自然の側からもたらされるのである。ちなみに、この自然と文化の二項対立の対立の対立の分離と結合の動きを論じた名著がデスコラの『自然と文化を超えて』である。

「赤い頭」と「娘」のあやうい分離と結合

アリはさらに「赤い頭」の母親の服にも刺繍を施す。
そして娘に命じて、「赤い頭」たちの小屋に、刺繍した服や脛当てや革を目立つようにおかせた。

娘がまた、赤い頭の小屋にこっそり入り込んでいることに注目しよう。「赤い頭」は防犯意識が低いのではないかと思うが、神話なのでそこは問題ない。密かな侵入は分離したまま結合しているということであり、β項(両義的媒介項)たちの分離と結合の伸び縮みを表現しているのである。

さらに、小屋の中に刺繍製品をこっそり置いた娘は、近くの茂みに隠れて小屋の様子を見ている。娘は小屋から出て、近くの茂みという、分離しつつも、しかし様子が見えるくらいの適度な距離、付かず離れずのポジションで静止する。しかも、近くにいるのに、隠れているので気づかれない。見事な結合しながらの分離である。

さて、刺繍製品を見つけた「赤い頭」とその母親は、その刺繍の見事さに「目が眩んで」、娘を探して刺繍を追加注文することにした。
先ほどは追い払っておきながらゲンキンなものである

娘はまだ赤い頭の小屋の近くの茂みにいたので、すぐに姿を現して、刺繍を引き受ける。ただし、「仕事中の自分の姿を見てはならない」という、鶴の恩返しのようなことを言う。

ちなみに、鶴の恩返しも神話の論理、八項関係の分節を発生させていく神話として読める。詳しくは下記の記事に書いているのでご参考にどうぞ。

見てはいけません

仕事は引き受けるが、仕事をしているところを「見てはならない」。
これは結合しながら分離する、と言うことである。
日本の鶴の恩返しの「のぞいてはいけません」「はいわかりました(障子の隙間からこっそり覗く)」系の設定は、結合しながら分離するという分離か結合かどちらか不可得な曖昧で両義的、中間的な、この世とあの世さえもが区別なく繋がってしまったような状態を作り出して無尽蔵の反物という富を得るのであるが、しかし欲に駆られてこの結合しながらも分離するという曖昧さを覗き見によって短絡結合してしまい、富が無尽蔵に蔵されているような世界とこの世界とのの間のどちらでもあってどちらでもないという精妙な曖昧さを壊してしまうのである。そして無尽蔵の富は失われる。言うよくできた分離と結合の伸縮になっている。

さて、「赤い頭」の神話の方では、「仕事をしているところを見てはいけない」と言うことには合理的な理由がある。娘は、自分で刺繍をしているわけではないのである。娘はアリへ刺繍の工程を丸投げアウトソースしている。娘が刺繍仕事している様子は、見たくても決して見ることができないのである(刺繍していない)。しかし、「赤い頭」とその母親は娘が刺繍をしていると思い込んでいると言うところ、このズレが神話の真骨頂、結合しながらの分離、分離しながらの結合の動きなのである。

イイズナがマンダラを描くことを教える

さて、ここで新しい登場人物が出てくる。イイズナである。
イイズナというのは小ぶりのイタチの仲間である。

可愛いイイズナ(AI生成)

イイズナは、アリとは異なり「一匹」、単独生活する動物である。
ありがたくさんであったのに対し、イイズナは一匹。この違いによくよく気を付けておこう。この神話でイイズナはすでに二重化から離れ始めている。

「それはそうと、ちょっと待て、アリやイイズナは人間ではないから”登場人物”と言うのはおかしいだろう!」

と言う意見が聞こえてきそうであるが、まだ人間と非人間の分別がはっきりと切れてはいないところで話をしているので、仮に方便として「登場人物」と言っておく。と言うか、このアリ、少なくとも刺繍技術については人間であるこの私(この文章を書いている私)を遥かに凌駕しており、仮に人間であることの条件に「刺繍ができること」が含まれていれば、このアリたちの方が私以上に遥かに人間である。イイズナも同じである。実に見事な、マンダラを刺繍で描くことを教えたのがこのイイズナである。

もっと可愛いイイズナ(AI生成)

イイズナが教えた刺繍のパターンは、「円盤形の模様」である。
要するにマンダラである。これを服の「前と後ろ」に刺繍する。

マンダラは胎蔵と金剛界が二つセットになるように、表裏一体、二つをセットにしておくと良い。なぜなら一切衆生の存在世界を自在に生成発生させる法界の脈動人間の分別識(心)でも「わかる」ように表現するには、分離と結合の伸縮という野生の思考の神話論理と同じアルゴリズムを用いると良いのであり、そのためには、マンダラなるものもまた「他ではない、それ」と言う分別された後の対象物として受け取られることがないように、二重化して振動させておくと良いのである。

そしてこのマンダラ、円盤は「太陽」を現しており、それがこの主人公の娘に力を与えているという。円盤状のマンダラが太陽である。

大日如来」と言う声がどこからともなく聞こえてきて仕方がない。

前/後、上/下を(分かれていないところから)分けていく

この神話の芸の細かさに思わず舌を巻くのは、ここからである。

イイズナは服の前/後と、ジャケットとモシカシ(靴)、つまり上/下にそれぞれ違ったシンボル(ある特定の意味を担う象徴的な記号)を配していく。


前 * 後

この形がはっきりと見えてきた。

四つに分かれながらもしっかりとまとまって一つの身体をなす。「四種曼荼各々離れず」である(空海『即身成仏義』)。この神話、野生の思考ならぬ「野生の密教」と言う感じである。

さて、なんとも徳の高そうなイイズナであるが、ここで常識的にはびっくりするようなことを言う。

「赤い頭」は工芸の才能豊かな娘に惚れ込み、ついに「結婚」を申し込む。
結婚というのは分離したところを結合し、結合したまましかし別々に保つという、対立関係の対立関係を組み立てる常套手段である。

しかしイイズナは、よりによってこの求婚を断るよう、娘にいう。

しかも、求婚を断るだけでなく、「赤い頭」を刺すようにいう。

とんでもない話である。

が、これをとんでもないと思うのは、現世の常識、分別をつけ終わった後の秩序の内部での話である。

赤い頭も、娘も、神話的な存在であり、両義的媒介項なのである。
彼ら彼女らは分離から結合へ結合から分離へと、お互いの距離を伸び縮みさせるように動き回ることを宿命づけられている。この両義的媒介項同士が「結婚」する場合、よほどうまく調整をつけないと、両義的媒介項同士の過度な結合が生じてしまい、要するに赤い頭とその母親が二人だけで暮らしていた時となんらか変わらない、分節世界の開闢前の状態に戻ってしまうのである。

そう言うわけで、結婚しましょう、と言う「結合」の相が浮かび上がるや否や、この結婚は実現せず、分離の相に急転換する

そして刺された赤い頭は、もう二度と娘に結婚を申し込むことはないようだし、娘も、赤い頭たちの世界から離れる。赤い頭と娘の間の距離の伸び縮みは、ここで別々の世界に分離したまま止まるのである

この静止、両義的媒介項たちを結合したり分離したりしていた伸縮運動(振幅を描く脈動)が静止したように見える相に、この感覚的で経験的な人間にとっての現世の意味分節が始まる。

人間の世界の始まり

「赤い頭」と結婚しなかった娘は、人間たちの世界へと「逃げ」る

赤い頭ーーーーー/ーーーーーー→娘

逃げるとはつまり分離、赤い頭やその母親、アリたちの世界から離れるのである。

もちろん離れると言っても、赤い頭たちの世界と、この私たち人間にとっての現世とは、表裏一体、二重に重なり合っている。二つの世界の間の距離はゼロである。しかし、赤い頭たちの世界は、人間の感覚的経験敵分別識の格子構造・網では捉えられない相にある

図1で言えば、β項のいずれかの位置にあって同じくβ項でえる「赤い頭」と過度に接近したり過度に分離したりを繰り返していた娘は、ここへきて赤い頭とはっきりと対立し、対立関係を定めたのである。これによりβ項同士の間のくっついたり離れたり、の動きが止まり、β四項を四極とする正方形が描かれることになる。

そしてこのβ正方形の「辺」にあたる空隙に、現世の分別・意味分節を支える経験的で感覚的なΔ対立諸項たちが浮かび上がってくる。そして娘もまたそのうちの一つ「Δ人間たち」の仲間として、ある一つのΔに変身する。

娘は自ら、人間たちに刺繍を教える。

もう刺繍作業を代行してくれるアリもいないし、デザインを教えてくれるイイズナもいないが、娘は一人、人間たちの間に混じって、人間たちへ最初に文化を教える文化的英雄になるのである

言い換えると、この娘の「刺繍を教える」という行為によって、人間たちは野生の自然的存在であることから離れて文化の存在に変換される。野生由来の素材をそのまま身に纏うあり方から、記号的なパターンを刺繍された衣服を慣習に従って着分けること。あるいは「自然」と「文化」という経験的に重要な分別、対立関係が、この刺繍技術の贈与によって分別されたと言っても良い。

人間を自然ではないものの位置に区切り出したのが、この刺繍を教えた娘なのである。

こうして私たち人間の「この世界」が起源するのである。

実に味わい深い神話である。

* *

おもしろいのはこの神話におけるイイズナの動きである。

もし、イイズナがいなければ、娘も赤い頭たちも、くっついたり離れたり、その距離を伸び縮みさせつづけるばかりでいっこうにΔ四項が正方形を描くように対立した現世の分別が収まる余地は定まらなかったはずである。

ここにイイズナが現れ、赤い頭と娘の結婚(過度な分離と結合の間の反復)を断ち切ったことで、β脈動は振幅を一定に絞られて、Δ四項の対立関係が設立される余地が開いたのである。

この神話でイイズナは、現世を現世として起源させる上で決定的な役割を果たしている。

* *

ところで、イイズナといえば、日本にも管狐で知られる神仏習合の飯縄権現がいらっしゃる。法界から曼荼羅状のパターンを浮かび上がらせ、現世の諸存在を利益するという思考はこの神話の野生の思考に通じるものがあるといえそうである。飯縄権現の本地は大日如来であるというところにも、野生の思考の共鳴があるように思える。

針、アリ、イイヅナ

さて、この神話では、境界面を通り抜ける動きをするものとして、刺繍針、アリ、イイヅナという三種類のものが登場した。この三つはいずれも同じように境界面のこちらとあちらあちらとこちらを行ったり来たりするものであるが、その動き、述語的様相に微かな違いがある。

刺繍針は、強いて言えばリズミカルに、こちらからあちらへ境界面に入っては、出るを繰り返す。入っては出て、入っては出て、入っては出てを一点、一点、穴を通していく。

アリも境界面、巣穴から出たり入ったりするが、その同時に複数わらわらと出入りする。刺繍針のリズミカルな出入りの反転に比べると、アリの出入りの複雑性、ランダムさ、並列同時性が際立つ。

イイヅナも、突然穴から顔を出しては人間を驚かせるような動き方をするが、興味深いのは、アリと刺繍針が出たり入ったり、つまり往復、双方向の動き方をするのに対し、イイヅナはβ脈動からΔ四項を浮かび上がらせた上で、このΔとβの間の通路を閉じるような動き方をする。つまり一方通行、媒介の方向が一方向だけの半媒介なのである。考えてみると、人間にとってのイイヅナの経験的な表れというのは、突然、隠れた穴からぬっと姿を表して人を驚かせる、といったパターンが多いだろう。逆にイイヅナが藪に隠れた巣穴に戻っていく方向の動きは、人間にはあまり印象に残らない。おや、いつの間にやらいなくなった、どこへ行ったんだろう、程度のものである。出てくる時のインパクトの強さと、入っていく時の印象の薄さが好対照、真逆にはっきり分離している。この辺りが神話的思考がイイヅナを半媒介のポジションに配置する理由と言えるかもしれない。

いずれにしても、針、アリ、イイヅナ、といった名詞の主語的な相(それが何であるか)に囚われすぎずに、それが「どう動くのか」、「どう出入りするのか」「どう伸び縮みするのか」といった術後の様相を注視していくと、面白いのである。

* *


「赤い頭」異文

レヴィ=ストロース氏は上の神話に続けて異文を紹介する。

「「赤い頭」のまたべつのヴァージョン[…]では女主人公が赤い頭に自分の夫を殺され、 その悲しみが癒えていない寡婦になっているのである。彼女は何人もの求婚者をしりぞけるが、ついに折れ、彼女のために殺人犯を殺してくれるという条件でひとりを受け入れる。
 若者は自分を保護してくれる超自然的女たちの助けを借り、美しいインディアン娘の姿をとる。このように変身した若者は「赤い頭」を訪れる。赤い頭は夜になる前にモカシンとすね当てに刺繍をするように、さもなければ殺す、と脅す。偽の女主人公は仕事をアリたちにまかせる。赤い頭はそのでき栄えにひどく感心し、彼と親しいカササギたちが、この女と称する者の目はどう見ても男の目である、と警告したにもかかわらず、彼女と結婚する。彼女は夫が寝ているすきに、シカの角でできた錐を耳に突き刺し、石でその錐を叩いて頭を割る。それから、彼女は彼の頭皮を剝ぎ、自分を保護してくれる女たちのひとりのところへ逃げ、その女に頭皮の半分を与える。そのお返しに男の姿に戻してもらう。主人公は自分の村に帰り、そこで最初の戦争の踊りを踊る。愛する寡婦に残った半分の頭皮を与え、彼女と結婚する。」

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.419-420

異文では、「赤い頭」と女性主人公とその夫が、過度な結合から過度な分離へと激しく振幅を描いて振動する。女性主人公とその夫は結婚(結合)しているが、「赤い頭」が夫と暴力的に過度に結合したことで、結婚は夫の死亡という遠い分離へとひっくり返る。しかし分離しながらも女性主人公は夫を夫として思い続け、再婚を拒む。この過度に分離したり結合したりを繰り返す、「赤い頭」「女性主人公」「夫」は、図1におけるβ項、両義的媒介項である。

  • β1  赤い頭

  • β2 女性主人公

  • β3 夫

さて、こうなるとあと一つ、β項が欲しいところである。
そこに現れるのが女主人公に求婚する若い男である。

女主人公は、若い男からの求婚を拒むが(結合しようとしたところを分離する)、「赤い頭」を退治し夫の仇撃ちに成功するなら(過度に分離しているところを結合しなおす)再婚しても良い、と告げる。

さてこの若者は男性であるのだが、「赤い頭」を討つために、女性に変身する

男性であるが女性、つまり男/女という経験的感覚的な二項対立のどちらでもあってどちらでもない不可得な状態に入る(経験的で感覚的な対立二極に対する両義的媒介項になった、ということもできる)。この男性から女性への変身が完全なものではないというところに注目しよう。「赤い頭」の盟友である「かささぎ」は、若い男が女性に変身していることを見抜いて、「赤い頭」に忠告している。つまり誰がどう見ても完全に女性になりきってしまったのでは、男/女の分別における片方の極「女性」の方に完全に振り切ったことになってしまい、中間的両義的(男女の分別が不可得)ではなくなってしまうのである。

つまりこの女性に変身した若い男性こそ、第四のβなのである。

  • β4 若い女性に変身した若い男性

女性に変身した若い男は、「赤い頭」に接近し接触に成功する(分離を結合に転じる)。この異文ではここで女性に変身中の若い男が「刺繍」をするよう「赤い頭」に命じられる。そして女性に変身中の若い男はこの刺繍仕事を「アリ」に任せる。

そして、女性に変身した若者は「赤い頭」と結婚する(過度な結合)。

ところが、この見せかけの結合から、一挙に過度な分離へと相が転じる。

その晩、若者は寝ている「赤い頭」の「頭」を恐ろしい方法で破壊し、「頭皮」を切り離して=分離して、仇打ち成功の証拠として寡婦のもとへと持ち帰る(「赤い頭」から分離された部分が、β女性主人公のもとへと移動し、結合する)。あちらで分離しこちらで結合する、という動きである。

「赤い頭」は、前の神話でもそうだったようにβ項、現世の分別(Δで表記した四項関係)が分節する手前の、現世の分別(Δ四項関係)に対しては両義的で中間的で不可得なポジションにある項である。このβ「赤い頭」が、頭皮とそれ以外に切り離される=分離される。この頭皮はΔのポジションに収まりそうであるが、この神話では、頭皮がさらに二分される

長く伸びたβ1 「赤い頭」の頭皮

面白いのは、「赤い頭」の頭皮は、さらに二つに切り分けられているというところである。赤い頭の頭皮は半分にされて、一方は男性を女性に変身させたり、男性に戻したりする、つまり経験的感覚的にははっきりと分離されてる二極を自在に入れ替えることができるような術を使える精霊的な「女性たち」に渡される。そしてもう半分が、敵討の証拠として「赤い頭」に夫を奪われた女性主人公の元に届けられる。

神話の論理を組む上で、例えば、「赤い頭」はΔ「頭皮」とΔ「頭皮以外」に分離し、頭皮は寡婦の元に届けられ、「頭皮以外」は”空に登って星になった”などと言っても良いのであろうが、この神話の場合、「頭皮以外」の方には特に言及がない(バラバラになりすぎて、一つにまとまった何かとして主語化困難になったのだろう)。その代わり、頭皮はあらためて半分にされて、一方は男/女の変身を可能にする精霊のような女性たちに渡される。つまりこの時点では、頭皮はまだ両義的媒介項、βなのである

そして何より、このβ頭皮を若者から精霊のような女性たちに渡すことで(β精霊たちとβ頭皮との結合)、男性でありながら女性・女性でありながら男性であったβ若者は、また女性から男性の姿へと再度変身する。

β項は述語の相で長く伸びることもある

β項目の分離と結合は自在に伸び縮みする。
「赤い頭」における頭皮と頭皮以外の分離は、分離しながらもまだ伸び縮みしているような具合で、つまり「頭皮」は「頭皮以外」との関係でΔ二項対立にはっきりと分かれてはいない。「頭皮」は引き続き「赤い頭」と非同非異であり、分かれておらず、ただし、ながーく伸びている。

さて、β頭「赤い頭」の変容した姿である「頭皮」は二つに切り分けられ、一方は男/女間の変身に寄与し、もう片方の残りβ頭皮もまた、過度に分離したところを結合へと転じる媒介の役割を果たす。すなわち、男性に戻った若者と、寡婦であった女性主人公とを結婚=結合させる媒介になる。

そして、この二度目の結婚は、分離から結合へ結合から分離へと激しく転換する高振動状態ではなく、付かず離れずの距離を保った安定した距離の発生であろう。ここに付かず離れずに安定したΔ四項関係の発生の気配がある。

さらに、異文への言及が続く。

あるブラックフットのヴァージョン[…]主人公は天体と人間の女とのあいだに生まれた息子にほかならない。[…]そのほかのヴァージョン[…]は主人公を、傷痕によって醜い顔になったインディアンの若者としている。この若者は村の娘に求婚する。娘は醜い痕が消えれば結婚してもよいと嫌味を言う。絶望した若者は当てもない旅に出る。太陽のところにやって来て、その息子の夜明けの星と仲良くなり、また太陽の妻である月の庇護も受けることになる。母と息子は彼のためにとりなしてやる。太陽は無慈悲ではあるが若者を哀れに思い、傷痕を治してやって、自分の息子と似た姿にしてやる。あまりに似ているので母親でさえも見まがうほどであった。 若者はある日、太陽が禁じているにもかかわらず、太陽の息子を西の方に連れてゆく。そこで、七羽のツル、 ハクチョウまたはガンに出会ってそれらを殺し、切り落とした首を持ち帰る。これが頭皮の起源で、これ以来戦士たちは武勲のしるしとして頭皮を誇示するようになったのである。敵を厄介払いしてもらって太陽は喜び、庇護している若者に戦争の儀礼を教える。また彼に娘たちを魅惑する魔法の縦笛も与える[…]。仲間のところに戻った彼は蒸気浴を創始する。それから天に登り、星になるが、これは夜明けの星と混同される。またべつのヴァージョン(M)では若者は愛する娘と結婚し、ふたりとも長生きをして、子供をたくさ んつくったとされている。そうでなければ、つれない娘と寝たあとで、その意地悪を罰するために、娘を追い払う。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.421

「天体(月、あるいは太陽)」と「人間の女性」という、経験的には天/地に分離した二極が相対的に過度に結合(結婚)して生まれた息子これが結婚相手の女性を探す若い男性主人公になる。つまりこの主人公は過度な分離を過度な結合に転じた、分離と結合の伸び縮みする運動を一身に体現した両義的媒介項(β項)であるということになる。

ちなみに、天体と人間の結婚に関しては、下記の記事などで論じているので参考にどうぞ。

この若者は、ある人間の娘に求婚するが(結合しようとするが)、しかし顔に傷があることを理由に難題を吹っかけられる(結合へ向かう動きから分離へと向かう動きへの急反転)。そして若者は旅に出る、つまり人間たちの下から遠く遠く、分離する。

分離した先で若者は「太陽」と「月」の夫婦の世話になる。
経験的には天/地に分離した天体と人間が同居するという、分離の相を結合の相に転じる動きがここにある。

変身

ここで若者は、太陽と月の息子と瓜二つ、そっくりの姿に変身する。
二人のどちらがどちらなのか不可得、二人別々に異なるがそっくり同じ、非同非異の二即一一即二のモードに入る。

そしてここから、若者は太陽たちの家族のもとを離れ、人間の世界へと帰る旅に出る。まず、太陽と月の息子と連れ立って、太陽と月の夫婦のもとから離れる。

β太陽                    β若者
||ーーーーーーーーーーーーーーー→西の方角  ||
β月                 β太陽と月の息子

四つのβを四つの曲とする四角形が長方形に伸びて伸びて、潰れてほぼ線に見えるような、薄くて長い長方形になっている。

天/地の中間をつなぐ七

ここでβ若者は、「7羽」の鳥を、「頭」と「頭以外」に分離するという情報処理を行う。頭と頭以外とに分離される前の渡り鳥は両義的媒介項である。空高く、天/地の中間領域を自由に飛翔する渡り鳥たちは、天/地の経験的区別に対して両義的で中間的である。それを半分に、二つに分ける。しかもその数が七、八まであと一つ足りない、八の手前の七であるというのが野生の思考の神話の論理の真骨頂といえよう。

つまりこのβ渡り鳥を七羽、半分に切るというのは、対立関係の対立関係の対立関係としての八項関係を分離しつつある途中の様相、八項関係の曼荼羅の完成一歩手前を表現する。

さて、ここからこの神話は、一挙に現世の秩序、人間にとっての意味ある世界の成立を語る。人間にとって自他の分別がはっきりと際立ちつつ、自/他の間を分けつつつなぐ絶妙な関係性を再生し続ける「戦争の儀礼」の慣習の始まりであり、結婚する男女の間を、元々分離していたところを結合へと転じるための「縦笛」を奏でるという習慣の始まりである

戦争の儀礼、縦笛

戦争の儀礼も結婚を媒介する縦笛も、どちらもこの現世において、自/他を分離しつつ適度に付かず離れず結合しておくという、対立関係の対立関係、正方形として図式化できるような安定した対立関係の対立関係を安定的に再生産するものであるというところが面白い。

ちなみに、太陽が天高くのぼってくる鳥たちと「敵」対関係にあったというのも興味深い。β項たちは分離したと思えば結合に転じ、結合したと思えば分離に転じるという、分離と結合を両極とする様相の急転換を演じ続ける。

* *

さて、最後にこの主人公の若者は、地上から天に登っていく、帰っていく。そして星になり、安定的な動きの秩序(金星と地球の天体運動の周期の関係)の中に収まる。この時、天/地を媒介する、地上から天上へのルートをつなぐ乗り物になったのがサウナからたちのぼる蒸気である。

明けの明星は地上からはっきりと分離された天の存在でありながら、しかし、地上からよく見える。つまり視覚において、明星は地上から完全には分離していないのである(完全に分離したら、なくなってしまい、もう見えないはずである)。いずれしても天/地の経験的で感覚的な対立関係の片方の極として安定して収まる。

また別の異文では、若者は星にならず、そのまま人間世界にとどまり、当初の娘と結婚をして幸せに暮らしましたとさ、となるパターンもある。天で安住するか、地上で安住するか、どちらでも良いのである。

あるいは一番最後の「そうでなければ、つれない娘と寝たあとで、その意地悪を罰するために、娘を追い払う」という異文もまた、若者は人間世界に止まるパターンである。そして当初の娘と結婚するかしないかは、これもまたどちらでも良いのである。

要するに神話の論理においては、語りの最後で分離と結合の伸び縮みが収まり、はっきりと分離しつつ分離しすぎない、という状態になれば良い。そして分離しつつも分離しすぎないということにはさまざまな様相があり、特に他でないこれでなければならない、というものはない。「それが何であるか」という主語から主語への言い換えももちろん大切だが、その前に「どう分けて、どう繋いでいるか」という述語的様相の方が、神話的には大問題なのである。

続く

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