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「AI」と「人間」の関係を、アクターネットワーク理論で紐解く   ―久保明教著『機械カニバリズム』より「カニバリズム」について


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人類学者久保明教氏の『機械カニバリズム』を参考に、人間と機械の関係を「カニバリズム」的関係として記述するという話を前にこちらのnoteに書いた。

カニバリズム的関係として記述するとは、要するに人間と機械が二つでありながら一つであるという関係として記述する、ということである。

久保氏によれば、人間と機械の関係は「この世界に存在するものについて異なる見解をもつ存在者同士の相互作用」として理解できる。

この相互作用は、具体的には人間的記号と機械的情報の翻訳あるいは変換として記述されるのである。

ここでいう「翻訳」「変換」というのは、ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論における翻訳であり変換である。

翻訳・変換するということは、ある記号や情報の「もともと」の意味を保ちつつ、同時にズレを生じる働きである。

翻訳、変換の連鎖を通じて、次から次へと、ある意味が「同じさ」を反復されながらも、予測不可能なものへとズレていく。

こラトゥールの「翻訳」については↑こちらのnoteに書いているので、よろしければご参考にどうぞ。

人間的記号と機械的情報のちがい

さて、久保氏によれば、人間的記号というのは、その意味が変容の可能性に開かれている点が特長である

私たちの日常の言葉を思うかべてもらえれば、それが複数の人の間でいつも同じ意味を運ぶように見えながら、同時に誤解と思い違いの嵐であることがわかる。人間的記号の意味は、次から次へとズレて、変わっていく。

それに対して、機械的情報は同一のコードに基づく置き換えの反復により意味を固定しようとする傾向がつよい(『機械カニバリズム』p.130)。

というか、はじめからコードの安定性、一貫性を前提として、そのコードを逸脱するものをすべてエラーとして排除することによって成り立っているのが機械的情報の意味の世界である。

久保氏は次のように書く。

「コンピュータが開発された背景には、人間が用いる「自然言語」に散見されるような意味作用の文脈依存性を可能な限り排除し、形式的な規則に基づいて意味を正確に伝達しうる「純粋」な言語を目指す発想がある。」

ここに書かれている通り、人間的記号が「文脈」に依存して、その意味をコロコロと換えていくのに対して、そうした多義性への発散の傾向を排除し、形式的規則の一貫性を反復し続ける「純粋(?)な」言語の構想が、コンピュータの設計思想のもとに合流している。

久保氏はこれを次のようにも言い換える。

機械的情報は、一定の要素の組み合わせ規則として言語を把握する統語論的な言語観と結びつく。

他方、人間的記号は「発話者や発話コンテクストによって」変化する意味に着目する語用論と結びつく。

統語論と語用論、この対比はおもしろい。

人間と機械がハイブリッドになると、記号―情報はどうなるのか?

こうした相反する傾向をもった人間的記号と機械的情報であるが、このふたつが人間と機械のハイブリッドにおいては、結びつき、相互の翻訳が常時行われることになる

私たちはインターネットやスマートフォンといった機械的情報を扱う機器に「言葉」を入力するつど、人間的記号を、機械的情報に翻訳しているのである。

また逆に、スマートフォンの画面に現れる文字なり画像なり音声なり、さまざまな情報を「見る」「読む」「聞く」つど、その機械的情報を人間的記号に翻訳している

ここで久保氏は興味深い指摘をされている。

人間が日常的に機械とともにあり、機械的情報の生産と流通の仕組みに溶け込むことで、人間による人間的記号の意味の変容の仕方自体が変容する、と。

コンテクストに依存しない機械的な情報」と「コンテクストに依存する人間的な記号」の相互変換によって支えられたCMC(computer mediated communication)は、統語論的言語観と語用論的言語観の共存をいわば実装した技術なのである。さらに、こうしたデジタルな記号の特長は、機械的情報との接続を通じて人間的な記号の意味作用が変容するという状況を生み出している(『機械カニバリズム』p.131)

機械的な情報と人間的な記号の「相互変換」とは、一方から他方へその意味が同一性や単一性を保ったまま、透明な導管を通過するように移動することではない。そうではなくこの相互変換はラトゥールのいう「翻訳」であり、予め確定不可能な形で意味が分岐することである。

久保氏は、スマートフォンのような携帯デバイスで常時インターネットに接続され、情報を発信し、受信し、組み替えながら移動し続ける私たちにあっては、その「自己すらも、記号操作の機械へと変容している」と論じる。

そのひとつの姿として、日常生活において私たちがつかう「語彙」が「機械的な情報処理と結びつくこと」で変容しつつあるという(『機械カニバリズム』p.124)。

人間的記号と機械的情報の「相互変換」

スマートフォンでSNSやメッセージアプリを常に操作している私たちにとっては、「言葉の意味」ということの捉え方が、かつてのスマホSNS以前の人々の場合とは異なり始めたというのである。

かつて意味とは、単一で、あらかじめ決まっており、誰にとっても共有されているものだというイメージで捉えられてきた。ところで、そうした意味についてのイメージは「マスメディアによる一方向的なコミュニケーションが制度化される過程で自明視されてきた」ものである。

マスメディア全盛時代の「意味」のイメージ

よくスマホが登場してから人間がおかしくなった(=スマホ登場前の方がよかった)というような言説を見かけるが、ことはそれほど単純ではない。

実のところスマホが登場する前の人間が「おかしくない」真正なピュアな人間であったかというと、そういうわけではない。スマホを使い始める直前の時代、人間はマスメディアという、スマホとは別の「機械」にカニバリズム的に食べられることで、マスメディア機械に接続された記号処理のサブシステムとしての読者・視聴者機械としての「人間」に生成していた、ということもできる。

記号処理システムであるマスメディア読者・視聴者としての人間は、マスメディア機械が反復生産するコードに従って、意味を処理していた。

そこでコミュニケーションと意味は「コミュニケーションのコンテクストが一義的に確定できる」との想定のもとに考えられてきた。世界はひとつ、世界の意味はひとつ、誰にとってもこのよな同じもの、という「当たり前」の世界があるはずだ、と。

これは何のことはない、みんながみんな、ほぼ同時に、大量コピーされた同じ情報を一方的に受け取っていたことによる。

記号処理機械としてのWeb人間とマスメディア人間のアルゴリズムの違い

さらにその一方的に配信される情報に対して誰かひとりが発した「ちがうんじゃない?」という意見が他の視聴者に広まることがほぼなかったというマスメディアの技術の記号配布(配達)ネットワークの「ツリー構造」が、その末端のサブシステムとしての「人間」において意味の同一性を保存し再生産する方向での記号処理だけを前面化させていた、ということである。

これに対して、「Webでの多対多のコミュニケーション」の登場は、「異なる複数の意味の間で起きる『文脈の定義をめぐる闘争』」を際立たせた。

それはマスメディアが支えていた誰にとっても共通で単一の意味の世界、という想定を崩壊に追い込みつつある(『機械カニバリズム』p.135)。

私たちはまさにこの地点で、マスメディア的大量複製された一方的意味Web的な無数に対立を増殖させていく意味との間で、引き裂かれつつ、同時に双方を生きなければならないという苦労を背負い込んでいるのである。

久保氏は、Web状の情報通信ネットワークに組み込まれ、それと一体化したことで、私たちの「自己」が「機械的に処理されうる限りにおいて他者が理解しうる要素を手当り次第に自己へ適用していくあり方へと変質」すると論じる。

「私たちは機械ではない、決して完全には形式化されない自己をもつのだ。そう呟きながら、私たちは日々せっせと機械に自らの情報を喰らわせている」(『機械カニバリズム』p.183)。

ここで「自己」は、機械に自らについての情報を食べさせることによって、はじめて作り上げられるものになる。

マスメディアであれ、SNSであれ、そしてAIであれ、様々な「機械」たちは人間を「食べ」、そして、それぞれの機械を通過し変成された「なにか」を吐き出す。それが私たちの存在なのだとすると…。


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