スクリーンショット_2020-03-09_0.51.07

「分かる」は「分ける」こと −レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』から思うこと

宙ぶらりん?もったいない?

私は、いわゆる理工系の大学に入学しながら、途中から人文社会科学の本ばかり読むという、いわゆる「文転」と呼ばれるパターンである。

それでいて最後まで(博士号取得まで)理工系の大学にぶら下がり続けるという点では、華麗に文学部や哲学科などに転じた方々に比べれば、私はなんとも宙ぶらりんである。

ここで宙ぶらりんというのは言うまでもなく私自身のわたし自身に対する評価であって、他に同じような経歴を辿った方々を貶める意図はない。

私は「宙ぶらりん」を非常に良い意味で使っている。

どちらでもあってどちらでもない、その中間的で両義的な感じがとても良いと思う

この「文転」については、周囲で継続して「理系」をやっている方々から、結構頻繁に「もったいない」と言われることがよくある。

もったいないということは、もともと持っていたものを失ってしまったとか、もう少しで手に入りそうだったものを逃してしまうとか。しかるべき対象との関係を失ってしまった事を言うのだろう。

私としては、何かを失ったつもりはなく、むしろ色々と得すぎてしまって手に余るほどである。

何がもったいないのかよくわからないが、とにかくそういう評価をする言説が発せられるというのがおもしろい。それこそ社会科学的な対象としておもしろい。

客観性、共同主観性、主観性・・・として

自分自身としては、「もったいない」という意識もないし、そもそも「文転した」という意識もない。

「意味」の意味を求めて興味の赴くまま、いろいろ本を読む羽目になったという認識である。

つまりそこには文理の区別を超えた、もったいないもったいなくないの区別を超えた、一貫性があるつもりだったりする。

もちろん、何かの分野の知識を体系的に獲得しそれを使って何かのコミュニティに貢献する、ということを勉強であり学問であると考える立場からすれば、わけのわからない方へ転がり落ちてしまって、もったいないことになった人、という評価になるのは当然であろう。

ではそういうまっとうな評価を超えて、一体なにを一貫しているつもりなのか?

ためしに、雑駁になってしまうが、整理してみよう。

客観性、主観性、共同主観性

いわゆる理系は「客観的」な現象を扱う。

それに対して、社会系は「共同主観的」な現象を扱う。

そして人文系は「主観的」な現象を扱う。

客観性とはなにか、共同主観性とはなにか、主観性とはなにか、という話は別の機会においておくとして、問題はこの三つが、いずれもすべて人間にとっての「意味」ということの3つの現れであるということ、である。

客観的な現象を客観的な現象として対象化する。

共同主観的な現象を共同主観的な現象として対象化する。

主観的な現象を主観的な現象として対象化する。

「として対象化する」というところが、この三つに共通しているわけであるが、私が興味をいだいて止まないのは、まさにこの「として対象化する」という事なのである。

AをBとする | 投影する/置き換える

哲学はもちろん、古来より宗教として表現されてきた思想のうちでも、この「として対象化する」ということはいつもずっと大問題であり続けた

特に、人間と、動物でも鉱物でも山川草木でも天体でも神でもなんでも、人間と区別される他の存在と人間との間をどうやって調停するか、ということを考えようと思う時、「として対象化する」という現象が大問題になる。

例えば、人間は神を知ることはできるのか、あるいは「私」は「他者」を知ることはできるのか、できないのか、できるとすればどうやって、できないとしてもどのくらいまでなら接近できるか、つまり神のような存在を「私たち人間でもわかる何かとして理解する」ということは、神と人間の断絶なのか、それとも合一なのか、などという具合にである。

21世紀初頭の今日にあって、この太古からの「として」の問題の水面を漕ぎ渡る小さな船を貸してくれるのが、やはりレヴィ・ストロースであると、私には思える。

『悲しき熱帯』の一節である。

「私にとっては、マルクスが、歴史の各各の発展を正しく予見したかどうかを知ることが問題なのではない。マルクスは、物理学が感覚に与えられたものから出発してその体系を築いていないのと同様、社会科学は事象という次元の上に成り立つのではないことを、ルソーに続いて、私には決定的と思われる形で教えてくれたのである。(『悲しき熱帯』p.85)

物理学は、感覚に与えられたものから出発していない

つまり目という感覚器官で見る限り、どこからどう見ても「太陽が動いている」にも関わらず、「いや、地球の方が太陽を回っているのですよ」と記号で記述して説明できるのが物理学である。

それと同じように、社会科学もまた事象の次元の上にはないという。

社会科学が目的としているのは、一つのモデルを作り、そのモデルの特性や、そのモデルの実験室での様々な反応の仕方を研究し、次いで、これらの観察の結果を、経験できる次元で起こる、予見されたものからひどく隔たっている場合もありうる事柄の解釈に適用することなのである。(『悲しき熱帯』p.85)

社会科学は、モデルを作り、そのモデルが示す法則性を、経験できる次元の事柄の「解釈に適用する」。

まずモデルを先ず作ること。そのモデルの動きと、モデルにうつる影のゆらめきとのズレとして、経験可能な事柄についての説明を記述できるようになること。

レヴィ・ストロースはさらに続ける。

マルクス主義は、創始者がそれに与えた意味において理解する限り、地質学精神分析学とは、実在の中での異なった次元で、しかし同じ遣り方で働くように私には思われた。三つの遣り方がいずれも明らかにしているのは、理解するということは、実在の一つの型を別の一つの型に還元することだ、ということであり、真の実在は決して最も明瞭なものではない、ということであり、さらに真実というものの本性は、真実が身を隠そうとするその配慮のなかに、すでにありありと窺われる、ということである。(『悲しき熱帯』p.85-p.86)

理解するということは、実在の一つの型を別の一つの型に還元すること。

分かる、というのは分けること、即ち、互いに区別される「分けられたもの」たちからなる体系へと置き換えることである。

この還元すること、置き換えることは、どういう用語を使って考えるか、どういう意味内容をどういう価値の体系に組み立てるか、といったことを突き抜けて、そのすべての下でうごくある型を別の型に「還元する」プロセスなのである。

さて、私がその気配のようなものを感じ取り、それをどう言葉で記述できるのか、長年不明のまま探し続けた事柄。それはこのレヴィ・ストロースがいう、型から型へと「還元する」プロセスとして解釈できそうなのである。

還元するといっても、そこに多種多様で精密な暗号のような還元のパターンのルールのようなものがあり、しかもそのルールは変化しつづけているという。

そうしてレヴィ・ストロースは、「人類」という種の知性そのものがもつ、還元処理機能の動作パターンを、古の様式を変形させつつ受け継いできた神話や親族構造や、あるいは仮面の造形の中に探ろうとしたわけである。

レヴィ・ストロースが捉えた人類の癖としての還元処理のやり方は「区別すること」と「置き換えること」という、ふたつのごくシンプルな処理と、その重なり合いと、その重なり合い方の変容としてモデル化できる。

それについては下記の記事につづく。

あとはこのモデル自体に写像させて、なにをどこまで記述出来るか、である。

関連note

レヴィ・ストロースの神話論理について↓

生命と意味について↓



いいなと思ったら応援しよう!

way_finding
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。

この記事が参加している募集