意味分節理論とは(6) 発生しつつある意味分節システムとしての「構造」 -レヴィ=ストロースの”構造"とは? 『今日のトーテミズム』を"読む"
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『意識と本質』は井筒俊彦氏の主著の一つとも目される一冊である。
文庫本で約400ページにわたる『意識と本質』の最後には「対話と非対話」と題する論考が収められている。そこには次のようにある。
言語には第一に意味分節機能があり、第二に伝達機能がある。そしてこの二つの機能のうち真に重点が置かれるべきは意味分節機能の方である。しかし、そうであるにも関わらず、現代のコミュニケーションにおいては逆に伝達機能の方に「不相応な」重点が置かれてしまっている、という。
言語の「伝達機能」と「意味分節機能」
こういう具合にした方が良いというのに、逆に、
という具合になっている。
*
伝達機能も、もちろん言語にとって重要である。八百屋で「リンゴをください」と頼んでいるのにいわゆる「みかん」を渡されたら困惑するし、「お釣り9000円ね!」と言われつつ実際に手に渡されたのが「9枚の十円玉」だったら裁判沙汰である。ことばでも貨幣でも、その(ほぼ)唯一の意味を(意味されるものが何であるのかを)「みんな」がある程度共有してこそ、初対面の人が集住し分業する社会をうまく営むことができている。
*
しかし、言語というのはただひたすら伝達の道具でしかないのかといえば、そうでもない。むしろ伝達の道具としての姿は、言語にとっては二次的な、おまけ的な、転用された姿である。
では言語の第一次的な姿は何かといえば、それは「意味」を「分節していく」「プロセス」である。
意味を分節していくプロセスとは何のことかといえば、分けつつつなぐことである。あるいは、異なりながらも同じとすること、と言い換えてもいい。
(このあたりの詳しい話は下記の記事などに書いていますので、
参考にしてください)
何かと何かを互いに異なる事柄として分けつつ、しかし同時に、異なりながらも同じものとして一つにつつなぐこと。
そこには無数に多様な分け方の可能性があり、無数に多様なつなぎ方の可能性がある。
言語の第一次的な「意味分節機能」においては、無数の区別が至る所で発生しては消え、分節する線が現れたり消えたり、自在に走り回りつつ、至る所に「同じ」を結んでいく。
*
しかし、そこに、何かの弾みで、分け方を一定のパターンに切り詰め(つまりやっていい分け方と、やってはいけない分け方を、いつも同じパターンで分ける)、つなぎ方もまた一定のパターンに切り詰める(つまりやってはいけない結びつけ方と、やっていい結びつけ方とを、いつも同じパターンで分ける)、ということが始まると、「伝達機能」を前面に押し出した言語が出現する。つまりある一つの記号(意味するもの)の意味内容(意味されるもの)は排他的に特定の何かに決定済みやで、所与やで、変えられまへんなあ、という話になる。
分節機能を伝達機能に圧縮する言語アラヤ識
ちなみに、この「何かの弾み」が、どういう弾みであったのかという話を、井筒氏は「言語アラヤ織」というキータームを介して展開していく。
言語アラヤ識というのは大まかに煎じ詰めると、私たち一人ひとりが子供の頃、物心つくにあたって、ほぼ必ず他者から言語を伝承されるということである。
子供に伝承される=憑依する他者たちの言葉(身近な生者たちと、その生者たちに言葉を伝承した無数の死者たちの言葉)は、分け方もつなぎ方もあらかじめご丁寧に一定のパターンに決定すみのかっちりと固まった型枠のセットのようものになっている。
(このあたりの詳しい話は下記の記事にも書いていますので、
参考にしてください)
「私」が物心つく過程で特定の個々人たちから貸し与えられた、「頼みもせんのに」貸し与えられた、意味伝達の道具のセットとしての言葉の組み合わせパターンは、出来合いの完成品のように固まった、動かない、静的な姿をしている。
言語には、意味分節機能と伝達機能がある、という話で言えば、私たちは自分で意味分節機能の蠢きを意識したり、ゼロから分節機能を自覚的に働かせたりすることなく、遠い昔から何世代もかけて他者たちによって実行された意味分節の痕跡の上で、膨大な遺産を予め与えられたところから、出来合いのパターンをそれっぽく反復してさえ居れば、世の中での一義的情報伝達型のコミュニケーションにはあまり困ることなく、日々を送ることもできる。
*
とはいえ、言語がそのような伝達機能を担うことができるのも、元はと言えば、”互いに区別・分節された異なる二つの事柄を分けつつつなぐ、異なりながらも同じものとして結びつける”働きが動いているから、動き続けているから、である。
二つに異なるものを異なりながらも同じ一(というか不二)とおくこと。
これができなければ、そもそも「り・ん・ご」という”音”で、あの赤くて丸い果実を「表す」などということもできない。
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人類の知性の極み
ところで、ここで思い出すのはクロード・レヴィ=ストロース氏の『今日のトーテミズム』の結論部分である。
唐突に引用すると意味不明になる部分ではあるが、重要なので引用する。
ここでは人類の「文化」と「知性」ということの核心が論じられている。
人類の文化は、人類の知性は、「対立」から始まる。
対立?!
ここでいう対立というのは、おともだちにはなれません、いやいや仲良くしましょうよ、というような次元での対立ではなく、先ほどの井筒俊彦氏のタームに半ば強引に置き換えるなら、意味分節機能が発生させ続ける「分節」たち、ということである。
分節体系を発生させる意味分節機能の働きとは、何かと何かを別々のものとして分けつつ、同時に、異なりながらも同じものとして一つにつつなぐことであるが、ここでいう分けるということは二つのものを対立させるということであり、つなぐというのは分けた二つの項目をペアにする(二項対立関係に置く)ということである。引用を続けよう。
突然ルソーが出てくると何のことかと思われるかもしれないが、ここに至る経緯は『今日のトーテミズム』で読んでいただくとして、注目していただきたいのは「区別を維持したままで」「自覚するだけで一方の次元から他方の次元に変えることができる」というくだりである。
区別を維持したまま、一方を他方に変える
項の「区別を維持したまま」というのは項同士を互いに分けたまま、区別したままにしておくということ(区別が”分”からなくなってはいないということ)、つまり”分けつつつなぐ”の”分けつつ”のことである。
そしてこの区別を維持した「ままで」、同時に一方の次元から他方の次元に変えるというのであるから、これはつまり一方と他方を、何らかの二つの項を”分けつつつなぐ”ということである。これはさらに「同一であると感じながら区別する」、「同類(=同じ)を区別する(=分ける)」と言い換えられていく。
分けつつつなぐ。
項の区別を維持したままで、一方を他方に変える。
同一であると感じながら区別する。
同類を区別する(同じでありながら異なる)
あまりこういうのを短絡しない方が良いのであるが、せっかくなのであえて短絡してみる。どちらも同じようなこと、強いて言えば不一不二、ということを言わんとしている。
そしてこのような不一不二、項の区別を維持したままで、一方を他方に変えることができる「精神の状態」こそが、「人間」が人間であることの条件だという。
*
そして、この後にたいへんな一節がつづく。
人類の「分けつつつなぐ」能力のことが、ここでは「情念」と言い換えられている。そしてこの情念、分けつつつなぐ能力、つまり意味分節機能こそが「言語の起源」にあったというのである。さらにさらに、そういう生々しい情念の相にある、今まさに意味分節しようとするプロセスが無数に自在に動き回り始めた状態にある言語は「比喩的なもの」であった、という。
比喩というのは、お馴染みの”喩える”ということである。「炎のような心」、「氷の微笑」、「男は女である」。炎と心、氷と微笑、男と女、互いに異なる(区別される、分けられる)事柄を、異なったまま、区別を維持したまま、結びつける、一方を他方へ変える・変換する・変身させる。これが比喩である。
比喩こそが、伝達機能に固まったシンボルのシステムの中に、生の意味分節機能の躍動を突入させる。無数に多様な分け方の可能性があり、無数に多様なつなぎ方の可能性があることを、固着した伝達の道具と化した表層の言葉と意識に思い出させるのが、言語の第一次的な「意味分節機能」の揺らめく影としての比喩である。
なにやら折口信夫まで思い出す一節であるが、ここでも「比喩」として姿を現す言語の意味分節機能の重要性、第一次性が強調されている。
比喩に現れる意味分節機能は「言語を後から飾り立てる」あってもなくても良いオマケのようなものではなく、言語の根源的な姿であり、人類の論弁的思惟の最初の姿の一つである、という。
◇
レヴィ=ストロース氏の「構造」は、この項の区別を維持したままで一方を他方に変える、分けつつつなぐ動きが、言葉と言葉の関係として人類の意識の表層に浮かび上がる様を(分けつつつなぐ働きが、人類の「言語アラヤ識」の上澄に浮かび上がる様を)捉えようとしたものである、ということも出来そうである。
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構造 第一の区別を第二の区別に変える
ところで、”区別を維持したまま、一方を他方に変える”と言っても、これは単純な二項の関係のこと”だけ”を言っているのではない。
○ー○
もちろん、白と黒を分けた上で、「白は黒である」と言ったり、男と女を分けた上で「男は女である」とか「女は男である」と言ったりすると、確かに何やら”深い”ことを言っているような雰囲気は出るが、どうも取って付けたような感じになる。互いに区別される二項を単純に分けつつ結ぶだけでも、確かに意味分節の蠢く影の尻尾のようなものは見え隠れするのだけれども、なんというか、インパクトには欠ける。
”区別を維持したまま、一方を他方に変える”という場合、特に考えてみる必要があるのは、第一の区別を第二の区別に変えること、第一の二項対立関係を第二の二項対立関係に変えること、である。
『今日のトーテミズム』の一節を読んでみよう。
一を一に結びつけたらイエローカードだという話である(雑駁で申し訳ない)。
『今日のトーテミズム』は、従来のトーテミズムという概念やその理論と、それへの一連の批判を紐解いていく話になっているが、その途上でフォーカスされるのが一を一に結びつけた関係である。
一を一に結びつけるというのは、例えば「私はジャガーである」というような具合で、「私」なるものを「ジャガー」なるものに結びつけることである。
○ー○
どこかの部族に「私はジャガーである」という人(人々)が仮にいたとして、それに対しする可能な応答の形としては、「でも、あなたは人間であって、ジャガーではないですよね。それ妄想ですよ。」などと嘲笑ったり、あるいは「人間とジャガーの共通点は何か?」と問いを立ててみたり、といった可能性が考えられる。が、これらはいずれも、表層の固着した分節体系の中で、「伝達機能」に特化した言語の、かっちりと固定的に物事を切り分ける枠のようなものを前提として、その上でその中で、どこに何を入れようか、とやることになる。
○ = ○
あるいは、
(A) = (X)
こういう感じのモデルを立てて、Xに何が入る「べきか」を争うことになる。レヴィ=ストロース氏が、人類の知性の根底的なあり方から「警告」が発せられているというのは、まさにこういうやり方に対してである。
単純に二項だけを分けつつ結びつけることには、確かに日常の表層の固定的意味伝達のためのコードを逸脱してみたり、撹乱したみたりするおもしろさはある。が、しかしこの短絡的(いい意味で)結びつけを過度に反復しようものなら、それは容易に「コード違反です」「規則違反です」「エラーです」「オヤジギャグ」という具合に沈黙させられてしまう。
○=○
二項の間を誰彼構わず所構わずショートすることは、伝達のためのコードを相対化することで、規則正しいコードの存在を明るみに出すことはできるかもしれないが、コード自体を発生の相に、創発の相に、伝達ではなく意味分節の相に送り返すほどの衝撃力を発生させることはできない(のかもしれない)。
レヴィ=ストロース氏が焦点を合わせるのは、二項の間の短絡ではなく、第一の区別を第二の区別に変えることである。
上の引用の続きを読んでみよう。
またしてもとんでもないことがサラリと書かれている。これだからレヴィ=ストロース氏の書くものはおもしろいのである。
先ほど「警告」を受けたのは、一を一に結びつけることであった。
○ー○
そしてこの警告のアラームを止めるためには、一を一にではなく、いくつかをいくつかに結びつけることを考えれば良い。
いくつかをいくつかに結びつける。その一番単純な形は、二と二を結びつけることである。対立関係の対立関係である。
○ ー ○
|| ||
○ ー ○
この図で表現したいことは、第一の区別を第二の区別に変えること、第一の二項対立関係を第二の二項対立関係に変えること、である。
結びつきは、「いきなり」結びつく
しかも、この二と二の結びつきは「いきなり互いに相関および対立関係に入れられる」事柄であるという。つまりこの結びつきに先行して「Aには排他的にBだけを結びつける”べきだ”」とかいう類のルールやコードや規則のようなものが別に予め決められているわけではない、という。
いくつかといくつか、体系と体系、二と二の結びつき方は予め決められていない。しかし、「なんでもあり」かといえばそうでもない。
結びつきは"なんでもあり"だと言えなくもないが、反復されやすいものは"なんでもあり"ではなさそう
結びつきは勝手気儘なものではない、とはっきりと書かれている。そして次の一節に続く。
あるいくつかとあるいくつか、ある体系とある体系、ある二とある二が特に選ばれて結びつくのは「類似の知覚」に基づく、という。
つまり「似ている」というのである。
では何が似ているのかといえば、次である。
似ているのは類似点ではなく相違点-二項の違いが似ている
似ているのは、似ている点ではなく、相違点、違いである。
一体どういうことだろうか?!
上に続く一節を精読してみよう。
一方に、互いに異なるあれこれの体系があり、他方にまた別の互いに異なるあれこれの体系がある。この双方の体系内の異なり方どうしが「似ている」と知覚される時、一方の体系と他方の体系が、一方の二と他方の二が、「結びつけ」られる。
ここで例として、双生児は《鳥》であると言う(特に「ホロホロチョウ」のような地上の鳥)ある部族の神話に進む。その神話では「双生児は《一人の人間》だと言いながら」同時にまた「他方では《鳥》だ」とも言われる。
これを人間=鳥、という○ー○の関係、一と一の結びつきで考えてしまうと、適当なことを言っているようにしか思えなくなる。
しかし今考えるべきは、一と一の結びつきではない。
考えるべきは体系と体系の関係、最小構成で言えば二と二の関係である。
まずレヴィ=ストロース氏は次のように書く。
では、どうすれば説明がつくのか。
それについては、次のように続く。
双生児が鳥であるのは「双生児と鳥が一つであるから」でもなく、「双生児が鳥に類似しているから」でもない。双生児と他の双生児ではない人間との”違い”、が、天の鳥と地上の鳥との”違い”に似ている、ということである。似ているのは類似点ではなく、相違点である。
*
ちなみに、この双生児は《鳥である》の神話は、中沢新一氏がNHKの『100分で名著 レヴィ=ストロース 野生の思考』でも取り上げて居られた。
上に続けて、レヴィ=ストロース氏は次のように書く。
対立するものの対、すなわち、
○ ー ○
|| ||
○ ー ○
この四項のセットこそが、分けつつつなぐ、「項の区別を維持したままで一方を他方に変える」、人類の知性の根底にある意味分節機能から発生し続けている意味分節システムの最小構成である。言葉であれ道具であれなんであれ、ありとあらゆる「意味する」ということのアルゴリズムはこれである。
分節I→無分節→分節II
最後に、井筒俊彦氏の『意識と本質』に戻ろう。
レヴィ=ストロース氏は、人類の意味分節機能からの発生したばかりの"対立関係の対立関係"が一応形を成しつつも、まだ緩やかに動いているような状態を観察し記述のもとに齎そうとした。
井筒俊彦氏はこれを「分節I→無分節→分節II」の転換、切り替え、として記述する。「無分節」ということが前面に出てくるのが井筒氏のポイントである。もちろんこの場合の無分節は「有」分節と対立する「無」分節ではなくて、「有」分節と「無」分節、「有」と「無」の分節自体に先行する”無分節(絶対的無分節)”である。
(この辺りの話は井筒氏の『意識と本質』に詳しく書かれていますので、ぜひ読まれると良いと思います)
『意識と本質』では、分節Iは「有」本質的分節であり、分節IIは「無」本質的分節である、と書かれている(『意識と本質』p.144)。
分節I、有本質的分節は「同一律と矛盾律に支配」された分節である(『意識と本質』p.146)。
これに対して、分節IIは「同一律と矛盾律は効力を失」い「あらゆる事物が本質という留金を失」ったまま、それでもなお分節され続ける状況である。そこで事物は互いに分節されながら「しかも各々が存在の形而上的始源の直接無媒介的発現として現成する境位」にある(『意識と本質』p.146)。
冒頭の引用に「言語に対する禅の根本的態度」という一文があった。井筒氏は「存在の絶対無分節と経験的分節との同時現成こそ、禅の存在論の中核をなすものだ」と書く(『意識と本質』p.136)。禅とは、井筒氏の意味分節理論からすると「絶対無分節的存在の直接無媒介的自己分節」(分節II)を見ようとする営為ということになる。
この分節II、「絶対無分節的存在の直接無媒介的自己分節」を明晰な意識のもとに捉えながら生きることを、井筒氏はのちに『意識の形而上学』で「意味分節修行」とも書く。
意味分節修行、つまり分節する動きの蠢きを意識の下に捉える。また時に亢進した意識の下に捉え、時に静謐な意識のもとに捉える。あるいはわざと「意識的」に、シンボルの組み合わせパターンを日常の惰性化した姿から引き剥がし、捻じ曲げたり、あらぬところで重ね合わせたり、縫い付けたりする。
まずは試しに、○ー○、から始めてみると良い。それでいつでもこの世に戻ってくることができるようになれば、いよいよ区別と区別の変換、
○ー○
|| ||
○ー○
を動かしてみても良い。
が、
になり、
になる、という感じである。この最後の状態になると、全ての「項」が、ある二項対立関係の中の片方の項であると同時に、両義的で中間的、媒介的な、なんらかの二項対立関係に対する「第三項」で”も”あるようになる。
* * *
私たちは自分が知らず知らずに(伝承された=憑依された「意味分節のカルマ」としての言語アラヤ識から織り出されて)どういう対立関係を反復的に排他的に対立させて思考なるものを繰り出して(言葉の線形連鎖を連結させて)いるのか。
表面に表れた言葉の連鎖の底に、しばしば意識されないどういう対立関係の対立関係が隠れ蠢いているのか。
そうして、ハンナ・アレントが『全体主義の起源』の最後に書いている「超意味」のような、あらゆる対立をそこに回収してしまう絶対的に固定した対立を見極めて、その固定を解除すること。
伝達機能の底に、向こうに、意味分節機能の息づかいを聞き取るということは、途方もない、とんでもないことなのである。もちろん「いい意味で」のとんでもない、である。
そしてまた「読む」ということもまた、意味の伝達であると同時に、意味分節機能を起動することでもある。
なんと言っても、伝達機能と分節機能の対立もまた二にして一であり、伝達機能と分節機能との相互の包摂をこそ考えてみたいところである。
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